エリュシオン居住区
エリュシオンの居住区は、昨日の巡回で上から見下ろした風景とは全く違う密度を持っていた。
チューブの透明な壁越しに見た時、人の流れはどこかの川の支流のように整然として見えた。
個々の動きが集まって全体の流れを作り、交わるべき場所で交わり、分かれるべき場所で分かれる。だが今、その川の中に入ってみると、整然さなどどこにもなかった。
左から来る老人の荷車が、前を横切る少年の走りに気づかず車輪の向きを変える。
路の角から出てきた職人の革製エプロンが、反対から来た女の肩掛けに一瞬引っかかって、双方が互いに会釈する。石畳の継ぎ目のわずかな段差を避けて全員が微かに体の重心を移し、その一連の補正がドミノのように後ろへ伝わっていく。
その中を歩きながら、感覚が少しずつ上書きされていくのを感じていた。
皆、清潔だった。地上の市場では見かけない種類の清潔さだった。布地が薄汚れていない。革靴の先に泥が積もっていない。皮膚の色が均一に明るい。
地上の都市で『清潔な人間』と『そうでない人間』を分けるのは大抵は余裕だったが、ここでは全員が同じ水準の清潔さを持っていた。排水路の整備が行き届いているのだろうか。それとも水が安価に行き渡っているのか。
昨日、お風呂に入っておいてよかった。そう思ったが、口には出さなかった。
衣服の装飾も独特だった。エーテル回路の意匠を刺繍した帯を腰に巻いた女性。袖口に細い金属線を織り込んだ上着の男性。子どもの帽子に小さな歯車の留め具が付いている。どれも実用の延長にある飾りで、見た目だけの贅沢とは違う種類の豊かさだった。
すれ違う際に耳に届く彼らの会話も、奇妙な違和感を持っていた。
使っている語彙そのものは地上のヴィンターガルドと同じはずなのに、誰の発音も荒々しい訛りや省略がなく、まるでゆったりとした古い歌を口ずさむように滑らかだった。
それは、地上の市場で飛び交う怒号とは、根本から違う音だった。
横に歩くエリの視線が前方を向いている。
住民たちの目が触れることはあった。だがコバルトの布は正確に機能していた。通り過ぎる人々は一拍の間を置いてから視線を外した。
何かいると気づきはしても、それが誰だとは分からないまま、日常の流れに戻っていくようだった。
「こういう感じが普通か」
思ったことがそのまま声になっていた。
「普通」
「地上より豊かだ」
エリは少し考えてから、答えた。
「あなたたちが地上で燃やす熱は、掘り出して運ぶあいだに冷めて散っていく。ここでは産み落とされた熱が、そのまま冷めずに命へ届く。こぼれ落ちるものがないわ」
視線が自然と石畳に落ちた。この石畳の下にも回路が走っている。温度も、光も、すべてが管理されている。行き場をなくした熱がないから損失がない。
そしてその管理をしているのが、今自分の隣を歩いている少女だ。
視線を前に戻すと、道の先に大きな建物が見えた。
昨日訪れた静謐な聖域とは全く違う、職人たちの活気と金属音に満ちた、居住区の巨大な工房だった。




