調律を覚える
翌日、ナナハルトが工房に着いた時、クレーナは昨日とは違う壁面の前に立っていた。
回路の損傷箇所はすでに修復されていた。昨日の歪みがあった場所は、流れの速度が完全に均一に戻っている。クレーナの手が一晩でそれを仕上げたらしかった。
ナナハルトは触れて確かめた。滑らかだった。脈が飛ぶ感覚はもうない。
「直ったのか」
「直した。だが見せたいのはそこではない。こっちだ」
クレーナが指し示したのは、修復箇所のすぐ隣、一見すると何の問題もなさそうな正常な回路の帯だった。
言われるままに手を当てた。
正常だった。リズムの乱れはない。均一な拍動が流れている。温度も安定している。
「何も感じないが」
「耳で聴け」
耳、という言い方にナナハルトは少し迷った。だが昨日と同じように目を閉じ、指先の感覚に意識を集中させた。
正常な拍動。均一な流れ。問題はない。
だが、しばらくそのまま指を当てていると、微かな違和感が浮かんできた。歪みではない。拍動は正確だった。ただ、その正確な拍動の一つ一つに、必要以上の力が込められていた。
カリンバの弦に例えるなら、正しい音程で鳴っているが、弦の張りが強すぎる状態に近い。
音は合っている。でも、指を離した後の余韻が長すぎる。振動が収まるまでに時間がかかっている。
その間、弦は鳴り続ける。鳴り続ける間、エネルギーが使われ続ける。
「……力が入りすぎている、のか」
「近い」
クレーナの声に、昨日とは違う種類の関心が混じっていた。
「回路は歪んでいなくても、無駄に消耗している箇所がある。正しく動いていても、効率が悪い。波形が荒い。音で言えば、倍音が多すぎる」
ナナハルトは指を壁面に当てたまま、その感覚を追った。確かに、拍動そのものは正確でも、一拍ごとに微細な振動が尾を引いていた。その尾が隣の回路に干渉し、干渉が別の回路にまた干渉し、ごくわずかな揺れが連鎖的に広がっている。
一つ一つは些細な揺れだった。だがこの工房の壁だけで、それが何十箇所もある。都市全体なら、途方もない数になる。
「この余分な振動を削れるか」
クレーナが問うた。問いというよりは、技能の有無を測る検査に近い口調だった。
「削る」
「波形を整えろ。余分な倍音を落として、基音だけを残す。弦の張りを正しい強さに戻すのと同じだ」
両手を壁面に当てた。左手で回路の拍動を聴き、右手の指先で工具の代わりに圧力を加えた。波形を感じ取り、余分な振動の尾を探す。
カリンバの調律と同じだった。
弦が強すぎれば緩め、弱すぎれば締める。
ただそれだけの作業を、目ではなく指の骨で伝わる振動だけを頼りに行う。
広場で掴んだヴィェランの拍子の感覚が、そのまま指先の精度に変換されていた。五を底にした四の、あの複雑で正確なリズム感覚が、今は回路の波形を読むための物差しになっている。
最初の一点に触れた時、余韻が短くなった。
二点目。振動の尾が切れた。
三点目を終えた時、ナナハルトは自分でも分かった。
回路を流れるエーテルの脈が、明らかに軽くなっていた。同じ量のエーテルが、同じ速度で流れているのに、そのために消費される力が少なくなっている。
「変わったな」
自分で呟いた。
クレーナがナナハルトの手元に目を落とした。工具も使わず、指先だけで回路の効率を変えた少年の手を見ていた。
長い沈黙があった。
「……小僧」
「ああ」
「お前が今やったことを覚えておけ。波形を整え、余分を削ぎ、同じ力で回路をもっと長く動かす。それが調律だ」
ナナハルトは頷いた。理屈は単純だった。弦楽器の調律を、エーテル回路に応用しただけだ。難しいことをした感覚はなかった。
「これを都市全体にやったら、かなり楽になるな」
何気なく言った。都市のエーテル消費が減れば、エリの負荷も減る。クレーナの修復作業も減る。住民の生活も安定する。良いことしかない、と素朴にそう思った。
言ってから、返事が来ないことに気づいた。
クレーナは答えず、振り返りもしなかった。ただ、作業の手つきだけが、わずかに硬くなった気がした。
それが簡単な話ではないことだけは、伝わった。




