天使と天邪鬼(2)
喫煙室を出て階段を昇り、エントランスへ向かった。
退出する為にタイムカードを押したところで、田辺から呼び止められた。
さっきの振る舞いについて、何か言いたいことがあるのだろう。
だが、俺から話すことは何もない。
無視して遣り過ごし、一目散に出口に向かった。
応じなければ諦めるだろう。
そう思っていたのだが…田辺は諦めずに追って来た。そしてとうとう、ドアの前で追いつかれてしまった。
『ちょっと待てよ!』
と、もの凄い力で腕を掴まれた。
瞬時に掴まれた手を捻って振り解く。
だが、振り解いた途端に正面に回り込まれて肩を掴まれた。
無表情で田辺を見遣る。すると田辺は、困ったように眉尻を下げた。
『ちょっと話したいだけだ。時間は取らせない。頼むから落ち着いてくれ。』
『話すことは何もない。』
『いや、あるはずだ。何があったんだ?頼むから話してくれよ。』
田辺の声が、懇願するような響きになっていた。ハッとして我に返る。
改めて目の前の田辺の顔を見た。
困ったような、泣きそうな顔で笑っている。それを見た途端に、昂っていた気持ちが急速に凪いで、何故だか胸が苦しくなった。
『すまん。今は話せそうもない。』
素直にそう言うと、田辺は静かに首を振った。
『今だからだよ。心配するな、誰にも言わん。』
その言葉が胸に染みた。思わず泣きそうになってしまった。
心にもない事を言ってしまった。
あの時の彼女の、うちひしがれたような表情が目に焼き付いて…チクチクと良心を責め立てている。
本当は後悔しているのだ。
だが…他に術がなかった。
ああしなければ…きっと俺は、壊れてしまう。
『なんて顔してんだ?ほら、行くぞ。』
困ったように笑う田辺。
そんな田辺が、有り難かった。
田部に連れられて予備校を出た。
見上げた空に、取り残されたようにひこうき雲が浮かんでいた。
促されるままに歩いた。連れて来られた場所は、ダイスだった。
『こんちはー。』
田辺がドアを開けて先に入った。
常連なのだろうか?やけに気軽な挨拶だった。
『おう、ライト。お?ケンも一緒か。今日はカウンターが良い按配だぞ』
いつも通りに笑うマスターに、心が痛んだ。
「運命のひと」に関してアドバイスをしてくれたのに、俺は真逆の対応をしてしまったからだ。
『ブレンドでいいか?』
促されてカウンターの椅子に座ると、お冷とおしぼり、それから瑠璃色の琉球ガラスの灰皿が出て来た。
『叔父さん、俺、コーヒー飲めない。』
『俊郎さんって呼べって言っただろう?俺はまだオジサンじゃない。』
『事実、叔父さんだろう?母さんの弟なんだし。』
そうか。田辺はマスターの甥だったのか。
道理で雰囲気が似ているはずだ。
『ほれ、お前にはコーラだ。お子様が!早く大人になれ!』
そう言いながら笑うマスターの顔は、底抜けに優しかった。
益々、胸が痛んだ。
『ケンはブレンドで良いな?』
俺の前にはマグカップに入ったコーヒーが置かれた。
『はい。』
『と言うか…ケン、お前さん、何かやらかしたな?』
『あ…。』
『さては、例の件だな?』
『う……。』
やはりバレていた。
予想はしていたが、かなり気まずくなってしまった。
『う、じゃないだろう?悪いことしたと思ってんのなら、素直にごめんなさい、だろう?』
『ご…ごめんなさい。』
「ごめんなさい」なんて謝り方は、随分久しくしていなかった。口にした途端に恥ずかしくなった。
『で、何があったんだ?あらかた予想はつくが。』
痛いところを突かれて言葉に詰まった。
田辺の前では話し辛いし…どうしたものか。
そう思って躊躇していたら
『俺、裏に行ってようか?』
と、田辺が気を効かせてくれた。
『そうか?じゃあ、お前の用事を先に済ませろ。他の連中に聞かれたくない話があるからここに来たんだろう?』
『うん。じゃあ…』
そう言って田辺は、俺の方に向き直った。マスターは少し離れた場所に移動して、椅子に腰かけて雑誌を広げた。
『さっき本当は何て言ったんだ?あゆちゃん、かなり動揺してたぞ。』
『だからそれは…。』
誤魔化すのも憚られるような気がした。
しかし…正直に話せば、触れられたくない部分も吐露しなければならないだろう。正直に何を言ったのかを話せば、きっと、『何故だ?』と云う質問が返ってくる。そうなれば、俺の醜い感情も話さなければならなくなる…。
どうすべきか?
逡巡する俺に、田辺が唐突に言い放った。
『ひょっとして…一目惚れか?』
鋭い一言に、思わず息を飲んだ。




