第49話「執刀医の罪・後編」
皆様。
ドキドキです。
では、没入してください!
手術は、順調に進んでいた。
頭蓋を開き、慎重に、慎重に——腫瘍へと近づいていく。
言語野と運動野の、すぐ近く。
ミリ単位の世界。
ここからが——本番だ。
「麻酔を、緩めます」
俺の指示で、麻酔科医が薬の量を調整した。
しばらくして——
「……せん、せい?」
翔太の声が、聞こえた。
「翔太君」
俺は、声をかけた。
「先生……?僕、今、何してるの……?」
ぼんやりとした、声だった。
「今、手術してるんだよ。翔太君と話しながら、確認しながら進めるからね。怖くないからな」
「……うん」
素直な、返事だった。
俺は、腫瘍の切除を再開した。
少しずつ。
慎重に。
一ミリ、また一ミリ。
「翔太君。指は、動くか?」
「……うん」
「気分は、悪くないか?」
「……うん」
「看護師さんの顔は、見えるか?」
「……うん。見える」
順調だった。
完璧だった。
腫瘍は、確実に取り除かれていく。
言語野も、運動野も——損傷していない。
会話もできる。指も動く。
俺は——少しだけ、安心した。
ほら。
俺なら、やれる。
この子を、救える。
野球ができる体に、戻してやれる。
そう——思った、その時だった。
「翔太君?」
返事が、なかった。
「……翔太君?」
聞こえているはずの距離。
しかし——返事が、ない。
「翔太君!?」
俺の声が、上ずった。
「どうした!?」
「先生!」
看護師の声が、響いた。
「意識が——なくなっています!」
「何!?」
モニターを見た。
数値が——おかしい。
「そんなバカな——」
「翔太君! 翔太君!!」
俺は、必死に呼びかけた。
「うーん……」
言葉にならない、声。
翔太の口から、意味をなさない音が漏れた。
それきり——反応が、なくなった。
腫瘍は、ほぼ摘出できている。
脳にも、神経にも——損傷は、ないはずだ。
なぜだ。
なぜ——
「先生! 指示を!」
「……っ、麻酔を強めろ。処置を終わらせる」
俺は、手を動かし続けた。
冷静を、装いながら。
しかし——指先が、震えていた。
初めて、だった。
手術中に、手が震えたのは。
———
集中治療室の外で、ご両親が待っていた。
落ち着かない様子で。
俺が出てくるのを見て、母親が——駆け寄ってきた。
「先生! 翔太は、翔太はどうなるのですか!?」
「先生!」
父親も、すがるように俺を見た。
俺は——言った。
「腫瘍の摘出は、完了しました」
「それで、翔太は——」
「意識は……恐らく、明日には戻るはずです」
そう、言った。
ご両親に。
そして——自分自身にも。
言い聞かせるように。
明日には、戻る。
きっと、戻る。
戻ってくれ。
———
意識は——戻らなかった。
翌日も。
その次の日も。
一週間が過ぎても。
一ヶ月が過ぎても。
翔太は——目を覚まさなかった。
遷延性意識障害。
俺が、最も恐れていた結果。
それが——現実になった。
ご両親への説明。
何度も、何度も、頭を下げた。
病院からの、責任追及。
俺の判断は、正しかったのか。覚醒下手術を選んだことは、適切だったのか。慢心は、なかったのか。
問い詰められた。
だが——何よりも、辛かったのは。
意識の戻らない翔太の、手を握ることだった。
小さな、手。
まだ、温かい手。
でも——もう、握り返してはくれない手。
「翔太君」
俺は、毎日、病室に通った。
「目を、覚ましてくれ」
「先生と、約束したじゃないか。ホームラン、打つって」
「頼む——」
祈った。
医者が、祈るしかなかった。
科学を、技術を、誰よりも信じていた男が——ただ、祈ることしか、できなかった。
枕元には、サインボールが、置いたままだった。
翔太が、目を覚ます日を、待つように。
———
一年が、過ぎた。
俺は——逃げた。
先輩医師からの誘いがあった。別の病院へ来ないか、と。
俺は——その誘いに、乗った。
そっと。
逃げるように。
翔太のいる病院から、活躍の場を、移した。
新しい病院で、俺は、また手術をした。
多くの患者を、救った。
腕は、確かだった。実績も、積み上げた。
だが——
あの日から。
俺は、誰の頭にも、もう二度と、手を置かなかった。
子供の患者を見るたびに——翔太の顔が、浮かんだ。
そして、思った。
俺は——あの子を、救えなかった。
俺の慢心が。俺の傲りが。あの子の、人生を——
その後悔だけが。
ずっと、俺の中に、残り続けた。
離婚した。
家族を、失った。
それでも——あの後悔だけは、消えなかった。
俺が、脳外科医を続けた理由。
それは——名声でも、金でもなかった。
あの日の、罪滅ぼしだった。
一人でも多く救えば——いつか、許される気がして。
でも——救えば救うほど。
翔太を救えなかった事実が、重くなっていった。
———
「——先生」
声が、聞こえた。
俺は、はっと顔を上げた。
広間。
トゥオネラ国の、最下層。
目の前に——イロ・アウロが、立っていた。
いや。
翔太が。
「思い出しましたか」
翔太が、静かに微笑んだ。
その顔は——あの日の、八歳の少年のままだった。
「……翔太」
俺の声が、震えた。
「お前は——ずっと、ここに」
「はい」
翔太が、頷いた。
「ずっと——待っていました」
「先生が、来てくれるのを」
その瞬間。
翔太の背後で——巨大な影が、蠢いた。
ストレッシ。
不快の、塊。
翔太の「絶望」から、生まれたもの。
「……でも」
翔太の表情が——歪んだ。
「もう、遅いんです」
「翔太——」
「先生は——僕を、置いていった」
声が、低くなった。
不快の影が、広間を——満たしていく。
「あの日から——僕は、ずっと、一人でした」
ストレッシが——咆哮した。
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つづく
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