第十四話 真実
影のように黒く見える沙織里が、ふいに言った。 びっくりして、僕は「え?」と尋ねる。 正直、なにを言っているのかわからなかった。逆光で、表情もよくわからない。先ほど見せた、悲愴な面持ちで言ったのだろうか。でも、悲しそうな口調ではなかった。もっと、軽く柔らかな声だった。普段、僕と話しているときと変わらない表情で言ったのかもしれない。だとしたら、なんかの冗談なのだろうか。よくわからないまま、沙織里の次の言葉を待つ。
「だから、死んじゃうの」
少し強めの口調で、再び「死ぬ」という言葉が沙織里の口から出た。沙織里の発言後、視界に入るもの全てが止まっているように見えた。周辺を移動する車や歩いている人。ゆっくりと、落ちていた葉っぱも動きを止める。動くもの以外にも、風の音や水の音すらも聞こえない。見渡す限りの世界が、沙織里の発言と同時に静止していたのだ。
静止した世界に、多数の白い点がポツポツとランダムに現れるスノーノイズのように「死」という言葉が目の前に現れる。次第に、「死」という言葉だけが沙織里の周囲を取り囲んでいた。沙織里の言葉の意味が、全くわからない。なんで、今その言葉が出てきたのか。なぜ、死ぬのだろうか。死ぬというのは、生物としての生命活動の終了を意味する。沙織里が、この世からいなくなるということなのだろうか。脳内でも、「死」という言葉が暴れ出す。溢れ出す死という言葉が、頭からそのまま飛び出してきそうな勢いだ。いや、いま見える「死」という言葉は、僕の頭の中から溢れ出ているものだろう。
「……」
「私の言ったこと、わかった?」
「全然、わからない。どういうこと?」
「もってあと一年かな」
「寿命が、あと一年……。なんで、今そんなことを……」
「だって、急になにも言わずいなくなるなんて失礼でしょ? だから先に言っておこうと思って」
「……」
僕は、なにも言えなかった。まるで氷の中で眠り、言葉を発することができない雑草のように凍っていた。ただ、沙織里を見つめる。一◯秒後、視線をそらし「えっと……」と呟く。次に出す言葉に、手間取る。脳内で必死に言葉を探すが、「死」という言葉が無数に飛び交い、他の言葉を捕まえることができない。
どこか遠くを見て、黙ったまま五秒、一◯秒と時間が過ぎていく。すると、か細い声で「大丈夫……?」と聞こえた。近くにいるはずなのに遠くから声が聞こえてくるような気がする。僕自信が、どこか遠くに行ってしまったのだろうか。無意識に、どこか遠くに行っていた僕はふと我に返り、沙織里の言葉に反応する。「ごめん、聞いているよ。けど、なんて言えばいいかわからなくて……」普通、僕が心配するはずなのに沙織里に心配されてしまった。情けない話だ。僕よりも、大変な立場にある沙織里にこんな状況を作ってしまった。なにも言えなかった自分に、落胆して下唇を噛んだ。
沙織里に目を向けると、スノーノイズのような「死」という言葉は、いまだに周囲を取り囲んでいた。生暖かい風が吹くが、沙織里の周囲を取り囲む「死」という言葉は飛んでいくことはない。面白いくらい困った顔だったのか、沙織里は口角を上げながら「ふっ」と軽く息を吐くよう微笑する。
「私、がんなんだ」
「……。がん?」
不意打ちのような告白だった。どんな反応が、正解なのかわからない。沙織里は、確かにがんと言った。耳では聞いていたのに、脳まで伝わるのに時間がかかる。沙織里は、不思議と世間話をするような明るい声だった。静寂した僕の心を先ほどの花火のように、目の前を明るくするためだろうか。僕は、神妙な面持ちを浮かべながら沙織里を見つめるが、いつものように明るい声で会話をする感じの沙織里に混乱してしまった。
身内で、深刻な病気にかかっている人はいないが病気のこと、死が現実的であるかもしれないのが恐ろしいことなのはわかる。がんという病気の名前は、ほとんどの人が知っているだろう。僕でも、名前くらいは知っている。肺がんや胃がん、大腸がん、乳がん、食道がんなど。
日本人の死因トップは、がんであることも有名だ。がんで死ぬ人は年々増え続け、何十年も死因トップの座にあり続けている。沙織里は、がんと言っていたがどの種類のがんなのだろう。また、早期発見だったのか、それとも危ない所まで進んでいたりするのだろうか。
「私、もう少しで死んじゃうんだ」という言葉。これは、がんが危ない所まで進んでいるということかもしれない。でも、現代のがん治療は進歩が目覚ましいと聞いたことがある。昔と違い、生存率が高くなっているのは間違いない。沙織里の進行状態はわからないが、治る可能性もあると素人ながら思ってしまう。
がんというと、怖いと感じるが一般的だろう。僕は、がんという名前を聞いただけでも恐怖を感じる。死に至る病気のイメージは拭えないし、手術の痛みや治療の副作用など不安になることも多いはず。それなのに、沙織里は明るく振る舞うことが多い。僕よりも、何億倍も大変な思いをしているはずなのに……。普通であれば、憂鬱で絶望的な気分になるのは間違いない。深い絶望感に襲われる毎日なのかもしれない。そんな感情が、胃の底から頭まで広がる感じが僕にも伝わる。
「びっくりした?笑」
「びっくりするよ。本当……の話なんだよね?」
「嘘じゃないよ。本当の話」
内心は、嘘であって欲しかった。学校の件のように、僕をからかっているだけであって欲しかった。僕に冗談言う沙織里であって欲しかった。けれど、病気のことに関しては嘘をつく理由が見つからない。普段、沙織里は病院に入院している。そのため、学校には行けない。なぜ、入院しているのかはずっと謎だった。大きな怪我をしているわけではなさそうだったし、体調が悪い感じもしなかった。学校に行けないほどの長期間入院となると、深刻な病気が候補に上がってくる。それは、なんとなく予想はできた。でも、がんという病気は予想外だった。沙織里に病気のことを聞いておきたいが、改めて聞く勇気がでない。そもそも、聞いていいものなのかもわからない。
どうすれば良かったのだろうか。なにをすれば、正解だったのだろうか。「急に変なこと言って、ごめんね。花火楽しかったよ。じゃ、またね」沙織里は僕が口を開く隙も与えずに、颯爽と闇の中に消えていく。結局、僕たちはベンチには寄らず、その場で解散した。遠ざかる沙織里の背中は、巣立った雛のようにこのままどこか遠くに行ってしまいそうだった。




