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エリュシオン・マトリクス

 ターミナルの中心部に差しかかった瞬間、それまで重なり合っていた風切り音も浮遊板の駆動音も運搬船のエーテル噴射音も一斉に遠退いた。

 代わりに澄んだ一音が空間を貫いた。パイプオルガンの一本の管が単音を長く伸ばしたような、無機質で澄みきった音だ。チューブの壁面が共鳴し、足裏から脛の骨を伝って頭蓋の底まで響いてくる。

 音が止むと、声が続いた。


「エリュシオン全区における環境循環指数、正常範囲を維持。第七農業区の水質純度、基準値内。第十二居住区の気温調整、完了」


 聞き覚えのない言葉が次々と続いた。水質純度、気温調整、回路稼働率――意味は掴めないが、祈りや歌とは明らかに違う。何かの報告だった。


「あの機械みたいな声は何だ?」


「アナウンス。都市の全体状態を報告しているの」


 エリは歩みを止めずに答えた。


 だがその報告の冒頭に置かれていたのは、さきほど広場で何千もの人間が呼んでいた名前と同じだった。『エリュシオン』。水質や気温の管理報告に、あの祈りの名前がくっついている。


 アナウンスは続いていた。


「エリュシオン・マトリクス管轄下、全コードの稼働状態を報告」


 そう告げられた瞬間、ターミナルの壁面を走る無数の光脈が一斉に脈拍を速めた。


「コード・フェリス、防衛巡回を完了。コード・ストリクス、第三回路帯の修復を完了。コード・コルビア、環境記録の更新を完了。コード・ラミア、本日の供給スケジュールを開始」


 壁に押し当てた手のひらが強張った。


 防衛巡回。回路帯の修復。環境記録。供給スケジュール。

 四つのコード。四つの役割。


「……昨日会った、あの四人か」


 ナナハルトの声は小さかった。コード名の意味は分からない。だが、防衛はルカ、修復はクレーナ、記録はクイル、供給はウーラ――昨日の四人が何をしていたかを思い出せば、自ずと繋がった。


「あれは、わたしの一部」


 エリが答えた。振り返らなかった。


「昨日あなたが会った。爪、手、目、血潮。彼らはわたしの機能なの」


 ナナハルトはゆっくりとエリのほうを向いた。


 エリはチューブの中央に立っていた。アナウンスの残響がまだ空間に溶け残っている。


 チューブの外では、運搬船のエーテル噴射が空洞の壁面を震わせ、数十の浮遊板が異なる高度で軌道を描き、荷の積み下ろしの金属音と作業者の声が反響している。その下の居住区からは数万の生活音が地鳴りのように押し上がってきていた。


 黒い外套に覆われたか細い肩。ナナハルトの胸にも届かない背丈。靴底が透明な床を踏む音は、都市を巡る機械の唸りにかき消されて、耳を澄ませなければ聴こえない。


「エリュシオン・マトリクス・トラゴス――わたしの識別名。この都市の環境制御と、四つの末端コードを統括するシステム。それがわたし」


 エリの声は、アナウンスの残響が消える前に終わっていた。ターミナルの駆動音の中に、呆気なく吸い込まれて消えた。


「……エリ」


 ぽつりと、名前を呼んだ。


 少女の瞳の奥で、何かが一瞬だけ揺れた。ターミナルの光の加減だったかもしれない。だがナナハルトの目には、それが確かに映った。


「都市の端から端まで全部、エリなんだな」


 彼女が答える前に、ターミナルの遠方で新しい運搬船が発進し、エーテルの噴射音が空間を圧した。


 青い光の帯が空洞を斜めに横切っていく。その光の中で、エリの角の表面を走る細い青筋が、ほんの一瞬だけ、回路の明滅と同期するように光った。


 チューブは静かにターミナルの外周を巡り、やがて下降軌道に入った。数万の灯りが再び近づいてくる。都市の鼓動が足裏から戻ってくる。


「明日は居住区の工房へ案内するわ。クレーナがそこで待っている」


 エリが前を向いたまま言った。昨日訪れた中枢区の静まり返った工房とは違う、あの無数の灯りが蠢く街中に、クレーナの別の作業場があるらしい。


 下降を続けるチューブの中で、ナナハルトはエリの背中を見ていた。都市の重低音が壁を通して骨を震わせ続けている。あの小さな背中が、この途方もない都市のすべてなのだ。

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