第二十八話 失意
最後に沙織里の顔を見たのは、五日前に唇を重ねたときだった。いまだに沙織里と交際をしているという実感はない。連絡をすることができなければ、会うこともできていないからだ。こういうとき、どうすればいいのだろうか。交際は、初めての経験で何をしたらいいのか検討がつかない。
面会に行こうとしたが、今日までの数日間は許可が降りなかった。ベンチで待っていても、沙織里が来ることはない。心配になった僕は、学校終わりに病院まで足を運んだ。面会の約束はないため、会うことは難しいかもしれない。それでも、沙織里がどういう状況なのか確認したかった。
病院に着き、消毒液を手につけてから受付に向かう。受付の看護師に要件を聞かれ、僕は沙織里のことを話した。僕の話を聞いた、看護師は困惑したような目つきだった。看護師は「城野さんって……確か」と言いながら、パソコンに目を向け何かを調べだす。
「城野さんは、もうここにはいませんよ」
「……。は?」
「もしかして、川沿さんですか?」
「……」
「あ、あの……大丈夫ですか?」
「……」
言っている意味が、全くわからない。なにを言っているんだ。ここには、いない? あぁ、そういうことか。そうだ、これは夢だ。いま見ているのは、夢なんだ。まだ自宅で眠っていて、夢の中にいるんだろう。不吉な夢だが、起きたら笑顔で僕を待つ沙織里がいるはずだ。全く、リアルすぎる夢はやめてくれ。もう、大丈夫だって。早く目を覚ませ。僕には、沙織里が待っているんだ。これは、夢なんだ……。
気がつくと、病院を出ていた。勢いよく病院を出て、全速力で走った。どこに向かっているのかは、僕にもわからない。夕日で赤く染まった木々に囲まれた道を、ひたすら走った。一体、どうなっているんだ。走っても、走っても夢から現実に戻ることはない。この時間が、夢であって欲しかった。
走っていると、見覚えのある道に出る。走るのをやめて、歩いていると沙織里と会っていたベンチが見えてきた。辿り着いた場所は、川沿いのガーデンベンチ。これは、夢じゃないのだろうか。
今になって、看護師の言葉が脳内に響く「城野さんは、もうここにはいませんよ」この言葉の意味とは。沙織里の顔が見たい。沙織里と話がしたい。それに伝えたいことが、たくさんある。必死に、「戻れ、戻れ」と叫ぶが目の前の光景は変わらない。
目の前のベンチや街路灯に、しっかり触れることができる。「あぁ……やっぱり」ここに来て、先ほどの出来事が夢ではなく現実なんだと確信する。急に、僕の視界がぼやけはじめる。一粒の水滴が、頬を伝う。その後、僕は月が隠れるまでベンチで涙を流し続けた。
目が覚めると、ベッドの上だった。制服を着たまま、寝てしまったのだろう。シワのついた制服を脱ぎ、机の上にあるスマホを確認する。時刻は、七時を回っていた。鏡を見ると、目が腫れている。やっぱり、夢ではなかった。これほど、夢であってほしかった日はない。たまらなく、憂鬱が心に迫ってくる。
窓から空を見ると、どんよりした厚みのある雲が空を覆ってきている。僕の気分と同じように、今にも雨が泣き出しそうな雰囲気だった。準備を済まして、自宅を出てから再びスマホを確認する。着信履歴には、見覚えのある番号から着信があった。午前の授業が終わり、昼休憩に入ってから折り返しの電話をした。もしかしたら、この番号は病院かもしれない。
「もしもし、電話があったので折り返したのですが……」
「お名前を頂戴しても、よろしいでしょうか?」
「川沿蒼汰です。以前、城野沙織里の面会に行った者でして」
「川沿様でしたか。以前来ていただいたときに渡し忘れたものがありまして、お電話をいたしました」
「僕に渡すもの……ですか?」
「はい。受付でお預かりしてますので、ご都合が良い日時にお起こしいただければと思います」
電話を切ってから、僕は一人で考えた。渡し忘れたものとは、なんだろう。僕が沙織里の病室で、なにかを忘れたのだろうか。全然、検討がつかない。いま思うと、沙織里は病院にいないとしか聞いていない。あのときは頭が真っ白になって、気がつくと病院を出ていた。
勝手に沙織里はもうこの世には……と考えていたが、違う病院に移った可能性もある。病院の看護師に、真相も聞きたい。学校が終わると、すぐに病院に向かった。受付に行くと、昨日と同じ看護師がいたため、「あの……電話を受けた、川沿です」と声をかけた。
「実は、城野さんから預かりものがありまして。川沿さんって方が来たら、これを渡してほしいと言われたんです」
「沙織里さんから僕に……」
看護師が僕に渡したのは、沙織里の『やりたいことリスト』が書かれたノートだった。これだけ渡されたら、もう沙織里はこの世にいないのかと連想してしまう。僕は、看護師に沙織里がなんでいないのかを聞いた。
「数日前、城野さんは退院したんです」
「え? 病気が治ったんですか!?」
「いや、在宅緩和ケアに移行したんです」
「自宅での緩和ケアになったんですね……」
「そうです。親御さんが自宅で日常生活を送りながら、治療を受けることを希望されたので」
「なるほど。ちなみに、沙織里さんが今どこにいるかわかりますか?」
「そこまでは、わからないですね」
「そうですか。あの……このノート、ありがとうございました」
僕は病院をあとにして、その足でベンチに向かった。とりあえず、沙織里が生きていることにほっとした。でも、もう病院に沙織里はいない。どこにいるかもわからない。連絡を取る手段もない。これから、どうすればいいのだろうか。
沈みかける夕日を浴びながら、途方に暮れる。看護師から渡されたノートを手に取り、ページを捲った。間違いなく、沙織里の『やりたいことリスト』が書かれたノートだ。ペラペラとページを捲っていくと、『やりたいことリスト』ではなく僕に向けて書いたメッセージのようなものがあった。
《八月一五日、一八時にいつものベンチで待ち合わせね》今日は八月一四日、明日沙織里と会えるということだろうか。僕は、何度も日付けを確認した。間違いなく、明日だ。僕は、ほっと深いため息を漏らした。もう沙織里に会えないのかと思っていたため、ノートに書かれたメッセージを見て心の帯が緩まったようだ。胸の奥では、喜びと安堵がゆっくりと交差していく。僕は期待に胸を膨らませながら、ベンチをあとにした。




