それぞれが、悩ましいこと(3)
駐輪場に下ろされた彼女は、真っ青な顔のまま、相変わらず浅い呼吸を繰り返していた。支えている田辺まで顔を青くして狼狽えている。
『これを口に当てて。』
紙袋を振って膨らませ、彼女の口に当てた。
『な、なにしてんだよ!』
驚いた田辺が払い除けようとしたが、睨み付けて許否した。
『応急処置だ。』
紙袋を口に当てさせて、一定の間隔で口元から離す。そしてまた口に当てる。何度か繰り返すと、呼吸はだんだん深くなっていった。紙袋を外して深呼吸をさせると、今度は上手く出来た。
『血中の炭酸ガスの濃度が下がってたんだ。ちゃんと息が出来るようになれば大丈夫だ。』
正しく呼吸が出来ている事を確認して、介抱を田辺に任せた。田辺に背中を擦って貰ううちに落ち着いたようだ。『大丈夫?』と問われて首肯く顔に、力なくではあるが笑みが戻っていた。
『お茶を買ってくる。暫く呼吸に気を付けて。』
あれだけ浅い息を繰り返していたのだ。喉が乾燥してカラカラになっているに違いない。
一旦二人に任せて、すぐ側にある自動販売機にお茶を買いに行くことにした。
『何があったの?』
取り出し口から烏龍茶を取り出しているところに、杉山がやって来た。紙袋から取り出されたパンを両手に抱えて、心配そうに首を傾げている。
『原口の浮気現場を見た挙げ句、相手の女から罵倒されて平手打ちをくらったんだ。俺はたまたまその場に居合わせた。』
『ひどい…。』
『今思い出せばまた過呼吸に陥るかもしれない。だから、彼女の前でこの話はするなよ。』
『うん、解った。でも…』
杉山が言いよどんだ訳は、戻ったら直ぐに解った。
『吉元、一体何があったんだ?』
困ったように訊ねた田辺の腕の中で、彼女は小さく震えていた。
『泣かせたのか?』
『何があったのか聞いたら泣き出したんだ。ごめんな、あゆちゃん。』
謝られた彼女が、首を振って顔を上げた。左の頬が、赤くみみず腫れになっていた。
側に寄って屈み、他に傷がないかを診た。幸い腫れの他に傷は見当たらず、冷やせば治まりそうだ。
『大丈夫?』
そう訊ねたら、彼女は俯いたままで頷いて、小さく鼻をすすった。
『顔にみみず腫が出来てる。冷やせば明日には目立たなくなるから大丈夫だよ。これで冷やすと良い。』
そう言って烏龍茶を差し出すと、『有難う』と、顔を上げて受け取った。懸命に涙を堪え、俺を見上げたその顔がとても健気で…見ている此方が辛くなった。
『どうしてみみず腫れなんか…。』
田辺の顔が歪んだ。
『それは…』
『まさか原口が?』
彼女が田辺の言葉を遮った。
『ち、違うよ、転んだの。それで…』
その時、頭の中に声が響いた。
【あの人の友達だから…】
彼女の声だった。
俺達が原口の友達だから、だから本当のことは話せないと思うのだろう。だから「転んだ」などと、真実を曲げて告げたのだろう…。
彼女の言葉を引き取って、俺も嘘の上塗りを手伝った方が良いのか?
いや、それでは解決しない。
根本を正さなければ、悲劇は何度も繰り返される。
『友人だからこそ、間違いを正さなければならないと思う。庇いたい気持ちは解るが、原口の為にはならないよ。』
俺の言葉に、彼女の瞳が大きく揺れた。
『俺が話そうか?』
彼女は首を振った。
【巻き込みたくないから…】
また、頭の中に声が響いた。
(自分が一番辛いだろうに…こんな状況でも俺を気遣ってくれている。)
いじらしさが身に染みて、俺まで涙が出そうになった。
『俺は望んで巻き込まれたんだ。だから気にしなくて良いよ。俺が話すから、辛くなったら言って?』
諭すようにそう言うと、彼女の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
その時、彼女の背後に、再び藤色の光が宿った。優しく揺れて、彼女の輪郭を包むように…とても温かい光だった。
それから、俺が見た事を二人に話して聞かせた。彼女の様子を見ながら、当たり障りのない部分をかいつまんでの話だ。
両手にパンを抱えたまま、杉山が隣に寄って来て座った。
田辺は彼女を腕に抱えたまま、俺が話し終えるまで背中を擦り続けた。
原口の浮気相手が彼女を平手打ちしたことは話したが、女の言葉は話さなかった。彼女の気持ちを考えたら口に出来なかったからだ。
だが…話さなかった本当の理由は違うものだ。
本当は、その言葉を口にしたくないから…だから言いたくなかったのだ。
彼女を傷つける言葉だ。
例え他の奴が言った事を伝えるだけだとしても、彼女が傷つく言葉は、この口で発したくはない。
あの場所には俺達しか居なかった。だが、誰かが離れた所から見ていたかもしれない。
きっとその誰かが、あの女の言葉を誰かに教える筈だ。
それが人伝てでこの二人の耳にも入るだろう。
その内容に尾ひれがついて、間違った言葉になっていたら…その時は俺が正しい内容を教えれば良い。
だからその時まで…あの酷い言葉は封印しておこう。
話終えた時、また頭の中に声が響いた。
【有難う】
と…。
そしてその時、彼女の背後が桜色に輝いた。
それは瞬き程の間の出来事で、認めると同時に消えていた。
その時の「桜色の光」が何なのか?
その正体を知るのは、後日だったのだが…この時の俺は、知る由もなかった。




