1、逃亡者
暗く深い森の中。
僅かな月明かりさえ届かぬ程覆い茂った木々の間を駆け抜ける男がいた。砂漠の民が着る一般的な麻の服に、革の胸当てを装着していた。左右の腰には双剣が装備されている。
この男は暗闇の中、灯りになるようなものを持っていなかった。それでも彼の動きに迷いはない。
俊敏な身のこなしで倒木を飛び越え、正面にある岩の上に着地した。
着地した体勢のまま注意深く辺りを見渡す。
そこにあるのは天を覆う木々と苔むした大地のみ。
当然人の気配はなく、時折り聞こえる小さな虫の音以外何の音も聞こえない。
「…撒いたか」
ぽつりと男が呟く。
流れる汗が顎を伝って岩に落ちた。
あまりに静かな為、耳の奥で脈打つ鼓動がやけに響いて聞こえる。
男は音もなく岩から降りると、近くの巨木の根本に腰を下ろした。
分厚い苔が生えた地面が柔らかく心地よい。息を整え硬い幹に背を預けた。長く続いた緊張状態が僅かに緩和される。
途端に猛烈な疲労感が襲ってきた。
少し気が緩んだか。
追っ手から逃れる生活はもう10日程になる。
昼夜問わず逃げ続けたが中々追っ手を撒く事ができずにいた。少しも休まることのない日々は無情にも体力と精神を削り取っていく。
その為、人間の生活圏から外れ魔物の住むと言われるこの森へ逃げ込んだ。危険な森までは追ってこないのではないかと考えての行動だったが、これが吉と出るか凶と出るかは分からない。
現在追っ手は来ていないようだったが安心はできない。相手は追跡に長けた者たちなのだ。
今直ぐにでも歩を進めたかったが、身体が重い。蓄積された疲労が纏わりつき動きを阻んでいる。このままでは歩くこともままならない。
仕方なく男は少しだけ休憩することにした。
腰のポーチから白い花を取り出す。手で揉むと清涼感のある香りが広がった。
くしゃくしゃになった花を足元に散らす。
これは魔物除けに効果のある花だという。森に入る前に街道の露天商から買ったものだが、効果の程は分からない。
気休めだとしてもないよりマシだろう。
今のところまだ魔物には遭遇していない。
座ったまま両手を左右の腰に下げている剣の柄に添える。
少しだけ、少しだけと念じ目を閉じた。
自分を見下ろし静かに涙をこぼす女性。
顔に靄がかかったようで誰か分からない。
女性の傍らには背の高い男性がいた。こちらの顔も同じく分からない。
女性はごめんねと言った。
その時は何故謝られているのか分からなかったので、首を傾げることしかできなかった。
どうして謝るの?
女性の服の裾を引っ張ったが反応がない。男性が女性の服を掴む小さな手を引き剥がした。その動作は乱暴で怖い。涙が溢れてくる。
零れ落ちた涙が、乾いた砂に落ちて小さなしみを作った。次々と涙が砂に落ちていくが、一陣の風が吹き涙の跡は砂に埋もれてしまった。
何かを引きずるような音でハッと目を開けた。
夢を見ていたような気がする。
少しだけ休憩するつもりが、かなり寝入ってしまったようだ。
慌てて辺りを確認した。
暗闇だった森に柔らかくか細い光が差し込んでいる。
「しまった…!」
夜が明けてしまっている。
いったい何時間寝てしまったのだろうか。直ぐに移動しなくてはならない。幸い、寝たことで体力はある程度回復している。
急いで立ち上がり、駆け出そうとしたが直ぐに動きを止めた。
前方やや離れた場所に妙な生物がいた。
犬程の大きさのナメクジで、頭頂から背にかけて蔦のような蔓植物が生えている。蔓には赤い花や実がついていた。
蔓の中にはリスがいて赤い花を齧っている。
ナメクジが動くと長い蔓が引きずられ音を出していた。
どうやらさっき聞こえた音はこの音だったようだ。
「あれが魔物…なのか…?」
魔物は全て恐ろしく、人を襲うものだと思っていたのでやや拍子抜けした。
蔓の隙間から出ている2本の触覚が忙しなく動いているが、こちらに気づいているのかは分からない。
苔に粘液の跡をつけながら、ゆっくり森の奥へ進んでいる。
その方向は男が向かいたい方向だった。
害はなさそうに見えるが魔術を使うものもいるらしいので、警戒するに越したことはないだろう。
予定していた進路をやや西へ変更することにした。
ナメクジの魔物が少し離れた事を確認すると、足音を立てないよう注意しながら進んだ。魔物が見えなくなると一気に駆け出す。
今後も魔物に遭遇する事を考えれば慎重に進んだ方がいいのかもしれないが、今は追っ手から距離を取ることが優先された。
追っ手が諦めていないのであれば、寝てしまった数時間でかなり距離を縮められた可能性がある。
この森を越えれば隣国に入れるのだ。
ここまで来て捕まる訳にはいかない。
徐々に木々の隙間から差し込む光が強くなってきた。
薄暗かった森の中も明るさを増している。
足跡が残らないようしなやかな身のこなしで、石や木の根の上を跳ねるように駆けていく。
やがて前方から水の流れる音が聞こえてきた。
そのまま進むと森の切れ目に出る。
目の前には川が流れている。川幅は狭いがそれなりに水量はありそうだった。
ここ数日まともに飲食していないので喉が渇いて仕方ない。
透き通った川に頭を突っ込み浴びるように飲む。
喉が癒されると同時に、焦りと不安に満ちた頭も冷やされた。心が平静を取り戻す。
頭を上げると川面には男の顔が映っていた。
歳の頃は二十代前半、赤銅色の髪とよく日に焼けた顔には金を散らした美しい緑の瞳。だが瞳孔は猫のように細長かった。
髪から滴る水滴が輪郭を歪ませる。
獣憑きの目。忌々しいものを見たように舌打ちをして立ち上がり、服の袖で顔を拭う。
その時、川上の対岸から音がした。
素早く岩陰に隠れ様子を伺う。
追っ手かはたまた魔物か。どちらにしても危険な状況に違いない。
緊張の中、対岸の森から出で来たのは小柄な人影だった。ゆったりとしたフード付きのローブを来ており、人相はおろか性別すら分からない。
その人物は手に持った桶に水を汲むと、重そうに抱えながら森へ帰って行った。
男は追っ手や魔物でない事に胸を撫で下ろした。
だが、こんな森の中に人がいるとは。物好きも居るらしい。
これは幸運かもしれない。
もう手持ちの物資が尽きている。ここで補給できれば今後の行程が楽になる。逆に補給しなければこの森で野垂れ死ぬ可能性が高まる。
何より喉の渇きが癒された事で、今まで感じなかった空腹感が出てきた。
今のところ、まだ追っ手の気配はない。
事情を話し食料等分けてもらおうと考えた。
多少時間を消費する事になるが、これは致し方ないだろう。
そうと決まれば岩の上を跳躍し対岸に渡る。川上に向かい、先程の人物を追いかけて行くのだった。




