第十五話 真夜中
沙織里から、がんと告白されたことは覚えている。でも、花火大会が終わってからの会話の記憶がほとんどない。それほど、衝撃的なことを言われたのだ。僕は帰宅することを忘れ、その場で立ち尽くしていた。沙織里と解散してから約一時間ほど、呆然と立ち尽くす。家に帰ってからは、しばらく椅子の背もたれに寄りかかった。特になにかをするわけでもなく、真っ白の天井をひたすら見つめる。なにをすればいいのか、見当もつかない。けれど、いつまでも天井を睨んでるわけにもいかない。僕は自室を飛び出し、家の書庫に向かった。
書庫には、さまざまな本がある。本棚にある、父の本をひたすら見つめる。僕は、医学や医療などの本がないかを探した。一番上の棚の左端から右端へと、目線を移動していく。医学や医療の本がなければ、ネットで検索しようと思っていたがその必要はなくなった。徐々に目線を下の棚に移動させていくと、医学・医療の本を見つけた。
医療関係の仕事ではない父が医学・医療の本を何冊も持っているのか疑問だったが、本を手に取るとそんな疑問はすぐに消えていた。僕は医学・医療の本を何冊か手に取り、自室に戻る。机の上には、医学生が読むような本がずらりと並ぶ。一冊目を手に取り、ページをめくっていくと病気の詳細が記載されている箇所を見つけた。
今の時代、インターネットで調べれば手軽に素早く目的の情報を得ることができるだろう。けれど、利便性は高いが、全てが事実だとは限らない。その点、本は情報の正確性が非常に高い。追加で新たな情報を得ることができたり、論文などの情報も記載されていることがあるため、信憑性にも優れている。
僕が手に取った本は、その都度インターネットで調べなくて済むように、ほとんどの病気の詳細や治療法などが詳しく記載されていた。どんどん、ページをめくっていくと、ようやくがんのページに辿り着いた。がんは、正常な細胞が遺伝子の突然変異が原因で起こる病気であり、遺伝子の突然変異が起こると細胞は死ぬことができなくなる。止めどなく分裂を繰り返す死なない細胞が、がん細胞の正体。がん細胞は次第に増え続け、やがて塊としてのがんとなり、臓器の機能を阻害していき他の臓器に転移する可能性もある。臓器の周辺に広がり他の臓器に転移すると、正常な組織が必要とする栄養を奪い、次第に体を衰弱させていくという特徴がある。がんの進行や治療、薬剤の副作用などが原因で、食欲不振や倦怠感、呼吸困難感などの症状が現れ、日を追うごとに増強していく傾向がある。
がんのページの一部だけを読んだだけでも、恐ろしい病気ということだけはわかる。不安と恐怖の色が僕の中で濃くなっていく。がんのページは、まだまだ残っている。僕は、意を決して次のページをめくった。がんは一◯◯◯種類以上存在し、発生した部位によって三種類に分けられる。
固形がん:上皮細胞(消化管、乳腺など)から発生するがん
肉腫:非上皮細胞(骨、筋肉など)から発生するがん
血液がん:造血器(白血球、リンパ球など)から発生するがん
その中でも固形がんが全体の約八割を占めており、主に肺がん、胃がん、大腸がん、肝臓がん、乳がんなどは日本人に多いがんとして有名で『五大がん』ともいわれている。また、最初にどの部位に発生したのか特定できないがんがあり、原発不明がんと呼ばれている。部位ごとの詳細もあり、脳や頭部から臓器、女性特有のがんなどが記載されていた。脳や頭部であれば、脳腫瘍や頭頸部がんなど。胸部であれば、肺がんや乳がんなど。消化器であれば、食道がんや胃がん、大腸がんなど。また、肝臓がんや膵臓がん、腎臓がん、皮膚がんなど。女性特有であれば、卵巣がんや子宮体がんなどがある。
血液やリンパであれば、白血病や悪性リンパ腫などの僕でも知っている名前が複数枚のページに分かれて、記載されていた。さらに、希少がんという罹患率人口一万人あたり六例未満の稀ながんも存在する。二◯◯種類ほどの悪性腫瘍が希少がんに分類され、神経内分泌腫瘍や消化管間質腫瘍(GIST)、悪性中皮腫、小腸がん、肉腫などは非常に数が少なく診断や標準治療の確立が難しく、課題が多い疾患。がんにはステージ零からステージ四まで存在する。
ステージ零:がん細胞が上皮細胞内にとどまっている状態
ステージ一:がん腫瘍が筋肉層でとどまっている状態
ステージ二:筋肉層を超えて浸潤している。または、弱若リンパ節への転移が見られる状態
ステージ三:がん腫瘍が浸潤しており、リンパ節への転移が見られる状態
ステージ四:がんが原発巣を超えて、他の臓器に転移している状態
がんの治療は、非常に難しいと説明されていた。がん自体が複雑な疾患であり、異常な速度で増殖していくこともある。がんの種類や個人差によって進行スピードは異なるが、早期がんと診断され手術を受けても、すでに移転してたり増殖してたりもする。また、同じ臓器のがんでも患者ごとに治療法が異なる場合がある。がんの種類や進行度合い、患者の健康状態や年齢などを考慮した上で最適な治療を行わなければならない。治療法は主に、手術や放射線、化学療法(抗がん剤)、免疫療法などだ。進行がんの標準治療は、化学療法や放射線療法になり、根治を目指すことは難しいが奏効することによってがんの進行を抑制して延命効果が期待できる。
手術に関しては、近年ロボット支援手術を使用する病院も増えているらしい。医師がロボットを遠隔操作して、より精密な手術が可能だという。本を読んでいて、すごい時代だと感心してしまう。さらに、がんにはさまざまな種類があるが、最も恐ろしいがんは膵臓がんと書かれていた。死亡率の高さ、発見の難しさ、治療の困難さが要因らしい。初期症状がほとんどなく、診断時に進行していることが多い。5年生存率も非常に低くく、全ステージ合計で約八パーセントから一◯パーセントほど。自覚症状がないまま静かに進行していくことから『サイレントキラー(沈黙の殺し屋)』と呼ばれている。
現代医療は、日々進化している。近年のがんの診断ならび治療技術の発展は目覚ましく、根治を目指すことが可能になっている。がん全体の五年生存率は六◯%を超え、がんはほとんど治る時代となっている。早期発見なら、治癒率は九割近くに達する。でも早期発見自体が難しく、外科切除や根治的な治療を施しても再発率が高いがん種においては、いまだに難治状態になっている。その中でも治療と並行に行われる緩和ケアが重要になると、太い赤文字で書かれていた。
緩和ケアは、がんに伴う心と体の辛さを和らげてくれる。がんになると、治療や体のこと以外で学校や仕事のこと、将来への不安の辛さも経験してしまう。がんと診断されれば落ち込むことのは当然で、すでに痛みや息苦しさなどの症状がある場合もある。落ち込みや症状に対して、がんと診断されたときから緩和ケアが始まる。基本的には、担当の医師や看護師から緩和ケア受けるが、必要に応じて心理士や理学療法士、ソーシャルワーカーなどが集った緩和ケアチームが患者を支えてくれる。
がんによる辛さを長期間我慢すると、夜眠れなくなったり食欲がなくなる。体の動きも制限され、気分がふさぎがちになるなどの生活に支障が出てしまう。そのため、緩和ケアは非常に重要となり、気持ちが揺らいだときは気持ちをしっかりと伝えることも大事になる。緩和医療は二◯◯六年頃から拡大し、終末期に携わる医療者はこれまで以上に死を意識して患者に向き合い、患者の生活の質を最大限に維持することに加えて、患者にとってのより良い死の体現という目標に移行した。
がん患者はあらゆる過程において、さまざまな精神症状を抱えており、『サイコオンコロジー』の重要性も認識されるようになった。希望をもって生きることは、がんという病気に適応し心理的な苦痛を軽減し、心理社会的幸福や生活の質を高めるために個々を支援する重要な要素である。健康関連の調査では進行がん患者であっても高いレベルの希望を維持していることが明らかにされているらしい。僕は時間を忘れて、医学・医療の本に没頭していた。緩和ケアのページをめくっていくと、ページ内に書かれた言葉を見て驚いた。
そこには、希望をもって生きるために『やりたいことリスト』を作るのが良いと書かれていた。『やりたいことリスト』は沙織里が作っていたものだ。『やりたいことリスト』は人生をより豊かにするためのものであり、頭の中の願望を可視化することで、それを叶えるための行動がしやすくなる。がんに罹患したとき、人は生きられる時間に対する認識が大きく変わり、見通せない曖昧な時間を過ごすことになる。
そのため、『やりたいことリスト』の効果は大きく、見返してモチベーション維持にも繋がったり、充実した日々を過ごせるようになるという。自分の本心に気付くことができ、ポジティブな影響を与えてくれる。沙織里の言っていた通り、『やりたいことリスト』は自分の人生を豊かにしてくれるのかもしれない。沙織里が『やりたいことリスト』を作ったのには理由があったんだ。
正直、最初に沙織里の『やりたいことリスト』を見たときはよくわからなかった。もちろん、寿命が近い人に限らず、健康な人も作るだろう。健康な人だって、いつ死ぬかわからない。残された人生を悔いなく過ごすため、自分との約束ということで『やりたいことリスト』書き出す。生きるための希望を持つため、自分自身を変えるためにも必要なものだったのだ。
沙織里は残りの人生で、やりたいことを全て行なう予定なのだろう。病気で苦しいはずなのに、いつも明るく振る舞う。逆に励ましてくれるときだってあった。いま思うと、僕よりも大変な思いをしている人に優しくしてもらったり、心配してもらったり、ときには慰めてもらったり。いま思うと、そんな自分が情けなく感じる。僕は、拳をぎゅっと握った。
沙織里の話、そして医学・医療の本を読んでから、僕が沙織里のためになにが出来るか考えた。僕に出来ることは、まずがんについて理解すること。そして、沙織里の価値観を尊重する。できるだけこれまでと同じように接する。もしかしたら、城野が心身ともに余裕のない状態になっているかもしれない。そのときは、城野が口を開くまでじっと待つことも必要だ。
僕は、その後も医学・医療の本を読みつつ、がんについて徹底的に調べた。ふと、スマホの画面で時刻を確認する。気がつくと、日付が変わっていた。人々が寝しずまった真夜中は、あまりにも静かだった。目を覚ましているのは、僕だけなのかと勘違いしてしまう。静寂な夜の中、僕は再び本を手に取った。




