第九話 願望
「これは、願望ノート」
「願望ノート?」
「これを埋めていくのを手伝って欲しいんだ」
「なつほど、たくさん書いてあるね。まるで囲ってあるのは達成済みってこと?」
「そう。まるで囲ってないところを埋めていくの」
城野が見せてきた願望ノートには、いくつかの願望が書かれていた。海を見に行くや大きな花火が見たい、海沿いをドライブがしたいなど、さまざまな願望が書かれてある。いくつかは、まるで囲ってあり、すでに叶えたものもあるようだった。『やりたいことリスト』というものだろうか。自分がやってみたいことや達成したいことを書き出すものであり、いざ書くってなると意外と出てこない。
次のページ、また次のページと捲っていくが、終わりが見えない。数で言うと、何十個、いや何百個だろうか。たくさんの願望が書かれてあるノートを見る限り、城野はやってみたいことが多いようだ。こんなにもたくさんの願望を、すらすら書いたと思うと尊敬してしまう。
僕が『やりたいことリスト』を書くとなると、どのくらいの時間がかかるだろうか。一◯個書くだけでも一日以上かかるのは間違いない。考えても、やりたいことが出てこない気がする。正直、僕がなにをしたいのかもわからない。やりたいこともなければ、とくに行きたい場所もない。行きたい場所といえば、この町以外になるが『やりたいことリスト』に書くようなことじゃないような気がする。書くとすれば、もっとこう憧れて行きたくなるような場所だ。
考えながら、願望ノートを見ているとあることに気がついた。よく見ると、ジャンル分けせずただやってみたいことをずらっと書いてある。普通、書くとしたらジャンル分けしてから書くものだと勝手に思っていた。そっちの方が綺麗に纏まるし、書きやすそうな気がする。ジャンル分けなら、旅行や趣味、健康、仕事、お金など。まぁ、これに関しては僕の勝手な考えだから好きなように書けばいい。
前半は、海に行きたいや大きな花火を見たいなど。その他には、海外旅行に行きたいや釣りに行きたい、高級寿司を食べたい、猫を飼いたいなどの願望が一列にずらっと書かれてある。
後半になると、奥底に眠っていた願望のようなものもあった。馬に乗りたいや猿と温泉に入りたいなど。
途中から、無理やり搾り取ったような願望が多かった。馬に乗るなら乗馬クラブなどだろうか。猿と温泉は、なかなか難しそうな課題だ。テレビで猿が温泉に入っているのは見たことがある。けれど、あれは人間と猿が混浴しているわけではない。猿専用の温泉だ。もし、人間も一緒に入ったら猿が逃げていくか、猿に噛まれたりするかに違いない。
思ったことを城野には言わず、馬に乗りたいという箇所を指差して「これ、いいかもね」とだけ呟いた。せっかく書いたものに対して、僕があれこれ言う権利はない。自分がやりたいことなのだから。猿に関しては、人間に育てられた猿と一緒に入ればいい気がする。その後も、城野が書いた『やりたいことリスト』を見続けた。
「『やりたいことリスト』を作って、振り返ることでポジティブな影響を与えてくれるんだって。自分が、なにをしたいのかを考える行為自体が頭を整理することにつながるみたい。それに書き出すことで意識付けになって、定期的に振り返ることで達成感を得たり、叶えるための対策を練ったりできるみたいだよ」
「城野さんは、すごいよ。僕なんて、やりたいことが全く思いつかない」
「最初は、私も前向きになれなかったよ。けど、『やりたいことリスト』を作る前に自己効力感を確かめる時間を作ったんだ」
「自己効力感か」
「知ってる?」
「多少は。前に本で読んだことあって」
「自分の目標を達成するための能力を持っていると認識することだよ。 簡単に言うと、自分ならできる、きっとうまくいくと思える状態を認知すること」
「なるほど。そんなことも考えてたんだね」
「これは、川沿くんにもやってみてほしいんだよね。自己効力感を確かめれば、友達作りはもちろん友情関係の維持にもつながると思うんだ。もし裏切られても、自分には乗り越える力があるって思えば次に進むことができると思うし」
「自己効力感か……。僕に、できるのかな」
「ほら、自分はなにもできないと思っている人でも話を聞くと、得意なことや長所はあるでしょ? 自分が持っている力や難なくできることを把握して、その価値を認知することで自分はできるってポジティブな方向に進むと思わない?」
「まぁ、そうだけど……」
「大きな望みを書くんじゃなくて、小さな望みを書き出すのもいいと思うよ。小さな望みを少しづつ達成していくのも達成感があるし、充実した日々になると思わない?」
「小さな望みか……なんだろう」
「川沿くんは、自分が思ってるほどだめじゃないよ。私の方が、だめだめなの」
「そんことはないよ」
「今の状況から逃げるんじゃなくて、今の状況を変えて楽しまなきゃ。年齢を重ねてからも、友達はできると思うよ。けど、それだと遅いと思う。私たちの年代だと、今しかできないことが多いんだからさ」
「今しかできないことか。その通りかもしれない」
「今を、もっと楽しまきゃ損だよ」
「ひとつ確認なんだけど。やりたいことするのはわかるけど、入院していると難しいんじゃ……?」
「そう? それは、どうにかなるよ」
「どうにかなるって……。ここにいるのも、良くないんじゃない?」
「大丈夫。私には、秘策があるから」
「秘策って……」
「どう? 私が川沿くんの手助けをする代わりに、私の願望も手伝ってもらう交換条件」
「うん。交渉成立だね」
僕と城野は、お互いを助け合う約束をした。僕の手助けとは、友達ができるようにするということ。まず最初に城野が僕に教えてくれたことは、信頼はリスクを伴うものと認識することだった。完全に裏切りのない関係は保証できない。信頼はリスクのようなものと捉え、それを受け入れる心の準備をしなければいけない。
また他人に依存しすぎないように、個人的な境界線を設定すること。万が一、裏切りが発生してもそれが自分の人生や幸福全体に与えるダメージを最小限に抑えることができる。もうひとつは、先ほど城野が言っていた自己効力感とは別で自己肯定感を高めることだった。自分の価値を認知することだけではなく、ありのままの自分を受け入れられて尊重する力が必要。自己肯定感があれば、たとえ裏切られたとしても、自分自身の価値が損なわれることはないと信じることができる。
経験から学ぶ姿勢を持つことも大事だという。失敗や裏切りを将来の人間関係に活かす姿勢を持つことで、恐怖心を軽減できる。また、 全ての信頼や期待を一人の人物や一つの関係に集中させないこと。多くの人間関係を持つことで、一部の人間関係で裏切りがあったとしても自分にもたらす影響を最小限に抑えることができる。
さらに、自分を責めすぎないこと。裏切るにあうことで、自己批判をする否定的な感情が誘発されることが多い。裏切られたとき、なによりも辛いのは自分が捨てられたという感情が芽生えること。自己批判をすることで信頼関係の形成を難しくしてしまい、どんどん孤独を深めていく悪循環を生んでしまう。
僕は、信じることに臆病になってしまっている。人間不信が、デフォルトになっているのだ。人を信じるなら、まずは自分を信じること。信じるべきは相手ではなく、自分だということだ。人を信じるとき、無意識に相手の誠実さや絶対に裏切らないということを求めてしまう。裏切られた過去があれば、また裏切られたらどうしようと考えてしまうのは当然だ。けれど、万が一裏切られたとしても自分の価値が傷つけられた、汚されたというわけではない。自分ではなく相手の問題なのだ。他人を信頼しなければ、自分に対する評価は悪化してしまう。
人を信頼できない人には、四つタイプがあるという。自分に自信がない、過去にあった裏切りで警戒するようになった自己評価が低いタイプ。外見は強そうでも、内心は自信がなく人を警戒している自己評価が高くて脆いタイプ。喜びや幸せの感情ではなく、不安や悲しみの感情が持ち人への警戒心が強いタイプ。人を信用するなと教え込まれたり、過去に酷い裏切りを経験して人を警戒することが身についてしまったタイプだ。
裏切られることを意識しすぎると、精神的にも肉体的に疲労が溜まってしまう。常に悲観的になりネガティブな感情が増していく。その点、人を信頼することでエネルギーの消費は抑えられ、相手からの信頼も獲得することができる。人を信頼することで、自分に対する評価は上がる。自分から変わる覚悟を決めなければならないのだ。裏切られた側よりも裏切った側のほうが評価を落とすのは当たり前。裏切られたからといって、人を信頼しないとは思ってはいけない。
僕は、根本的に違っていたんだ。もちろん話し方を学んだりすることは悪くないが、そんなことで僕が悩んでいることは解決しない。僕も気づいていはいたが、先に考え方を変えなくてはいけなかった。
「本で読んだんだけど、自己の思考や感情から距離を置いて客観的な視点に立つと、落ち着いて感情を処理して、気持ちの整理をつけやすくなるって書いてあったよ。それに、もう一度誰かとつながることは『人生にとっての薬』なんだって。身体的や感情的にもメリットが大きいみたい。感情が再び満たされるようになって、自分を裏切る人ばかりじゃないことを再認識できるよ」
「城野さん、すごい詳しいね」
「本を読むくらいしか、することないから」
「色々助けてくれるのは有り難いけど、入院中の城野さんが本当に『やりたいことリスト』をできるのかが不安なんだけど」
「大丈夫だって、なんとかするから」
城野は、なにか企んでいるようだった。秘策があるみたいだが、一体どんなことなのだろうか。まず、城野は入院している。学校に来れないということは、昼間は病院にいるということ。なぜ、一八時以降であれば外に出れているのかは謎だが、基本的に行動できるのは夕方以降になるのだろう。昼間の外出ができないとなると、夕方以降にやりたいことを行うのだろうか。
『やりたいことリスト』に書かれていたことは、基本的には昼間に行うことが多いはず。例えば、海を見たいなら昼間になるだろう。夜に海を見ても、真っ暗だしなにも見えない。無限に広がる青く綺麗な海を見るなら明るい時間がベストだ。海外旅行は、中々ハードルが高い。夕方以降に行動して、その日に帰ることは難しいだろう。国内旅行ですら、危うい気がする。新幹線の最終電車は乗車する駅によって異なるが、大体二一時から二二時が多い。飛行機の最終便も空港によって異なるが、大体一九時から二二時頃だ。行動できる時間帯と最終便などを考えると、旅行に行ける可能性は低い。自家用ジェットでもあれば、全てが解決できそうな気もするが、そんなものは持っていない。
旅行と比べて、花火はどうだろうか。基本的に、花火は夜に見たりするものだ。夜に見ることで、漆を塗ったような黒い空に赤色や黄色、緑色などのさまざまな色が弾けて、空に色をつけてくれる。また花火大会の開催時刻は、基本的に一八時から二一時頃だろう。でも、大きな花火とは……。そんなものが近くで見れたりするのだろうか。
いや、あるじゃないか。頭の奥にしまわれていたことが、突如として浮きあがってきた。すっかり忘れていたが、僕が住んでいる地域には大きな花火大会がある。毎年、八月二日と三日に新潟県長岡市で開催される、日本三大花火の一つ『長岡まつり大花火大会』だ。『長岡まつり大花火大会』は、他の花火大会と毛色が異なる。昭和二◯年の長岡空襲からの復興として翌年の昭和二一年に『長岡復興祭』を開催、そして翌々年の昭和二二年に花火大会が復活した歴史を持つ。
八月一日には、長岡空襲が始まった時刻にあわせて花火を打ち上がる。空襲で亡くなられた方々への慰霊、復興に尽力した先人への感謝と恒久平和への願いを込めて、白一色の花火が三発を打ち上げる。また、同時刻に慰霊の鐘を鳴らすのが恒例行事となっている。
平和への願いを込めて壮大な花火が夜空を彩る『長岡まつり大花火大会』は、信濃川の広大な河川敷を舞台とした大規模の花火大会だ。開催期間の二日間で約二万発の花火が打ち上げられ、その中でも大型花火の「復興祈願花火フェニックス」や「正三尺玉」などの打ち上げ花火は名物になっている。日本最大級の規模を誇り、観客動員数も日本最大級だ。
花火大会のフィナーレを飾る「スターマイン」は、規模の大きさや芸術性の観点から″日本一感動する花火″とも評される。「スターマイン」は、いくつもの花火が組み合わさって連続発射する演出方法。打ち上がった花火で、ひとつのテーマを描き出す。他にも『長岡まつり大花火大会』では、「超大型ワイドスターマイン」、「超大型ミラクルスターマイン」がある。
「超大型ワイドスターマイン」は、牡丹と呼ばれるカラフルな五色(紅、青、橙、黄、紫)の花火を五箇所から同時に打ち上げ、豊かな彩色が夜空を彩る。「超大型ミラクルスターマイン」は、協賛している企業カラーを主体とした打ち上げ花火であり、数ヵ所から同時に打ち上げられ、斜めや横の広がり、縦の高さなど他と違う立体感があるミラクルな花火だ。現地でしか得られない臨場感があり、圧倒的なスケールは特別な体験になるに違いない。
僕は、過去に『長岡まつり大花火大会』を一度だけ見たことがある。小学校三、四年生くらいの頃だろうか。家族で見に行き、すごく衝撃を受けた記憶がある。家族と、なにを話してなにを食べたかは覚えていない。でも、あの花火だけはすごく鮮明に覚えている。何発も連続で、打ち上げられる色鮮やかな花火。言葉を発することなく、ただ見つめていた。過去の記憶を思い出すと、もう一度見たくなるものだ。きっと、城野も気に入って食れるはず。僕は、「大きな花火を見たい」という箇所を指差し、城野に伝えた。
「この花火、見れるかも」
「もしかして、長岡花火?」
「知ってたの?」
「知ってるよ。有名でしょ。本当に見れるの?」
「六日後の一九時二◯分から信濃川沿いで開催される」
「ここから近い場所なの?」
「ここから歩いて、二◯、三◯分くらいの所かな」
「もしかして、連れてってくれるの?」
「手伝うって約束したでしょ。それに、このチャンスを逃すとまた来年になるから」
「やったぁ。楽しみ」
僕は、城野の『やりたいことリスト』の中のひとつを叶える約束をした。約束をしたが、本当に城野は大丈夫なのだろうか。秘策があると言っていたが、なにをする気なのかわからない。この時間に、外に出れているなら大丈夫なのだろうか。
「ちなみに、入院しているって言ってたけど、この近くにある総合病院に入院しているの?」
「そうそう。すぐ、そこにある病院だよ」
「なるほど……。何回も聞いちゃうけど、本当に大丈夫なの?」
「後先のことを考えちゃだめだよ」
「……。いや、この場合は違うような」
「お願い。頼めるのは川沿くんくらいしかいないの」
「……」
「お願い!」
「……。わかったよ」
「ありがとう! 当日は、よろしくね」
僕は、少し考えてから返答をした。正直、入院中の患者を勝手に連れて行っていいのか不安だった。絶対に良いことではないだろう。でも僕の手を握り、目を輝かせながら「お願い!」とせがむ姿を見て拒むことはできなかった。視界いっぱいに城野の澄んだ瞳が広がる。すぐそばにある顔からは、花火を心待ちにしているのが伝わってくる。僕が返答をすると、城野はベンチから飛び上がり子供のようにはしゃいでいた。城野の喜ぶ姿が、微笑ましかった。その姿を見ていたら、僕の気持ちは絶対に連れて行ってあげようという気持ちに変わっていた。




