いっ君
いっ君
1
今年初めての雪が降った。例年になく早い。異常気象かもしれない。
美希は縁側から庭に出てしのを呼んだ。
「しの、出ておいで」
しのは床下から、ひょっこりと顔を出した。もう立派なタヌキの顔だ。
夏毛の間は痩せて見えた姿が、冬毛を纏うとふっくらと丸く、まるで別の生き物の様に見える。
「今日は鶏のささ身だよ」美希は餌を入れた陶器の皿を足元に置いた。
しのは、薄く積もった新雪の上に小さな足跡を残して駆けて来る。
「まあ、もうすっかり冬の装いだね」美希は、皿に顔を突っ込んで餌を食べ始めたしのの頭を撫でた。
「来年は、赤ちゃんが出て来るよ。楽しみにしててね」
しのは、美希の話など耳に入らない様に、夢中で餌を食べている。美希はそんなしのの姿を、愛おしげに見ていた。
「あら、美希さん庭なんかに出て大丈夫?寒くない?」いつの間に来たのか、垣根の上から顔だけ出して歩美が声を掛けて来た。
「ああ、歩美さん。しのに餌をあげてたの。今日はなんだか気分が良いわ」美希はお腹を両手で支える様にして歩美を見た。
「ちょっと入っても良いかしら?」
「ええ、どうぞ。そこの木戸が開いてるわ」
歩美は垣根を回って、木戸を押して入って来た。歩美の後ろに小さな影が見える。
「今日は、息子の一郎を連れて来たの。これ、いっ君、ご挨拶をなさい」
歩美の背から、恥ずかしそうに男の子が出て来た。
「い、板井一郎です・・・」いっ君はおどおどと挨拶した。
「まだ板井という姓に慣れてないの。ちょっと前までは北村だったからね」
「槇草美希です。宜しくね」美希が優しく答えた。
いっ君は、ペコんとお辞儀をした。その目がしのに止まる、興味津々だ。
「しのって言うのよ。頭撫でてみる?とってもおとなしいの」
いっ君は、恐る恐るしのに近付き、しゃがみ込む。そっとしのの頭を撫でた。
しのは顔を上に向けて、いっ君の手のひらを舐める。
いっ君は、ニッと笑った。
「しの、おいで!」いっ君はいきなり駆け出して、狭い庭をグルグルと回った。
しのも負けずにいっ君を追いかけた。
「きゃはははははは・・・」いっ君が笑った。
「まあ、呆れた!人には物怖じするくせに、動物とはすぐに仲良くなるんだから」
「しのに、いいお友達ができたわね」美希も嬉しそうに眺めている。
「そろそろ上がりましょうか?」少し寒くなったので、美希が歩美に声をかけた。
「そうね、いっ君はどうする?」
「もう少し、しのと遊んでいていい?」
「いいわよ。でも寒くなったらすぐに上がってくるのよ」美希がいっ君にそう言ってから、歩美を促した。「玄関から上がりましょう」
二人は玄関に廻って家の中に入った。
居間にはストーブが焚かれていて暖かい、薬缶が湯気を立てている。
炬燵に膝をいれて、縁側のガラス越しに庭を見ると、いっ君がしのを抱き上げて頬ずりしていた。
しのもいっ君の頬を舐めている。
「まだ、学校に馴染めないの。今日もいじめられて泣きながら帰って来たわ」歩美が困った顔をした。
「まあ、可哀想に。とってもいい子なのに・・・」美希はなんと言ったら良いのか分からず、言葉に詰まった。
「父親がいない事が原因かな?こんな噂はすぐに広まるからね」
「離婚した事、後悔してる?」
「ううん、後悔なんてしてない。だって一年の半分しか家に居なかったのよ、いっ君も懐かなかったし」
「そう・・・」
「でも、父親の役目を、私は出来なかった。やっぱり男じゃなきゃ出来ない事ってあるのね」
「私も小さい頃母を亡くしたわ。お父さんは一所懸命にやってくれたけど、やっぱりねぇ・・・」
「だよね。作兵衛さんじゃ甘すぎるし・・・」
「今日、悠さんが帰って来たら相談して見るね。何か良い考えが浮かぶかも知れない」美希は、いつも世話になっている歩美の力になってやりたかった。
「ありがとう。でもあまり無理はしないでね」あゆみはニッコリと微笑んだ。
「ふ〜ん、そんな事があったのか・・・」槇草は部屋着に着替えながら言った。
「それで、何か良い考えは無いかと思って」
槇草はしばらく腕組みをして考えていたが、ふと思いついたように顔を上げた。
「よし、熊さんに頼んでみよう」
2
「おいは、こん歳まで女房も子供も持ったことはなかで、子供んこつはよう分からん。じゃっど友達になることならできまっしょ。よか、いつでんここに連れて来んね」
槇草が小屋を訪れて相談すると熊さんはこう答えた。
「ありがたい、早速次の日曜日いっ君を連れて来ます」
日曜日、槇草はいっ君を連れて妙心館にやって来た。裏に回って小屋の戸を叩く。
「こんにちは熊さん、槇草です。約束通りいっ君を連れて来ました」槇草は小屋の外から声を掛けた。
「遠慮せんでんよか、入らんね」中から熊さんの返事が聞こえた。
引き戸を開けて中に入ると、文机に本を置いて、熊さんは本を読んでいた。
「ちょうどよか、今本ば読みよったが、むつかしゅうて眠とうなったとこやった」熊さんは本を閉じた。
「『不動智神妙録』たい。禅僧の沢庵が柳生宗矩の為に書いたもんばってん、
禅坊主の言う事はおいにはさっぱり分からん」そう言って熊さんは笑った。
「ははは、俺も師匠に貸してもらいましたが、読むのに一月かかりました」
そこで槇草は改めて来訪の意を告げた。「この子を時々預かって欲しいのです」
槇草はいっ君を振り向いて中に入るように促した。
「い、板井一郎君です」
いっ君は熊さんの髭面を見て一瞬怯んだようだったが、何とか名前は言えた。
「挨拶はよか、狭かとこじゃが遠慮せんで上がらんね」
「では、お言葉に甘えて・・・」槇草は靴を脱ぎかけた。
「槇草さぁ、あんたはもうよか、そん子ば置いて帰りあんせ」
槇草は熊さんの意図を察した。「それでは、よろしくお願いいたします」
槇草はいっ君を置いて帰って行った。
「上がらんね」熊さんはいっ君に声を掛けた。
「・・・」いっ君は黙ったまま、何か珍しいものでも見るように小屋の中を眺め回している。
「狭かろう?じゃっどん人一人が生きていくには十分たいね」
いっ君の目が、土間に置いてある大工道具に止まった。雑然といろんな道具が詰め込んである。
「側に寄って見てみんね、自由に触ってよかけん」
いっ君は道具箱に近寄りしゃがんで中を覗いた。
熊さんは、いっ君を放って置いてまた本を開いて読み始めた。
暫くすると道具の触れ合う音が聞こえて来た。
熊さんはそれをチラッと横目で見ただけで、相変わらず本を読んでいる。
いっ君は、飽きずにいつまでも道具を手に持って眺めていた。
3
次の日、いっ君は一人でやって来た。熊さんは風呂焚き用の薪を割っていた。
「風呂ば焚くのに薪ば割りよると。手伝わんね」
いっ君は、コクんと頷いた。
熊さんは、先が曲がって二股に分かれた鉄の棒をいっ君に渡す。あの時いっ君が道具箱の中で見た物だった。
「こいば使うて、こんトロ箱ば解体してみんね」熊さんはいっ君にトロ箱を一つ投げた。
いっ君は鉄の棒を持ったまま途方にくれている。
「ここば、こう釘の頭に差し込んで、こん曲がったとこば支点にして釘ば抜くったい、テコの原理やね」
熊さんは、一度だけやって見せると、また薪を割り始めた。
小一時間経った頃、いっ君がようやくトロ箱を一つ解体した。いっ君の手は真っ赤になって、所々に擦り傷があった。
「おお、でけたね。釘も全部抜いたごたるな」熊さんは曲がった釘を集めて、箱に入れた。「後で伸ばしち、また使うとたい」
いっ君は、手に持った鉄の棒を熊さんに示して訊いた。「これ・・・」
「こいか?こいは釘抜きたい。覚えとかんね」
「釘抜き・・・」いっ君は口の中で呟いた。
その次の日は、鉈の使い方を習った。熊さんは、風呂の焚き口の前にしゃがんで、薪を焚べている。
先週解体したトロ箱を、風呂の焚き口に入れやすい太さに割って行く。
「こん石ん上に板ば立てて、鉈ば当てる。板ごと石にコンと当てれば刃は板に入って行くけん、後は板ば支えた手ば離して石に強く打ち付ければよか」熊さんは、また一度だけやって見せた。
いっ君は早速くまさんを真似て、やってみようとした。
「左手ば離さな、指も一緒に落ちっばい」熊さんはそう注意して、風呂焚きに戻った。
その又次の日は、風呂焚きだ。
「こん枯れた杉の葉ば焚口に入れちから新聞紙で火ば着けっと。上から細か薪ば入れち火がついたら、だんだんと太か薪ば焚べっとよか」
いっ君は苦労しながら、マッチで新聞紙に火をつける。
「火が着いたら、こん火吹き竹で空気ば送ってやるとよう燃えるたい」熊さんは節を抜いて、先っちょに小さな穴の空いた竹の棒をいっ君に持たせる。
いっ君は、火吹き竹で空気を送ると、火が勢いよく燃えるのが面白くて、頬が痛くなるまで火を吹いた。
いっ君の手も顔も、煤で真っ黒になった。
「もうよか。ちょっと道場に上がろかの」熊さんはいっ君を連れて道場の玄関に回り、いっ君を風呂場に連れて行く。
「入ろか?」
いっ君はコクんと頷いた。
「気持ちいい!」いっ君は初めて大きな声をあげた。
熊さんは、いっ君の小さな背中を流してやった。
「上手かろが?おいは風呂屋で三助ばやったこつもあるけん自信があったい」熊さんは笑って言った。
4
「美希さん、今日いっ君が目に青痣を作って帰って来たのよ」歩美が言った。
「まあ、大変じゃない!」
「学校で友達と喧嘩したらしいの」歩美はなんだか嬉しそうだ。
「傷は?大丈夫なの?」
「うん、傷は大した事ないけど・・・」
「ないけど・・・何?」
「相手の子も連れて帰って来ちゃったの。いっ君をいじめていた子」
「あら!」
「親友になったんだって。一緒に熊さんのところに行っちゃった」
「・・・」
「ありがとうね・・・ほんとに有難う・・・」歩美の声は、もう言葉にならなかった。
「良かった・・・ほんとに」美希も目頭が熱くなるのを感じた。




