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弥勒の拳  作者: 真桑瓜
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                   1


六月美希が懐妊した。妊娠三ヶ月で、新しい命がこの世に出て来るのは来年の一月である。

みんなたいそう喜んでくれた。中でも剛三の喜びようは尋常では無かった。

「これで道場の跡取りが出来た」と喜んでいる。

美希が「まだ男の子だと決まったわけではありません」といくら言っても「いや、男に決まっている」と言って聞かない。槇草は喜んだけれども、まだ自分が父親になるという実感が湧かないようだ。

まだ酷くはないものの、つわりの症状も現れ始めた。

美希は不安だった。母は既にいない、義母は遠い八女にいる。周りは男ばかりで、頼りにならない。これからどうしたら良いか全く分からないのである。

つわりは、朝目覚めると同時に始まる。

一度船に酔ったことがあるが、それが一日中続くのである。

だんだん口数も減ってくる。槇草が仕事でいない時など泣きたくなる事があった。

槇草が心配してくれても、かえってそれが煩わしい。

美希は、自分がそんな風になるとは思ってもいなかったので、頭の中が混乱した。

唯一、しのと話している時だけが気が紛れる時間である。

そんな頃、槇草家を尋ねて来た人があった。






                   2





「御免ください、こんにちは」

美希が居間で洗濯物を畳んでいると、玄関で訪う女性の声がする。

「は〜い、ただいま」美希は立ち上がり玄関に出た。

四十代と思しき小柄な女性が立っている。まっすぐの髪は短めにカットされ後ろで束ねてある。目は優しげに笑っていた。

「こんにちは、板井歩美と申します」その女性は手に持った御通い帳を美希に見せた。

「大家の作兵衛の娘です、初めてお目にかかりますね」

「まあ、大家さんの?」美希は玄関の式台に座り手をついて挨拶をした。「槇草美希です、いつも大家さんにはお世話になっております」

「いいえ、こちらこそ。父が度々美味しいお惣菜などを頂いているそうで、返って恐縮しておりますのよ」歩美はおっとりとした口調で言った。「今日は、父の代わりにお家賃を頂きに参りましたの。父が臥せっておりますものですから・・・」

「まあ、大家さんお体の具合でもお悪いのですか?」美希は驚いて訊き返した。

「いえいえ、私が急に出戻って来たものですから、びっくりして腰を抜かしましたのよ」歩美はカラカラと笑っている。

「お家賃はご用意致しておりますが・・・あの、もし宜しければ上がってお茶でも飲んで行かれませんか?」

美希は誰かと話したかった。少しでも気が紛れればとても有り難い。

歩美は、顎に人差し指を当てて考えていたが、「そうですねぇ?今日はもうすることもありませんし・・・では少しだけ、お言葉に甘えてお邪魔しましょうかしら」と言った。

美希は洗濯物を急いで片づけ、歩美を居間へ誘った。

美希は、歩美に座布団を勧めお茶を出した。あらかじめ用意をしておいた家賃を入れた封筒を歩美の前に差し出す。

歩美は中身を確かめてから、御通い帳に何事か記入した。

「お家賃、確かにお受け取り致しました」そう言って湯呑みを手に取った。「では、遠慮なく・・・ああ美味しい、やっぱり日本茶は落ち着きますよね」

歩美は、ポツポツと自分が出戻ってきた理由を話し出した。

十数年前、歩美は親戚の持ち込んだ縁談で静岡県に嫁いだ。

夫は遠洋漁業の漁師で、年のうち半分は海の上だ。

夫の両親と同居をし、献身的に働いた。姑は昔気質の厳しい人で、歩美に辛く当たる。

息子を身籠った時も、一切斟酌されなかった。

つわりで具合が悪いと言っても、食欲が無く食べられないときでも、「それはあなたの甘えです」と言って相手にされなかった。

男の子が生まれた時にはさすがに喜んでくれたが、その後は子供の乳母のように扱われた。

その子が熱を出したり怪我をしたりしたら、全部歩美のせいだと言って責められる。

テレビから得た知識を、勿体ぶって歩美に教え、結果が出なければやり方が悪いと言われた。せめて自分の経験からアドバイスしてくれたら素直になれたのに、と歯痒く思った。

根がおっとりしている歩美は、それでも今まで耐えてきたのだ。

が、息子が小学校三年になった今年、ついに我慢しきれなくなり息子を連れて嫁ぎ先を飛び出してきたのだと言う。

「結局なんのための結婚だったか分からなかったわ」歩美は笑って言った。

「ご苦労なされたのですね」美希は自分はまだ幸せだと思った。

「貴方はお幸せそうだわ」歩美は羨ましそうに呟いた。

「はい、幸せです・・・でも」美希は口籠った。

「貴方妊娠なさっているのね?」

「お分かりになりますか?」

「そりゃ分かるわよ、経験者だもの」

「幸せなのですけれど、周りは男の方ばかりで、少し不安で・・・」

歩美はゆっくり微笑んだ、「それなら私に相談なさい」

「えっ、宜しいのですか?」

「当たり前です、大家にとって店子は子供と一緒です。うちの作兵衛さんはいつもそう申しておりますよ」

美希は救われた気がした。ここで歩美に逢えたのは天の助けに違いない。

「ただし厳しい事も言いますよ、結局耐えるのは貴方ですからね」

「はい、有難うございます。とっても心強い・・・」美希は涙ぐんでいた。

「そう、そうやって妊娠中は涙もろくなるものですよ。でも、当たり前のことですから自分を責めないでね」

美希は、近頃自分を責める癖がついていた事に気がついた。いつもこのままではいけない、もっと気を強く持たなければ、と思っていた。

歩美の言葉は、美希を本来の自分に戻してくれそうな気がした。





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