それぞれが、悩ましいこと(2)
藤色の光…彼女だ。
咄嗟に背後の状況を思い出す。
(不味いぞ。)
そう思ったが遅かった。藤色の光が激しく揺らめいて、彼女が小さく息を呑んだ。
視線を追って振り返ると、浮気相手から抱きつかれて、まんざらでもなさそうな原口の姿が目に飛び込んだ。彼女の来訪には気付いていないのか、女の手を振り解く様子は無い。
慌てて視線を戻すと、見開いた目に涙を浮かべて、彼女が立ち竦んでいた。
どうする?俺。
彼女にとっては、間違いなく最悪な光景である。
その時、マスターの言葉が頭に響いた。
【自分の気持ちに素直になれ。】
それが聞こえた刹那、体が勝手に動いていた。
俺の意思とは関係なく、足が勝手に歩を進める。まるで誰かに操られているみたいだと感じた。
そして、縫い止められたように動けない彼女の前で、操られている感覚は消えた。
これまで避けていた相手を前にしても、彼女は動かなかった。
すれ違い様に肩をポンと叩き、
『見ない方がいい。』
と囁く。
そのまま通り過ぎるつもりでドアに手をかけた時、背後で大きな足音がした。
何事か?と振り返ると、原口の浮気相手が、彼女に向かって手を振り上げるところだった。
『止めろ!』
叫んで止めに入ったが間に合わなかった。バチン!と嫌な音がして、振りかぶられた手は、彼女の頬を見事に叩いた。
『ゆかりんご!』
駆け寄った原口が、浮気相手を抱きしめた。
『あ…。』
彼女が小さく声を発した。
言葉にならないのだろう。
『馬鹿、そっちじゃないだろう!』
慌てて叫んだ。
俺の言葉に「ハッ!」とした顔をして、原口が彼女に手を伸ばしたが、浮気相手がそれを止めた。しがみついて原口から離れようとしないのだ。
『これ以上つきまとうな!迷惑してんのが解んないの?この、クソ女が!』
原口にしがみつきながら、浮気相手が彼女を罵った。
『止めろ!そんな事言うな!』
原口は浮気相手の口を塞ぎにかかる。だが、女は更に言い募った。
『エッチさせないで彼女ヅラするな!お前はもう用無しなんだよ!』
聞いた途端に吐き気がした。
あまりにも下品で、醜すぎる言葉だった。
『いい加減にしろ!』
浮気相手を羽交い締めにしながら原口が叫んだ。被害者である自分の彼女はそっちのけで、浮気相手の方に必死に見えた。
この光景を前に…彼女は今、何を思っているのだろう。
その時、彼女から発せられていた藤色の光が、突然ふっつりと消えてしまった。背後にはただ、陽炎のような空気の揺らぎが見えるだけになっていた。
『解った…。』
そう呟いた彼女が、力なく立ち上がった。
足元がふらついている。
思わず駆け寄って手を貸すと、『有難う』と寂しそうに微笑まれた。
『あゆ!』
ここで初めて。原口が彼女の名を呼んだ。寂しそうな笑顔のまま、瞳は涙で潤んでいた。
『帰るね。模試、頑張ってね。』
そう言って笑った彼女の瞳から、涙が一筋流れて落ちた。精一杯の笑顔なのだろう。
そんな健気な姿にいたたまれなくなった。
『ちょっと待てよ。』
引き止める原口に背を向けて、彼女はふらふらと歩き出した。
今にも倒れそうな覚束ない足取りに、弾かれたように体が動く。彼女に駆け寄って腕をとって支える。そして、振り向いて原口に言った。
『先にそいつをなんとかしろ。お前の彼女は俺が見る。』
我慢していたのだろう。俺の言葉に弾かれたように、彼女はとうとう泣き出してしまった。声を殺して必死に堪えようとする姿に、胸が締めつけられた。
ドアを抜けて外へ出た。
予備校から少し歩いたところで、フラフラと歩いていた彼女が、突然座り込んでしまった。
驚いて覗き込むと、顔が真っ青になっていた。浅い呼吸を繰り返し、苦しそうに顔を歪めている。明らかに過呼吸の症状だった。
『ゆっくり息をしてみて?』
屈んで背中を擦りながらそう促すが、上手く息が吸い込めなくなっている。
(参ったな。)
背中を擦りながら顔を上げると、前方から見知った顔が歩いて来るのが見えた。杉山と田辺だった。よく見ると、杉山の手には紙袋が握られている。
しめた!
『杉山、走れ!』
座ったまま手を上げて叫ぶと、一瞬首を傾げた後でドタドタと駆けて来た。途中で状況が解ったのか、田辺が先に、全力疾走で駆け寄った。
『何があったんだ?』
肩を上下させ、荒い息のまま田辺が訊ねた。
『過呼吸だ。その袋貸してくれ!』
遅れて来た杉山が、慌てて袋を差し出した。
『此処じゃ目立つ。駐輪場に運ぶぞ。』
田辺がそう言って彼女を抱えて走り出した。
『ゆっくり息をさせろ!』
後を追いながら叫ぶ。横を走る杉山に中身を渡し、袋を空にした。




