地上へ帰る
ウーラが用意してくれた寝台の上で、ナナハルトは壁を流れる光脈をぼんやり眺めながら日数を数えた。
村を出てから、もう二十日を超えている。リーゼルに二十日で帰ると約束した。母は何も言わなかったが、あの人は何も言わない代わりに帰りを待っている。
帰らなければ、とふいに焦った。
寝台を降りて、ウーラの部屋を出た。農園に隣接した居住空間は、いつも通り温かく、湿った植物の匂いに満ちていた。
「ウーラさん。帰ります」
ウーラは水耕棚の前にいた。白銀の髪を束ねた横顔が、ナナハルトの言葉を受けて少しだけ傾いた。
「今日?」
「もう遅すぎるくらいです。妹が怒ってると思う」
ウーラが微笑んだ。
「少し待っていて」
ウーラは、奥の棚から革のコートや着てきた洋服を取り出してきた。それらは、洗われていて、革の表面に染みついていた泥と汗の匂いはすっかり消え、服もきれいになっている。ウーラの農園の、あの青い果実に似た微かな匂いが移っていた。
「地上は寒いんでしょう? もう冬なのよね」
「はい。雪が降っていなければいいんですけど」
ウーラが背負い鞄に何かを入れた。布に包まれた小さな塊だった。
「果実よ。地上に持ち出しても、しばらくは瑞々しいままだから。帰り道で食べなさい」
「ありがとうございます」
ナナハルトは地下の衣服を脱ぎ、革のコートに袖を通した。肩に馴染んだ重さが戻ってきた。腰のカリンバを確認し、背負い鞄を担ぐ。ウーラの用意してくれた服はきちんと畳んで寝台の上に置いた。
「……また、来てくれるのよね」
ウーラの声が、いつもより少しだけ小さかった。
「はい」
ウーラが両手を広げた。白い腕がナナハルトの頭を包み込む。蛇の下半身は冷たいのに、腕から首にかけての肌はしっかりと温かく、包み込まれた頭が白い髪の甘い匂いの中に埋まった。
「気をつけて帰りなさいね」
―
クレーナの工房に寄った。
壁面に工具が整然と並んだ作業場で、黒い梟の管理者は修繕の手を止めなかった。ナナハルトが帰ることを告げると、壁に向かったまま短く頷いた。
「クレーナさん。一つ、お願いがあります」
「何だ」
「何か持って帰れるものはありませんか。探索者として、王に献上するものが要るんです。それがないとこの冬、家族が越せない」
クレーナの手が一瞬止まった。
それから無言で作業台の下の棚を開け、小箱を一つ引っ張り出した。中には小さな金属片、回路の断片、用途の分からない歯車やバルブが詰まっていた。調整に失敗した予備品や、交換して余った末端部品のたぐいだった。
「ゴミだ。好きに持ってけ」
クレーナはそれだけ言って、壁面の修繕に戻った。
ナナハルトは小箱の中身を一つ一つ手に取った。掌に収まるほどの薄い板には髪の毛よりも細い線が幾何学模様を描いている。地上の技術では到底作れない精度だった。歯車は歯の揃いが村の鍛冶屋のそれとは比較にならない。都市にとってはゴミでも、地上ではこれらはすべて『聖遺物』だ。エーテルの輝きを内包する部品であれば、王国に献上できる。
見栄えのよいものを選んで背負い鞄に詰めた。
「……ありがとうございます」
クレーナは答えなかった。だが修繕の手が止まり、顔だけが少しだけこちらを向いた。
「小僧」
「はい」
「手は、忘れるなよ」
工房で教わったことを忘れるな、という意味だった。ナナハルトは深く頭を下げた。クレーナはもう壁に向き直っていた。
―
すでに、エリが通路の先に立っていた。
黒い外套の裾が、回路の光を受けて青く縁取られている。どこから来たのかは分からなかった。彼女はいつもそうだった。気がつくとそこにいる。都市そのものだから、都市の中のどこにでも行けるのだろう。
「案内するわ」
エリが先に歩き出した。ナナハルトはその背中を追った。
通路は静かだった。ナナハルトの靴底が石畳を踏む音と、エリのかすかな衣擦れだけが反響している。壁を流れる光脈が二人の影を伸ばし、曲がり角で折り畳み、また伸ばしていく。
この通路を歩くのも、今日が最後だ。
歩調がいつの間にか遅くなっていた。壁の青い光が視界の端を流れても、もう足がすくむことはない。天蓋から降り注ぐ暖色の光が、石畳の上に薄い影を落としていた。
エリは何も言わなかった。ナナハルトも何も言わなかった。言葉にすると、足が止まりそうだった。
―
エーテル経路の入口は、居住区の外れにあった。
壁面に走る光脈が一箇所で太く合流し、そこから奥へ向かって半透明のチューブが伸びている。直径は人が立って通れるほどで、内壁がうっすらと青白く発光していた。チューブの内側を流れるエーテルが低い唸りを上げ、入口付近の空気が微かに甘く湿っていた。
「これを使えば地上の出口まで直接出られるわ」
「あの落ちてきた穴にか」
「異なる場所。あなたの住む場所のできるだけ近くに設定したの」
チューブの中を覗き込むと、光が上層へ向かって流れている。天蓋を巡った時と同じ、身体ごと運ばれるエーテルの経路だ。
エリの外套の裾が、チューブから吹き出す気流に煽られて、ほんの少しだけ揺れた。
「そのまま放り出されたりはしないだろうな」
「出口で止まる。そう作ってあるわ」
ナナハルトはチューブの入口に片足を踏み入れた。エーテルの流れが靴底を通じて足裏に届いた。そっと引かれるような感触だった。
踏み入れた足を軸にして身体を回し、通路の方を向いた。
回路の薄暗がりの中で、エリの輪郭だけが青い光脈に縁取られて浮かんでいた。外套の黒と角の黒が影に溶け、壁の光を拾った肌と瞳だけが、暗闇の中で静かに光っていた。
「エリ。また来ていいよな」
エリは答えなかった。チューブの中をエーテルが流れる低い唸りと、壁面の光脈が脈打つかすかな振動だけが、二人の間を満たしていた。
「都市はあなたの足音を記録したの」
つまり来てもいい、と言うことだ。まだクレーナには教わりたい事があったし、何よりエリとはまた会いたい。
「ありがとう。絶対に来るよ」
ナナハルトが笑うと、エリの角の先端が一瞬だけ光った。小さく、しかし確かに。
チューブの中に身体を預けた。
一瞬の浮遊感の後、視界が光の帯に変わった。壁に走る回路が凄まじい速度で後方に流れていく。風圧はない。代わりに濃密なエーテルが皮膚の表面を撫で、革のコートの繊維の隙間にまで入り込んで、内側から温めるような圧がかかっていた。地下都市の熱が、最後にもう一度だけナナハルトを抱きしめているようだった。
やがて光の色が変わった。青白い回路の光が消え、代わりに灰色の岩肌と、その向こうに外光が見えた。
しばらく通路を歩くと、隙間から外光が射す扉が見つかった。扉には回路と同じような線が刻まれている。触れると、扉が開いた。
扉の向こうは瓦礫だった。だが瓦礫の隙間に、灰色の空が見えた。
ナナハルトは瓦礫をどけて、地表に這い出た。
吐いた息が白く凍りついた。鼻腔の粘膜が一呼吸で乾き、肺に入った空気が氷の塊のように重かった。地下都市のエーテルの甘さは跡形もなく、山脈の稜線を削ってきた北風が、革のコートの縫い目という縫い目から体温を奪っていく。
ナナハルトは無意識に腰のカリンバに手を伸ばした。凍てつく風の中で、金属の鍵だけがまだ、微かな熱を帯びていた。
そこはいまは使われていない石切り場の跡だった。見覚えのある景色だ。落下した地点とは違っている。ここからなら、一日半で村に着ける。
「こんな近くに、入口があったんだな」
振り返ると、扉は閉まっていた。なんとなくそうしたほうがいいだろうと、ナナハルトは瓦礫をできるだけ元に戻した。
北方の冬の空の下、雲が山脈を押し潰すように這っている。三週間前、この山に入った時と同じ景色に見えた。
だが、ナナハルトの身には明確な変化があった。背負い鞄の中でクレーナの部品が革越しに背中を押し、カリンバの鍵にはまだ地下の温もりが残り、革のコートの繊維からはウーラの農園の匂いが微かに立ち昇っていた。エリの事を考えると、心が、暖かくなった。




