魔法中年俊郎ちゃん
店内に広がる、珈琲の香りが鼻を擽った。
絶妙な配置で設えられたスピーカーから、テイクファイブが流れている。
『こんにちはー。』
杉山が、カウンターの向こうに声をかけた。
『おう!登喜雄に裕司か、いらっしゃい。』
熊のような大男が、ドリップ中のサイフォンから目を離さずに返事をした。
『マスター、お邪魔します。』
平木がペコッと頭を下げた。
『おう!』
その人が此方に顔を向けた。
(ああ…そう云うことか。)
その時、さっき感じた違和感と同じ空気を感じた。
違和感の正体は、この人だったのだ。
『今日は奥の窓際が良い按配だぞ。』
『じゃあ、そこにします。』
杉山が先だって、奥へと進んだ。平木がそれに続く。
俺は、何故だか動けずに居た。それが何故なのかは、なんとなく想像がついた。
『なにボーッとつっ立ってんだ?お前さんも入んな。』
マスターが、人の良さそうな笑顔でそう言った。すると、その場に縫い付けられたように動かなかった足が、すんなりと動いた。
『お邪魔します。』
頭を下げて奥に進むと、空気が変わるのが解った。
『どうしたの?』
杉山が、隣の椅子を引いてくれた。
『圧倒されたんだろ?俺もそうだった。すげえよな、このレコードの数。』
向かいの席に座った平木が興奮気味に言った。視線の先に目を遣ると…成る程、圧巻だ。壁一面がレコード棚になっている。
『木曜日の夜にはライヴがあるんだよ。この席は退かしてステージになるんだ。』
杉山が説明してくれた。
コイツ、やけに詳しいな。
『兄貴もメンバーなんだ。ライヴが無い日はウェイターでバイトしてるよ。』
成る程、そう云うことか。杉山が、こんな小洒落た店を知っていたことに驚いたが、健雄君経由だったのか。
と言うか、
『健雄君がジャズ?意外だな。』
ガキの頃の健雄君からは、ジャズなんか微塵も想像出来ない。足が早くて活発で、運動神経の塊みたいな少年だったのだ。
その健雄君が今ではジャズ…。俺が引っ越した後に、彼の身になにが起こったのだろう?
『なんでジャズって解ったの?俺、言ったっけ?』
首を傾げる杉山。
『飾棚のレコード見りゃ解るよ。チャーリー・パーカー、マイルス・デイビス、ルイ・アームストロングって…そのラインナップから他のジャンルを連想する方が難しいだろう?』
当たり前のことを言ったはずなのに、目の前の二人は目を丸くして固まった。
なんでそんなに驚くんだ?
『大御所とは言え、お前さんの歳で知ってるってのは驚いた。詳しいな。』
後ろから声がした。振り向くと、お冷やとお絞りをトレイに乗せて、マスターが此方へ歩いて来るところだった。
『少しかじった程度で、詳しい訳じゃないです。』
正直にそう返すと、其々の前にグラスとお絞りを置きながら、マスターが言った。
『いやいや、かじった程度でスラスラ名前が出るなんざ、すげえもんだ。』
マスターの言葉に、固まっていた二人が、コクコクと頷いた。
『それに加えて男前と来たら…お前さん、モテるだろう?』
今度は俺が固まる羽目になった。
どうして今日は、聞きたくない言葉を次々に聞かなきゃならないんだ?
相手は初対面で年上だし、今は不機嫌面は出来ないし…。
『そう、それが言いたかったの!』
おい平木、便乗するな。
『やっぱり格好良いね。』
『その言葉は要らん。』
杉山が言うや否や、またまた口から出てしまった。
俺と杉山のやり取りを見て、マスターが笑いを噛み殺したようだ。あらぬ方向に顔を向けてやり過ごしたつもりだろうが、肩が震えている。
『さすが幼なじみだな。再会して直ぐに漫才みたいなボケと突っ込み。』
おい平木、後で覚えとけよ。
『登喜雄の幼なじみか。名前は?』
『吉元です。』
『名字じゃなくて、名前の方だよ。』
『健一です。』
『そうか。ケンケン、宜しくな。』
肩をバンバン叩かれた。そして思考が停止した。
初対面の大人にあだ名で呼ばれたのは、かなりの衝撃だった。
お冷やを飲んで冷静になろう。
『そう言えば…マスターの名前、教えてくださいよ。』
『あれ?言ってなかった?』
『はい。前回もその前も、マダムに邪魔されました。』
『あー、ブルドック婦人が来た日か。すまんな。』
『で、なんですか?』
『俺の名前は、魔法中年俊郎ちゃんだ。』
飲みかけていたお冷やをぶちまけそうになった。慌てて飲み込んだら、大いに噎せた。
お絞りを口に充てて咳き込んでいると、杉山がぼそっと言った。
『俺はもう慣れた。』
この破壊力に慣れたとは…。杉山は案外、戦闘力が高いのかもしれない。
(平木はどうなんだろう?)
平木の様子を確認する。彼は、魂が抜けたのか、何もかもが停止していた。
『マスター、その自己紹介は止めた方が良いですよ?』
この状況で冷静で居られるだけでも凄いのだが、杉山が、賢者に見えてしまうような発言をした。
『なんでだ?事実を言ったまでだが。』
『中年は事実でしょうけど、魔法って…。』
停止を解除できたのか、平木がズバリとそう言った。
『いや、事実なのは魔法の方だ。俺は中年じゃない。これでもまだ、ギリギリ20代だ。』
『 ………。』
今度は三人揃って固まった。




