黒猫の訪問
正確には、叩かれたというよりは、硬質な扉の表面を鋭利なものが微かに擦る音がした。
ナナハルトが顔を上げると、細く開いた扉の隙間には深い影があるだけで、足音は一切しなかった。
だが、そこだけ周囲の音がすっぽりと抜け落ちているような不自然さと、床を伝ってくる微細な体重の掛かり方だけで、そこにいるのが防衛コードのルカであることは容易に分かった。
「ルカ、入り口で聴いてたのか」
「違うね」
返答は早かった。
「入り口で何してたんだ」
間があった。
「やっぱり、音を聴いてんだろ」
何の音かは言わなかった。だが工房の中でナナハルトとクレーナが作業している間、ナナハルトが時折口ずさんでいたことは自分でも覚えていた。回路に触れながら、その振動に合わせて無意識に声が出ていた。
扉がゆっくりとさらに開いた。
足音はなかった。滑り込んできたのは、ひきしまった四肢を持つしなやかな黒猫だった。
開いた扉の先に少年の姿はなく、代わりに黒猫が立っているのを見て、微かに目を瞬かせた。
だが、低い姿勢で部屋の隠々へ向ける紺碧の目と、尻尾の先まで抜かない力の入り方は、どこから見ても『防衛コード』のそれだった。
工房のクレーナがふくろうの声と姿を持っていたように、彼らにはそれぞれ別の形態があるのだろうと、素直に納得した。
「エリュシオンがいる」
入るなり、黒猫は鼻先を振って、紺碧の目を丸くした。
「エリュシオンから通達が来なかった、警戒してたけど……」
「通達はないわ。個人的に来ているもの」
エリが作業台の端に腰を下ろしたままそう答えた。
そこがちょうど光の当たらない位置で、影と外套の黒が重なったエリの姿は、注意して見なければ気づかない暗さに溶けていた。
ルカの耳が数度動いた。
「この区域に来るなんて聞いてないね」
「義務はないわ」
エリは淡々と答えた。
「義務の話じゃないだろ。こっちは警戒態勢を組む必要があるんだよ」
「あなたに気づかせなかった時点で、警戒の必要は証明されていないわ」
ルカが言葉に詰まった。ほんの一瞬だったが、明確に詰まった。ナナハルトはそれを見て、表情を動かさないようにした。
警戒態勢とやらで、すぐに立ち去るかと思えた黒猫はそのまま居座るつもりらしく、壁際にある木箱の上に跳び乗ると、行儀良く前脚を揃えて座り込んだ。
「作業の邪魔はしないからさ」
ルカはナナハルトの視線を感じていただろうに、わざとクレーナにそう告げた。
クレーナは「居ていい」とは言わなかったが、すでに視線を回路に戻しており、構わないという意思表示としては十分だった。
ナナハルトも工具の持ち方を確認しながら、自分の持ち場に戻った。
「音、下手なのを聴かされることになるぞ」
自嘲気味にそう言った。
「聴かされてやってもいい。その音、悪くないから」
黒猫は警戒態勢というには寛いだ様子で、目を閉じた。
その様子は、地上でカリンバを鳴らした時に音に惹かれて集まってきた無害な動物たちと同じだった。
防衛行動とは無関係な、ただ音を聴かずにはいられないという種類の渇望が、壁を背にした黒猫の静かな呼吸から透けて見えていた。
工具を構え直して、クレーナの指示を待った。




