第31話
……え。
「ちょ、イリス……!?」
「え、さ、え……!? い、イリス、ナイフで腕切るって……あの十字架と声、何!? 聞いてないよ!?」
「イリス!!」
イリスであるはずの何かは未だ、その胸に突き立てた黒い十字架を押し付け、肉を抉り、流石に耐えきれなくなったのか。それとも別の何かなのか、ゆっくりと膝を突いては激しく、低く苦しみながら何度もイリスは大量の吐血を繰り返す。
その頃にはイリスの背中に流れる長い髪の間を縫うように、イリスを貫いた血塗られた黒い十字架がその身を貫いてもまだ、満足していない。更に、もっとを求めるように、まるで飢えるようにイリスを劈いてもまだ牙を剥く。
一度は反応が遅れた物の、他の特務官達同様にイリスへ近付かんと駆け出すノアだが……儀式は、もう既に始まっている。
空をも、大地をも、そして心をも引き裂くような轟音と地響き。既に若干それでこの広い空間が崩落しているのか、施設内は問題ない物の天井に岩のような物がぶつかっては砕けるような音が響くと共に……声が。階段が破壊される音が近付いてくる。
あっちも来やがった……!!
「イリス先輩!!」
「イリスてめぇ、やっぱり何か説明端折りやがったな……!!」
誰よりも速く辿り着いたトウマがイリスに手を伸ばして、――黒い業火に拒まれる。その魔法陣上に手が届いた途端、突如蛇が纏わり着くように炎がその腕を掛けて皮膚を焼く。
思わず一度は手を引いたトウマだが……もう、その焼かれた手は腰に携えられた野太刀の柄を握っている。
「――退け。俺らの邪魔をするな、亡霊風情がァ……!!」
一閃。斬撃を飛ばすように解き放たれたそれは魔法陣の主要な太い線から溢れ出している炎を両断。本来であれば共に傷付けてしまうはずのイリスを傷付ける事なく斬撃がその身を通過し、イリスを劈く黒い十字架を裂き。その更に奥にある炎を斬り裂く。
媒介は炎か、黒い十字架か、それとも魔法陣か。このままイリスを害し続ける事は難しいと判断したらしく、貫通しても尚、抉るように突き刺されていた黒い十字架が独りでに抜けていく。
その頃にはイリスの体には力が入っておらず、後方へ崩れていっており、黒い十字架には何の支えもない。それでも、まるでその高さ、その位置、その角度で固定されていると言わんばかりにイリスの体が倒れるに連れて抜けていく。
本気でイリス先輩を殺す気か……!!
ノアよりも先にイリスへの到達したヴィルヘルムがその肩を抱き留めつつも後方へ……ノア達の方へと下がりつつ、黒い十字架が抜けきった所で直ぐその傷口に触れる。
本来であればただ傷口を抑えた程度ではどうにもならないが……――彼は、吸血鬼だ。
触れた傷口から溢れ出るはずの血は緩やかに進路を変え、地へ落ちるはずの物が空中に溜まり場を作る。イリスの体から流れ出す血がその溜まり場へ集まる反面、ほんのり輝く血の溜まり場から蒼い光が見える。
「……良し、とりあえず間に合った。イルメリナ! 輸血パック!」
「う、うん! ノア君も、早く!」
「は、はい!」
これがヴィルヘルムの血の魔法なのだろう。敢えて空間拡張魔術ではなく、鞄の中に放り込まれていた輸血パックをイルメリナとノアが半ば強引に引き摺り出しては蓋を開けていく。
重力に従い、そのまま地へ流れるはずのそれは独りでにイリスの流血が溜まり、浄化されつつある溜まり場へ集い。――また、傷口からイリスの中へと戻っていく。
血が……?
「……体温はまだ危険域だけど失血は止められた。吐血も落ち着いたね。」
「それで、例の神様ってのは!? まだ降りてこねぇのか……!?」
「……あの階段は長かったからな。今しばらく、このままやろう。」
不気味な魔法陣はまだ稼働している。敢えてか、それとも流石に駄目なのか、その魔法陣の中で拡がっているイリスの血溜まりはこちらへ戻ってきそうにない。
問題は、あの空中に佇み続けている黒い十字架だ。現状はそこで静かに鎮座しているだけだが、あれが突然こちらへ飛んでくる可能性はどれだけ高いだろうか。……少なくともここはあのエスメラルダが居た国であり、随分と凶悪かつ神代の神などという原初の神を呼び出せるような国だ。……それが起きても不思議ではない。
まだ神代の神が来るには早い……なら、あの黒い十字架は……?




