ただいまの温度
村が見えたのは、日が傾き始めた頃だった。
山道を下りきった先に、数十軒の石造りの家が固まっている。
煙突から立ち上る煙が、風に叩かれて斜めに流れていた。冬の日差しは弱く、家々の壁に落ちる影は夏場の三倍ほど長い。
嗅ぎ慣れた、土の香りと生活の匂いがする。
ナナハルトの足が速くなった。
門の代わりに立っている一本の古い柳の木が見えた。その幹に誰かが寄りかかっている。小さな影だった。
「兄ちゃん!」
声が風を裂いて飛んできた。
妹のリーゼルだ。頬と鼻を赤くしてナナハルトの腰にぶつかるように抱きつき、革のコートの前を両手で掴んだ。
「遅い! 二十日で帰るって言ったのに、もう一ヶ月じゃん!」
「ごめん。少し遠かったんだ」
「嘘。兄ちゃんいつも少しって言って倍かかる」
否定できなかった。
家の前には母が立っていた。声は上げなかったが、扉を開けて待っていたことが、その立ち位置で分かった。エプロンの端を無意識に握っていて、ナナハルトの姿を確認すると、その手がゆっくりと開いた。
「ただいま」
「おかえり。怪我は」
「ない。今回は運が良かった」
落下は運が良かったのか悪かったのか、まだ分からなかったが、少なくとも怪我はなかった。母の目は息子の全身を素早く確認して、骨折がないことを確認し、それからようやく表情が少し緩んだ。
「リーゼル、お湯を沸かして」
「もうやってある!」
妹は走って家に戻った。母はナナハルトの肩に手を置き、何も言わずに家の中に導いた。
―
夕食の後、暖炉の前でカリンバを弾いた。
リーゼルが膝を抱えて聴いている。母は隣の部屋で明日の生地をこねていたが、手の音が時折止まるのは、聴いているからだった。
ナナハルトはいつもの曲を弾いた。リーゼルが好きな、父が教えてくれた子守歌。短い旋律が二回繰り返されて、三回目で少しだけ高い音に上がり、四回目で元に戻る。素朴な音楽だった。
指が勝手に動いた。
いつもと同じ曲を弾いているはずだった。だが二巡目の途中で、左手の親指の付け根が筐体の側面を叩いた。こつん、と低い打撃音が鳴った。
ナナハルトは自分の手を見た。
意識して叩いたのではなかった。旋律の下に拍の骨格を敷こうとする衝動が、指を先に動かしていた。港で船乗りたちと広場で叩き合ったリズム。オルガンの低音を振動で揺らした、あの手触り。身体が覚えていた。
「兄ちゃん、今のなに」
リーゼルが顔を上げた。
「今の、こつんこつんってやつ。前はやらなかったよね」
「……ああ。新しく覚えたんだ。箱を叩いて、拍を作るやり方」
「かっこいい。もう一回やって」
ナナハルトは苦笑して、もう一度弾いた。今度は意識して打撃を入れた。旋律の一拍目と三拍目の裏で側面を叩く。すると子守歌が、少しだけ違う響きを帯びた。素朴な旋律の下に、地面を踏み鳴らすような力強さが加わった。
リーゼルが目を丸くした。
「すごい。同じ曲なのに、全然違う」
同じ曲なのに、全然違う。
その言葉が、ナナハルトの胸のどこかに引っかかった。三週間で変わったのは、曲ではなく自分の指だった。地下都市の音楽が、身体の中に住みついている。
石畳と蒸気の町で刻んだリズム。千本のパイプの低音に打ち返した振動。エリのオルガンと重なった、あの不揃いで必死な合奏。
全部が指に残っていて、もう消えない。
「兄ちゃん、どこ見てるの」
「ん? 何でもない」
ナナハルトは首を振って、リーゼルの頭を撫でた。火の粉が暖炉の奥で小さく弾けた。
明日は、王都に聖遺物を献上しに行く。




