『運命』は忘れた頃にやって来る(3)
『吉元だ。宜しく。』
差し出された右手を握り返した。すると田辺は、満面の笑みを浮かべ、俺の手を握り返した。
『知ってるよ。実は俺も剣道をやってたんだ。平木とは中学で一緒だったんだ。』
成る程。それで『会いたかった』なのか。
平木が事前に連絡していたのだろうが、二人の間でどんな会話になっていたのかを考えたら恐ろしくなった。平木は先日、剣道の話をしながら恍惚の世界に逝ってしまったのだ。その時は恐怖すら感じてしまった。
『そうなのか。』
『ああ。だから遠慮なく飲んでくれ。』
『有難う。早速いただくよ。』
缶コーヒーのプルタブを開けて口をつける。心地好い苦味と芳しさが口の中に広がり、鼻を擽った。
(ああ、幸せだ。)
ここ数日、なんだかんだと忙しく、ゆっくり出来る時間が無かった。
予備校では、想定外で増えてしまった知り合いにまとわりつかれるし、自習の為の図書館では、近くの大学の学生からやたらと話し掛けられる。
極めつけは引っ越しの準備である。
朝っぱらから荷作りをしていた母。あれは、怒濤の日々の前触れだったのだ。
予備校からわりと近い所にくそ爺の持ち物件がある。12階建てのマンションの10階の角部屋で、間取りは1LDK。新婚世帯向けの部屋を、何故くそ爺が買ったのかは謎だが、そこには先日まで従兄の和馬が住んでいた。
和馬はこの春研修期間を終えた、新米の医者である。そのまま大学病院に勤務するのだろうと思っていたのだが、くそ爺に命じられてアメリカに留学することになってしまったのである。
非常に気の毒だ。
和馬が引っ越した後に、その部屋に住むことになったのであるが…この引っ越しは、母から強く勧められて実現した。それはもう…脅迫に近い勢であった。
『登下校の時間を勉強に充てられるでしょう?』
と云うのが表向きの言い分だか、本心は
『他所に住めばご近所の目も届かないでしょう?』
と云った具合だろう。
家財道具の殆んどを残してくれている為、新たに買い揃える物は少なくて済んだ。一番大きな荷物であるベッドを搬入すれば、後はなんとか、一人で出来そうである。
まぁ、引っ越しが済めば時間はいくらでも出来る。電車の時間を気にしなくて良くなるし、母の言う通り、今より快適になるだろう。
そんなことを考えながら煙草に火を点けた。空を仰いで煙を吐き出すと、白い雲に溶けて、景色と同化した。
『そう言えば…由香ちゃんの具合はどうなった?少しは良くなったのか?』
平木が訊ねると、田辺は苦笑いで頭を掻いた。
『うーん…俺には良く解らんが、お袋の話では、もうじき治まるだろうってさ。最近はちゃんと食えるようになったし、良くなってると思う。』
『そっか、良かったな。でも、もうじき治まるって、なんで解るんだ?』
『安定期に入れば治まるらしい。』
『へえ、そうなんだ…。』
どうやら、田辺の身内に妊婦が居るらしい。具合が悪い云々は、つわりの話だろう。
『身内に妊婦が居るのか?つわりが酷いんなら大変だな。』
従妹の時は、地獄絵図のような有り様だった。食べては吐きの繰り返しで、日を追う毎に痩せて行って…。このまま死ぬのでは?と心配したが、安定期に入った途端に、つわりはピタッと止まった。
それを伝えようと思って言ったのだったが、田辺の答えに仰天してしまうのだった。
『身内と云うか…妻の話だよ。』
妻?
妻って、あの妻?
予想だにしない答えだった為に、混乱してしまった。
『誰の?』
予想はついているが、一応聞いてみた。
『俺の。』
あ、やっぱり?
と云うことは、田辺は妻帯者で、しかも浪人生で…かなり大変な立場であることは間違いない。
『冬には父親になる。だから直ぐにでも働きたいんだけどね、奥さんと親父がダメだって言うんだよ。』
大変な立場なはずなのに、田辺は清清しいまでに堂々としている。悲壮感の欠片もない様子は、神懸ってさえ見える。
『大変だな。』
堂々としているが、大変なのは違いないはずだ。敬意をもってそう言ったのだったが、田辺は実に爽やかに笑った。
『俺は大変じゃないよ。むしろワクワクしてる。人より早く父親になって、人より早く幸せになった。親父達もそう言ってる。大変なのは俺じゃなくて奥さんだし、その奥さんが『大学に行け』って言うんだ。だから頑張らなきゃならない。それだけだよ。』
思わず聞き入ってしまった。
俺だけじゃなく、平木までもが真面目な顔で聞き入っていた。
同い年なのに、田辺は遥か先を行き、遥かに大人なんだと感じた。そして、不器用な程に真っ直ぐな人生が羨ましくさえ思えた。
自分達よりも大きくて、輝いている同級生に暫し見とれた。
何か言おうと平木が口を開きかけた時に、バタバタと喧しい足音を響かせて、杉山が乱入してきた。




