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第二十六話 月光

濡れた服を着続けているせいか、沙織里の体はとても冷たく氷のように冷えきっていた。ひんやりとした感覚が、指先から脊髄を通って脳に伝わる。僕は脊髄反射を起こすことなく、沙織里を落ち着かせるように強く抱きしめた。沙織里は、僕の胸に顔を寄せて泣いている。


沙織里の体は、とても小さく細い体だった。このまま強く抱きしめていると、壊れてしまうじゃないかと思うくらいに。小さく細い体を、ギュッと強く抱きしめてしまった後からゆっくりと力を緩めていく。沙織里は、まだ泣き続けている。


抱擁する時間というのは温かく嬉しいはずなのに、なぜか悲しく切ない。沙織里を抱きしめている時間は、いままで以上に悲しい時間だった。「沙織里さん……」沙織里の頭上で声をかけるが、僕の声に反応はない。もう一言、優しい言葉をかけるべきなのに出てこない。


僕は、沙織里を楽しませるんじゃなかったのか。沙織里を、いつも笑顔にするんじゃなかったのか。言葉を発しなきゃいけないときに、言葉が喉に詰まる。喉に詰まっているのに、すんなり息ができる。そんな自分自身に、怒りだけが溢れてくる。


無視されても、声をかけ続ければいいじゃないか。なにか、もっと言葉を。喉に詰まった言葉を取り出そうとすると、沙織里の方から泣き声以外の声が聞こえた。


「うぅ……。なんで、止めるの」

「沙織里さん、どうしたの……」

「……。このまま、死のうとしたの」

「……。なんで、そんなことを」

「蒼汰くんの前なら、このまま死んでもいいかなと思って」

「やめてよ」

「……」

「そんなことをして、僕がなんとも思わないと思っているの」

「……」


恐らく、この時間帯に海の中で抱き合っている男女は世界中探しても僕たちだけだろう。海に入ってから、沙織里はどれくらい泣いていたのだろうか。もう、これ以上泣くことができないというポイントまできているかもしれない。感情が目に見えない壁にぶつかったみたいに、沙織里の涙がそこで尽きた。沙織里は涙を拭ってから、ゆっくりと顔を上げる。眼は、すこし腫はらしていた。


僕は、すこしほっとした。下がった気持ちが、少しずつ上っていくのを感じる。沙織里が落ち着いたことはもちろんだが、やっと本当の沙織里を見れた気がした。沙織里は病気で大変なのに、いつも平気なふりをしていた。もちろん、元気がなさそうなときもあったけど、いままでで一回くらいしか見たことがない。本当は、怖かったのだろう。死と向き合うことが。誰だって怖いのは当たり前。平気な人なんて、いない。僕だって、死と向き合うのは怖い。どう、向き合うべきなのかもわからない。


嫌なことに向き合うのが怖いなんて、全人類が同じだろう。僕だって、嫌なことに向き合うのが怖くて、言えなくて、逃げ出したくてしょうがない。沙織里を勝手に完璧人間と思っていた、僕が間違っていたんだ。

「あのさ……」僕が言葉を発しようとしたとき、すっと光が見えたような気がした。無限に広がる海の奥の方を見ると、海から月が昇りはじめていた。


月は徐々に上空へ上がり、月光が海にうつしだされる。次第に月光が海に反射して、細長い光の道が海面に現れた。僕たちは話しをすることを忘れて、月を眺める。月の道が、海から砂浜のほうへと映しだされており、まるで僕たちを導いているようだった。月の明かりで、キラキラと光る海はすごく幻想的で、明るい時間に見る海とは全くの別物だった。


「沙織里さんが、死んじゃったら僕は困る。だから、戻ろう」

沙織里は小さく頷きながら、「うん……」と言い、すこし恥ずかしそうに下を向く。

「あのさ……。すごく恥ずかしいから、もう離してもいいよ」

「あっ、ごめん」

「恥ずかしいから、あんまりこっちも見ないでね」

「わ、わかった」


僕は、急いで沙織里の体を覆っていた手を離した。肌の温もりが離れて、抱き合う前のひんやりした感覚が身体に戻る。でも、水で濡れた手には先ほどまでの感覚が残っていた。指先から脳裏まで、しっかり記憶されていたのだ。


僕は沙織里の手を掴み、月の道が導く方向へ歩きだした。月の道を進みながら、砂浜の方に向かって歩く。気がつくと、手をつないでおり、すこし恥ずかしくなった。振り向いて沙織里の顔を見たい気持ちもあったが、いまは急いで砂浜に戻りたい。


沙織里が、また変な気を起こさないためにも早く砂浜に着きたかった。お互い、言葉を発することなく、黙々と歩く。沙織里を引っ張るように前を歩き、手を繋いだまま浜辺のほうへ向かう。腰くらいあった水面は膝下あたりまで下がり、滑って溺れる心配もなくなる。


砂浜に到着すると、僕はほっとして膝から崩れ落ちた。腰が抜けたように、起き上がることができない。「大丈夫?」と声がして、沙織里の方を見るとすごく慌てた様子だった。沙織里は僕の横に回り、砂浜に膝をつく。僕は、沙織里の顔をちゃんと見れてほっとした。月の光で、沙織里の表情がしっかりと伝わる。

月の光が、僕たちの帰る場所を照らしてくれたおかげで、ここまで難なくたどり着くことができたのだ。


「蒼汰くん、本当に大丈夫?」

「うん、大丈夫だよ。帰ってこれて、ほっとしてるだけ」

「ごめんね……」

「もう、謝らなくていいよ。二人とも、無事に帰ってこれたんだし」


沙織里は、まだ沈痛な面持ちをしている。また、目には悲しみの色もあった。急に、沈黙が広がった。波の音が弱まり、静かな夜がふとやってくる。その静けさとは裏腹に、僕の心臓はまだ激しく鼓動している。どうやら、先ほどの出来事が忘れられないようだ。心臓の音だけが、僕の中で激しく音を立てていた。


お互いに言葉を探している最中、辺りがさらに明るくなる。もう一度、海の方を見ると月は先ほどよりも高く上がっていた。まるで、月の光が暗闇を取り払っているようだった。月の道が、より綺麗に映しだされている。僕たちは、神秘的な自然現象をタイミングよく見ることができたのだ。


海中で見たときと違い、ここからの景色は月の道を鮮明に見ることができた。海面に月の光が反射して、水平線から僕たちに向かって一本の光の道が伸びている。先ほどよりも濃く、より鮮明に見ることができた。時間を忘れて眺めてしまうくらい美しく、心を奪われてしまう絶景だった。


「これって、月の道かな。滅多に見れないし、見れる時間が限られているものだよ」

「綺麗だね。じゃ、私たちは運が良いってこと?」

「そうだね。運が良いよ」

「流れ星と、どっちが見るの難しいかなぁ」

「ん〜、同じくらいかな? 僕たちの帰る場所を導いてくれたんだと思う」

「そうだね。教えてくれたんだね。蒼汰くん、ありがとう」

「いや、僕はなにもしてないよ」

「蒼汰くんが止めてくれなかったら、私はもっと先に進んでいたと思う。途中で怖くなったけど、やっぱり進んでいたと思う」

「もう、こんなことをしちゃだめだよ」

「うん。あとさ……あんまり、こっち見ないで」

「えっ、あぁごめん」

「メイク崩れちゃったから」

「メイクしていたの?」

「なにそれー。ひどい」

「いや、そういう意味じゃなくて、全然変わらないから」

「メイクが下手くそだって言いたいの?笑」

「そうじゃないんだ。沙織里さんは元々綺麗な顔だから大丈夫って意味だよ」

「……。ありがとう。ちなみに、そういうこと無意識で言ってるの?」

「えっ、どういう意味?」

「うぅん、なんでもない。でも、やっぱり蒼汰くんは優しい人だね」

「そうかな?」

「優しい人って今だけじゃなく、後のことも心配するんだって」

「へぇ。それなら、沙織里さんもそうじゃない?」

「私?」

「僕が元気ないとき、いつも心配してくれてたでしょ?」

「そうだっけ?笑」

「えっ、無意識なの?笑」

「蒼汰くんのときは、無意識なのかも笑」


先ほどのことが嘘のように、僕たちは月光に照らされながら誰もいない静かな海で笑い合った。帰りはバスが出てないため、電車を選択するしかなかった。すこし都会的な銀色の電車に乗り、長岡駅を目指す。


時刻は二二時、電車に乗る人は僕たちだけだった。誰もいない電車は、すこし不気味だった。ボックスシートといわれる向かい合わせタイプの座席に座り、しばらく電車に揺られる。向かい合わせで座るのは、また違う緊張感があった。


いつも、僕の横にいる沙織里が目の前にいる。どこを見ていいのかわからなくなり、目線は自然と窓の方に向く。窓の外は、闇の世界。明るい時間だったら、キラキラ光る海が見えていたのだろう。真っ黒な景色に、車内の光が反射して僕たちの顔が映る。


沙織里は、うとうとしていた。窓に映る沙織里を見ていると、ようやく本格的な眠りがしみこんできたみたいで背もたれに頭を預けて眠り込んでいた。すごく、疲れていたのだろう。ここまで連れてきた僕にも責任がある。邪魔しないように、ゆっくり寝かせておこう。


沙織里が元気になったら、明るい時間に澄んだ海を見せたい。無限に広がる美しい海を前に、無邪気にはしゃぐ沙織里が想像つく。ふっと笑う寝言が聞こえて、ちらっと沙織里の方を見る。良い夢でも、見ているのだろうか。無防備な子供のようにあどけない寝顔を見て、僕も少しの間眠りに落ちた。

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