第六話 疑問
翌日は透き通るような、青みを帯びた空を眺めながら歩いた。昨日の学校帰りに見た、赤い空が嘘のようだった。赤い空は、雨の前触れという。赤い空を見たエリアは、朝から雲に覆われて傘が必要になることが多い。そのため、今日は雨を覚悟していた。雨ならベンチに行くことはできない。文芸部で過ごしてから、自宅に帰るという選択しかなくなる。でも、この天気なら雨が降ることはなさそうだ。
通学路に入ると、いつものように、友達同士で登校する生徒が増えていく。学校に到着すると、学生たちの声と足音で廊下が騒がしい。教室に入っても、話し声が響き渡る。友達同士が会話する声を聞きながら、自分の席に座った。午前の授業が終わり昼休みに入ると、再び学生たちの声と足音で廊下が騒がしくなる。僕は昨日のことがあったため、今日は教室から出ないことにした。あちこち動き回ったり、四組の教室の方に行くと相馬に声をかけられるかもしれない。城野のことは気になるが、今日は気持ち的に動くことができなかった。
昼休みを難なく乗り越え、午後の授業が始まる。授業が終わると、文芸部の部室には寄らずに川沿いのベンチに向かった。文芸部に入ってから、初めて部活をさぼった。とくに理由はないが、なぜかベンチに今すぐ行きたかった。今日は、ベンチに呼ばれている気がする。ベンチに行けば、城野に会えるかもしれない。
午後の光が薄れ、夕暮れの空を背景に一人で歩く。ベンチに着いたが、城野の姿はない。僕はベンチに腰かけ、小説『野良犬トビーの愛すべき転生』の続きを読んだ。ちょうど、少年イーサンに引き取られた愛犬ベイリーが生涯を終えた。大人になったイーサンに見守られながら、息を引き取る。イーサンは、すごく悲しんでいた。文面から伝わるイーサンの表情が、僕の涙腺が刺激する。けれど城野が来た場合、泣いている姿を見せられない。僕は、必死で涙をこらえる。涙をこらえながら小説を読んでいると、背後から「わぁ!」と大きな声と同時に背中を押された。
急な出来事に驚いた僕は「わぁ」と声を出し、小説を地面に落としてしまった。何事かと思い、後ろを振り向く。まぁ僕を驚かすのは、一人しかいない。目の前にいたのは、口元を手で覆いクスクスと笑っている城野だった。城野の笑っている姿を見て、僕もクスっと微笑んでしまう。僕たちは、その場の楽しさから笑いあっていた。笑い終えると、地面に落ちた小説を拾う。なぜか城野は、まだクスクスと笑っていた。僕の驚いた姿が、そんなに面白かったのだろうか。
「笑いすぎだよ……」
「ごめんごめん。やっぱり、面白くて」
「ひどいなぁ。心臓が止まるかと思ったよ」
「ごめんって。なんか、最近暑くなってきたね」
「そうだね。嫌になっちゃうよね」
「けど、ここは丁度いい風が吹くから気持ちいい」
「川風だろうね。川沿いは、水辺特有の涼しさがあるからね」
「そうなんだ。あんまり、川辺に行く機会なかったから知らなかった」
「昔、気象学の本を読んだときに書いてあっただけ」
「そんな本も読んでいるの?」
「家に色んな本があったから、そのせいだよ」
「あっ『僕のワンダフル・ライフ』読んでいたの?」
「そうそう。いま読んでたんだ」
「どこまで進んだの?」
「愛犬のベイリーが死んじゃったところ」
「泣けるよね〜。ベイリーの視界が段々と狭まっていくシーンを思い出しちゃうよ」
「やっぱり泣いた?」
「号泣したよ。けど、私は第二の人生の話も好きだよ」
「ちょっと、待って。第二の人生?」
「あっ。ごめん、ネタバレだった?」
「でも、タイトルに転生って書いてあるからそうだよね」
「生まれ変わって、イーサンを追い求め続けるんだよ」
「なるほど。それは面白くなりそうだね」
その後、城野に軽いネタバレをされながら会話をした。このまま続くと、小説を読み終える前に城野から結末を聞かされるかもしれないが、いつも通りの城野で安心した。途中で別の会話に切り替えて話をしていると、夕闇はどんどん夜の暗さに変わっていた。結局、昨日のベンチの件は聞かず、城野と同じ四組にいる相馬のことも話さなかった。
話の途中で城野は、糸のように細く澄んだ声で「そろそろ、帰ろうかな」と言い、ベンチから立ち上がった。僕もベンチから立ち上がると、小さな風が体を通り抜けた。生暖かい風ではなく、少し涼しい風だった。目の前の川から、来る川風だろう。陸地と水面の温度差によって、発生する冷たい風が蒸し暑くなってきた夏夜を冷やしてくれた。
「風が気持ちいいね」
「そうだね」
「来月から、本格的な夏かぁ」
「もう少しで、このベンチで過ごすのも少なくなるかもよ」
「そうなの?」
「だって、今はいいけど八月の夜は、更に蒸し暑くなると思うよ」
「そう? 少しくらい汗をかいた方がいいと思うよ」
「そうだけど、少しじゃなくて大量の汗かもよ」
「大丈夫、手持ち扇風機で対策するから。けど、ここなら川風もあるから涼しいかもよ?」
「確かにそうだね」
人間は、適度に汗をかいたほうがいいのは間違いない。体温調節だけでなく、健康面や美容でも多くのメリットがある。新陳代謝の促進や肌の保湿、ストレス軽減などの効果があるというが、蒸し暑い中を耐えて汗をかくというのは本当に体にいいのだろうか。疑問を抱きながらも、無理やり納得する方向に持っていく。
「けど、冷房病には気をつけたほうがいいよ」
「冷房病?」
「暑い場所から冷えた場所に行き来し過ぎると、急激な気温差によって疲労感や肩こり、胃腸が悪くなっちゃうよ」
「そうなんだ。城野さんは、冷房病にならないように気をつけているの?」
「もちろん。部屋の温度は一定にして、冷えないようにカーディガンとか羽織ったりしているよ」
「対策しているんだね。僕は、いつもキンキンに冷やして風に当たっているよ」
「体壊しちゃうよ? 気をつけなきゃ駄目だよ」
「僕も城野さんを見習わないと」
「元気そうで良かった」
「え? あぁ、この前のこと?」
「うん。大丈夫だったの?」
「大したことじゃないんだ。心配かけてごめん」
「それなら良かった。なにかあれば、相談していいからね。じゃ、またね」
城野は、この前の出来事を覚えていたようだ。すっかり、忘れていると思っていた。思い出したくない過去を思い出してしまったせいで、変に心配をさせてしまったことを申し訳なく思う。本当は、落ち込んでしまった理由を話すべきだったのだろうか。悩みを話さなかったということは、まだ心のどこかで信用しきれていないのかもしれない。それとも、恥ずかしさで言えなかっただけなのだろうか。僕には、よくわからなかった。
城野に、過去の出来事を言う勇気が出ない。こういう話は、いつ話すべきなのだろうか。もっと仲を深めてから? それとも今が言うべきだったのか? 僕がこんな話をしたら、城野はどんな反応をするだろうか。城野は優しい人だから、もしかしたら励ましてくれるかもしれない。でも、僕は過去のことを言ってかばって欲しいわけじゃないし、同情して欲しいわけでもない。僕は、これ以上思い出さないために話したくないだけ。過去のことを消したいだけだ。嫌な思い出を脳内から削除したい。ただ、嫌なことから逃げ出したいというだけかもしれない。
僕は城野の姿が見えなくなるまで、ベンチを離れなかった。城野の姿が見えなくなると、僕はベンチをあとにして自宅に戻った。考え事をしてしまうと、時間の流れが風のように早い。本を読んだり、城野と話すたびに知識だけが増えていく。使う場所があるという訳ではないのに。ただ城野と出会ってから、少しだけ変わった気がする。
変わったと言っても、外見や性格に変化が起きたわけではない。友達を作るのを恐れているのは変わらない。でも、あの事件以降これほど誰かと話すことがあっただろうか。今まで、同級生と話すのは少し抵抗があった。話しても、また裏切られるんじゃないかと考えてしまう。それなのに、城野と話すのは平気だ。城野とは、話したいと思ってしまう。なんで城野とは……僕はベッドに横たわり考える。
目を閉じているのに、異様に明るく感じる。僕は、いつの間にか眠ってしまっていたみたいだ。目を開くと、部屋の電気はついたまま。窓からは、太陽の光が差し込む。いつも以上に明るい空間に違和感を感じたが、目覚めは良かった。また、寝起きなのに僕の心は躍っている。それは、明日から待ちに待った夏休みが始まるからだ。日本中の学生たちが、興奮を抑えきれない日に違いない。一般的に夏休みの過ごし方といえば、勉強や部活動、バイト、友人と遊んだり、家族で旅行に行くなどだろうか。
僕は、家族で旅行に行く予定もなければ、友達がいないから出かけたりすることもない。今の所、勉強や読書をする毎日になるかもしれない。学校に行かなくていいのは有り難いが、退屈な長期休暇になるだろう。家を出て、空を見上げるといつも以上に輝いて見えた。昨日よりも強い日差しが、僕の目に差し込んでいるだけかもしれないが、やっぱり輝いて見える。
でも、今日に限って時間の流れがゆっくりと感じる。永遠と続く午前の授業、午後の授業が終わる頃には丸一日かかったような感覚だった。授業が終わると、文芸部の部室に向かう。夏休み前、最後の部活動だ。でも部室に向かっている途中、廊下で最も会いたくない人と再開してしまった。目の前には、相馬がいた。僕は顔を見て、「あっ」と声を出してしまった。
心の中で「まずい……」と思いながら、目線を違う場所にそらす。相馬は、ゆっくりと僕に近づいていくる。それを見て、僕の右足はゆっくりと後退していく。今すぐ逃げ出したかったが、部室に行くには相馬を通り過ぎなければいけない。後ろには、他の生徒がいる。僕は、諦めるしかなかった。
「帰るのか?」
「いや、部室に……」
「部活入ってたのか。ちなみに、この前四組に来たのは俺に言いたいことがあったとか?」
「ち、違う……」
「そっか。誰を探しているのか?」
「いや……」
「俺じゃないってなると、中学の同級生とか?」
「……。城野っていう人なんだけど」
「城野?」
「そう。城野って人なんだけど」
「えっと……。城野は、四組にいないけど」
「……。は?」
相馬に四組に来たことを聞かれ、つい城野のことを話してしまった。けれど、今はそんなことどうでもいい。城野は、確かに四組にいると言っていた。なのに、城野は四組にはいない。一体、どういうことなのだろうか。特進科なのか?いや、特進科は三組までしかいない。学年が違う?いや、同じ年だと言っていた。もしかして、四組ではなく他組なのか。
僕が見てきた感じでは、他組に城野の姿はなかった。それとも、相馬が嘘をついているだけなのだろうか。中学時代、嘘をついていた訳だし可能性はある。でも、これに関しては嘘をつく理由が見つからない。なにがなんだか、全くわからない。今まで、ずっと城野に嘘をつかれていたのだろうか。城野の発言はどれが真実で、どれが嘘なのかわからなかった。脳は動いているのに、体は動かない。僕の体は、きゅっと固くなっていた。
「大丈夫か?」
「……。えっと、本当に城野はいないんだね!?」
「本当にいないけど……。いたら教えるよ」
「……」
「顔色悪いけど、大丈夫か?」
「ごめん、教えてくれてありがとう」
「俺さ……あのとき」
僕は相馬が言おうとしていたことを聞かず、急いで文芸部の部室に向かった。そういえば、相馬はなにか言おうとしていた。結果として、城野は四組にいなかった。なぜ、城野は嘘をついていたのか。なにを隠しているのか。城野が、なにを考えているのか全くわからない。こうなると、城野という名前も本当の名前なのだろうか。部室に向かう最中、なぜ僕に嘘をついていたのかを考えるのに必死になっていた。
文芸部の部室に着くと、すぐに椅子に座った。僕は本を読まず、窓の外を眺めながら城野のことを考えた。考えても、考えても結論は出てこない。一体、城野は何者なのだろうか。次第にグラウンドで響いていた、運動部の生徒たちの声が聞こえなくなっていく。部活動が終わり、道具の片付けを始めているのだろう。部室を出る頃には、空の色が暗くなっていた。いつもと比べて、闇の密度が濃い夜に感じる。普段よりも長く部室にいたせいで、ベンチに着く頃には一九時半を過ぎていた。白い光を放つ和風の街路灯の下には、誰もいないベンチだけが照らされていた。
もし城野がいたら真実を聞きたかったが、いざ城野の顔を見たら聞く勇気がなくなるかもしれない。真実を聞いてはいけないような気もする。聞いてしまったら、なにかが変わってしまうかもしれない。城野の顔を見るのが怖くなってくる。城野に会っても、どう聞けばいいのかわからない、どこまで踏み込んでいいのかわからない。城野が嘘をつくような人には見えないが、嘘と本当がごちゃごちゃになって全てが疑わしくなる。その疑いが炭酸の泡のように、どんどん浮き上がる。七月二五日、僕は疑心暗鬼のまま夏休みを迎えた。




