都市の痛み
広間の入口が見えた。天蓋から柔らかく注ぐ光の下、白い壁面を青白い回路の脈動が昇っている。
空気の甘さは最初の日と変わらない。清浄で、かすかに結晶を溶かしたような匂い。肺に入る温度はいつも一定で、凍えた身体が解けていく感触も、今では懐かしさよりも親しみとして馴染んでいた。
「エリ、来たよ。今日は三つ見つけた」
声は天蓋に吸い上げられ、空間の隅々まで広がった。カリンバの鍵に親指を載せたまま、ナナハルトは中央に向かって歩いた。
足音が四拍子のリズムを刻む。硬い踵が床を打つ音。意識せずとも、この都市の床を踏むとき、身体は勝手にこの拍を取る。
エリの振動と同期する呼吸。それはもう、彼自身の生体リズムの一部となっていた。
エリは広間の奥に立ち、ただ静かにそこにあった。
黒い外套の裾が、床を走る光の脈をかすかに遮っている。
光沢を帯びた黒髪が、天蓋の光を青く照り返していた。襟元のリボンだけが、その沈んだ色彩の中で異質な青を弾いている。
後方に反った山羊角の滑らかな曲線は、この人工的な空間において、皮肉にも唯一の自然物のように調和していた。
視線が重なった。冷たい検品でも受けているかのような、一方的な静止。明滅を繰り返すその瞳の奥に、所在なく立ち尽くす自分の姿が小さく映っていた。
ナナハルトは背嚢を下ろし、回収した部品を床に広げた。
表面にエリュシオンの回路と同じ精度の極細の線が走る、薄い板。使い込まれた歯車。そして、掌に収まるサイズのバルブ。天蓋から降りる光を受けて、それらは一様に青く偏光した。
「クレーナの工房にあった歯車に、外縁の通路で見つけたバルブ。あと、表層の石切場跡から掘り出したこの板。前と同じ種類だと思うんだけど」
カリンバを弾きながら説明を添える。
四拍子の旋律が言葉の隙間を埋めていった。以前の合奏の頃とは比較にならないほど指運びは滑らかで、音色は迷いなく明るい。
エリが一歩、距離を詰めた。
エリの指先が、まず薄板の表面をなぞった。
触れられた箇所が、呼吸を合わせるように微かに明滅する。指が一つの部品から次へ移るたびに、床を走る回路の明滅がほんのわずかに乱れた。
カリンバの軽快な四拍子は続いていた。だが、その音色の中で、ナナハルトの耳だけが異変を拾った。
エリの瞬きが、止まっていた。
音が、静かに歪んでいく。ナナハルトの指が揺れた。旋律はまだ続けていた。だが間もなくエリが顔を上げ、その目の奥に覚悟のような静けさが満ちた瞬間、カリンバの音は自然と止まった。最後の一音だけが壁に当たり、消えていく。
指先が部品から離れ、両手が身体の前で静かに組まれた。
「照合が終わったわ。あなたがこれまでに持ち出した、すべての部品と」
声は、都市の壁が震えて言葉になったような、あの平坦な質感。ただ事実だけを、空気の中に置いていく声だった。
「外殻の末端回路が、広範囲で焼き切れているの。数百に及ぶ欠損。この異常なエーテル漏出の波形と、外殻回路の欠損箇所が一致しているわ」
一つ一つの音節が、冷たい文字を置くように正確に並べられていく。
「あなたが持ち出した部品は、まだ生きた末端だった。地上の人間がそれを中核にして、古い機械を強引に繋ぎ合わせ、無理な高出力で起動しているの。その過負荷が都市側の接続点に逆流して、回路を焼き切っている」
エリの右手が、ナナハルトの袖口へ向かって伸びた。触れる直前で止まった指先が、見えない何かを読み取っている。
「付着しているわ。あなたの服にも。外部で駆動された際に発生する、特有のエーテル残滓が。しかも波形が二種類、混ざっている。少なくとも二人以上の適応者が、異なる方法で無理にエーテルを引き出しているわ」
ナナハルトは自分の袖口に目を落とした。使い込まれた革の飴色があるだけで、何も見えない。だが、そこには彼の知らない誰かの痕跡があると、エリがそう言うのなら事実だ。
「でも、エリ。これは不要なものだって、君が……」
「不要だと判断したわ。それは事実」
彼女は間を置かなかった。
「けれど、想定の外なの。地上の人間が、あれほど乱暴に許容量を超えて力を引き出すことは。この都市の防壁は、外からの逆流を計算に入れていないから」
次の音節が紡がれるのを拒むように、静寂が二人の間に落ちた。壁の光が三度、同じ場所を通り過ぎた。それだけの間、エリは何も言わなかった。広間の光脈だけが、静かに一定の周期で明滅を繰り返していた。
「都市が、痛む」
それは、ただの気温の報告と同じ重さで発せられた。都市を流れるもののすべてが傷ついているという事実を、これ以上ないほど短く告げた言葉。
だがナナハルトの耳は、その短い断言の奥に、彼女自身の震えのような音を聴いた。
「都市が痛むって……それは、エリ自身が痛い、ってことなの?」
エリの指先が、組んだ手の上で一度だけ動いた。
「定義できないわ。物理的な痛覚は、わたしには実装されていないの。損傷箇所が検知されて、修復の優先順位が更新される。システムとしては、それだけのこと」
ナナハルトはその言葉を信じなかった。理屈ではない。さっき、エリが「都市が、痛む」と告げた瞬間に、広間の壁が一瞬だけ、びりりと震えたのを指先が覚えていたからだ。けれど、それを口にはしなかった。言ったところで、エリは同じ答えを繰り返すだろう。
ただ、壁に手を当てたときに感じた、いつもより少しだけ速く、苦しげに波打っていた都市の鼓動を、ナナハルトは確かに聴いていた。




