物理と医者と、青天の霹靂(2)
その日の夜に、祖父からの話を両親に相談した。俺の話を聞いた母は、祖父の言う通りにしてくれと懇願した。父は
『お前の人生だ。お前の望む通りにしなさい。』
と言ってくれた。
それから一週間、胃痛を覚える程に考えた。最終的に一朗叔父さんまで頭を下げに来て、父と母の双方の意見を考慮した結果、二つの道を用意した。
どちらに進むかは祖父に決めてもらう。ただし、正面からではない。祖父の対応次第で選択する。
決戦は一月後…忠臣蔵の日だ。
12月14日。
塾の帰りに祖父を訪ねた。朝から連絡していたからか、一朗叔父さんまで同席していた。
『お祖父様には立派な医者になることをお約束します。ですが、医学部進学にあたって条件があります。一つ目は○稲田大学の記念受験。それに伴っての一年浪人。二つ目は、一年後に必ず合格することと、最短で医者になることをお約束する代わりに、この先一切の口出しを認めません。俺からは以上です。如何でしょう?』
一朗叔父さんの顔色がか変わった。無論、俺も聞き入れて貰えないと思っていた。『否』の答が出た時の口上台詞は用意してある。
だが…。
『解った聞き入れよう。今後医者になるまで掛かる学費と生活費も面倒見てやる。その代わり必ず医者になれ。俺に恥をかかせるなよ!』
拍子抜けするくらい、あっさり受け入れられた。予想外の展開に一瞬戸惑ったが、直ぐに立て直す。
『有難うございます。精一杯励みます。』
『○留米大学医学部だ。お前の成績なら充分間に合うところを敢えて浪人を認めると言っとるんだ。その事は忘れるなよ!』
『解りました。肝に命じて忘れません。』
わざとらしく、深々と頭を下げてやった。そうでもしないと、目で殺してしまいそうだからだ。
マジでこのクソ爺…何処まで上から目線なんだ?いつか必ず『参った』と言わせてやる!覚えてやがれ!
『もう良い。帰って勉強しろ。』
言われなくとも帰るわい!
『お時間を賜り、有難うございました。』
本当は言いたい事が山程ある。だが、言ったら負けだ。そう思って我慢して、深々と頭を下げて見せた。
『失礼しました。』
爺の言葉が出る前に、早々と立ち去ろう。
静かにドアまで歩き、静かにドアを開けて、静かにドアを閉めた。沸々と沸き上がる怒りを堪え、そのまま静かに廊下を進んで階段を降りた。
一階に降りると、受付をすり抜けて外へ出た。駐車場を横切っている時に、とうとう堪えていた怒りが爆発してしまった。
(なんなんだあの爺。昔からそうだが、横暴過ぎるだろう?ふざけるな!)
頭には、今まで被ってきた、理不尽で傍若無人な数々の振る舞いが浮かんだ。浮かぶ度に、怒りで目の奥がチクチクと傷む。
降雪の予報で空気は冷えきった中、俺は怒りに震えながら、煮えたぎる体を揺すって歩いた。
何処をどう歩いたのかは覚えていない。気が付いたら自宅に着いていた。
無言で入り、そのまま自室に引き籠った。
母が心配して様子を窺いに来たが、寝たふりをしてやり過ごした。無意識にそうしたのだが…相当なダメージを受けていたのだろう。子供の頃から繰り返されてきた事で、慣れている筈なのだが…本当は深く傷付いていたらしい。知らず知らずのうちに、頬を冷たい物が伝っていた。
冷たいもの…それは涙だった。
涙だと気付いた途端に、再び怒りが込み上げた。
絶対にいつか!あのくそ爺を見返してやる。
跪かせて『参った』と言わせるまで…今日から俺は、人間らしい感情の一切を捨てる。
そう心に刻んだ。
その日を境に、世界はモノクロになった。
そして、○稲田の記念受験を終えた頃には、無意識に笑わなくなっていた。
それから時は過ぎ…春が来た。
人生で初めての、色を無くした春の景色…。くだらない浪人生活が始まったのだった。
自宅にて勉強すると決めていたが、やることなど殆ど無かった。実力よりもかなり下のランクの大学受験なのだ。何もしなくても合格してしまう。
これから一年、何をして過ごせば良いのだろう?
そう考えていた時だった。母が予備校のパンフレットを差し出した。
『これは?』
『アンタが通う予備校よ?』
『必要ないよ。今のまま何もしなくても合格するレベルなんだし。』
俺がそう言うと、母はさめざめと泣き出した。
(いやいや、ちょっと待て!ここ、泣くところか!? )
言いたい事を我慢して、暫く黙って見ていたが…母は一向に泣き止む気配を見せない。
『悪いけど…なんで泣かれるのか解らない。』
正直に吐露すると、母がやっと口を開いた。
『あの健一君がなんで?って、近所の人から訊かれまくるの!○稲田まで受験して、出来の良い健一君がなんで?って…。心の病気じゃないか?って陰で噂してる人までいるみたいだし…お母さんもう…耐えられないのよ。』
いつも気丈な母が、初めて吐いた弱音だった。
そんな思いをさせていたなんて…知らなかった。
『俺のせいでごめん。』
素直に謝ると、余計に激しく泣かれてしまった。
『アンタは悪くない。お母さんこそごめんね?行きたい大学に行かせてあげられなくて…お祖父さんの言いなりにしか動けなくて…本当にごめんね!』
『母さんは悪くないよ。悪いのはじい様と、じい様に言い返せない俺だよ。』
本当にそう思った。
俺は何一つ、爺に言い返せなかった。言い返せるだけの器を持たない、ただのガキだからだ。
だからあえて言いなりになった。言いなりになって爺の希望通りに医者になり、一人前になったら言い返してやるつもりだ。
『予備校に通うよ。近所の人には俺から説明する。急遽進路を変えなきゃならなくなって、一年浪人することにしました、って。これからは、母さんが泣かなきゃならないような事はしない。約束するから、もう泣かないでよ。』
泣き止んでくれると思ってそう言ったのだが、火に油を注いでしまったようだった。母は一層激しく、今度は声をあげて泣き出した。
『ごめんね?何もしてあげられなくて…本当にごめんね?』
啜り泣く母を前に何も言えず、暫く黙っていた。その状況は、父が昼飯を食べに帰って来るまで続いた。
帰って来ていきなりこの状況だ。父は酷く驚いて、俺に詰め寄った。
『違うの!私が悪いのよ。』
母がそう言って止めに入ってくれたことで疑いが晴れて、事情を説明することができた。
話を聞き終えると、父は母を引き受けると言ってくれた。父から背中を擦られてやっと、母は落ち着きを取り戻してくれた。
全く。あのクソ爺!
孫の人性設計をぶち壊しただけでなく、娘の家庭崩壊まで目論んでやがるのか?
(いつか絶対に、跪かせて…じゃ足りない!土下座させてやる!)
誓いを新に、俺の日常は、益々色を無くしていった。




