物理と医者と、青天の霹靂。
― それは突然の出来事だった ―
― 目の前に、天使が舞い降りた ―
それは18の春だった。
めでたく高校を卒業。3月下旬から上京し、○稲田大学で物理の勉強に励んでいる…筈だった。
実際には…何の因果か、この春からチンケな予備校に通っている。所謂、浪人生だ。
○稲田に落ちたからではない。
○稲田には見事現役合格を果たした。
が…○稲田は記念受験に終わってしまった。
俺の人生を狂わせたのは、傲慢かつ、傍若無人な祖父だった。
祖父の職業は医師。それも、その道ではかなり著名なようだ。まあ…あれだけ長く医者をやっていれば、多少の地位は築けると云うものだろう。
中学入学早々に進路を決めた俺は、その道を極めるのに必要な知識を修める為に、志望大学を○稲田に決めた。理由は単純だ。憧れの物理学者の出身大学だからだ。
もともと成績は良かった。勉強は苦では無かったから、何時間でも机に向かって集中出来た。だから当然その後もぐんぐんと成績は上がり、気が付けば県内で三番目の頭脳になっていた。
因みに、一番と二番は共に、私立の中高一貫校に通う医者や弁護士の息子達だった。
俺が通うのは公立の、しかも全校生徒が300人にも満たない田舎の中学だ。県の学力テストで上位に食い込むことなんて、創立以来初めての事だったらしい。その日以来俺は『神童』と呼ばれるようになった。
塾には通わず独学で学んだ。それに拘ったのは、いけ好かない従兄弟達への当て付けからだった。
高校進学の進路指導の際、担任からは○サール高校を薦められた。俺の成績なら合格間違いないし、祖父の財力を以てすれば、県外の私立高校でも難なく通えるだろうとの見解だった。
その言葉が俺に火を点けた。
私立高校なんかに進めば、馬鹿な従兄弟達と同等になってしまう。俺はあくまでも公立に拘り、しかも自宅から通える普通校を受験することに決めた。
当然だが、高校へは首席で入学した。
高校での勉強は今まで同様にすんなり頭に入った。であるあら、今まで通りに塾には通わず独学で励んだ。
志望大学に入る為には塾へ行くのが得策だと、両親は事ある毎に俺に説得を試みた。根負けして塾へ通いだしたのは、高2の冬だった。
志望大学を聞いて、
『今から準備しても遅いだろうけど、頑張れるだけ頑張ろう!』
と、馬鹿にした様子だった講師は、学力判断用のテストの結果が出ると、その態度を一変させた。
そんな感じで俺は、○稲田大学入学への道を、順調に歩んでいた。
青天の霹靂が襲ったのは去年…高3の冬の初めだった。
その日は穏やかに晴れた日曜日だった。
いつものように、俺は午前中に塾で、午後からは自宅で机に向かっていた。
丁度、両親と妹の亜紀が買い物に出掛けようとしていたところに、電話の呼び出し音が鳴り響いた。
その電話はが、俺の人生を狂わせるきっかけとなった。
医学部へ通う従兄の一樹が事故で亡くなったとの知らせに、叔父の元へ家族で急行した。
変わり果てた姿の一樹の前で、叔母は号泣し、叔父は呆然と立ち尽くしていた。バイク事故。即死だったそうだ。
一樹の葬儀には、祖父と叔父の仕事の関係で、病院や医療機器メーカー、製薬会社にリネン会社等、病院関係の会社の参列者が多く見られた。一樹の友人達がすすり泣く側で、
(人の一生はこうも呆気なく、簡単に終わってしまうのか…。)
と、虚しくなった。
葬儀の後、一族で火葬場に向かう時に祖母から呼び止められた。話があるから、と、祖父の車に乗るようにとの事だった。
医者と云う職業に拘る祖父が、俺は大嫌いだった。
この人は母方の祖父で俺は所謂外孫。だから後継者問題には無関係で、医者になる必要はなかった。
医者が至上だと考える祖父や叔父達。当然従兄弟達も医者を志し、それに添って私立高校へ通い、そして医大へ通っていた。
そんな従兄弟達にしてみれば、医者以外の職業を目指す人間は落ちこぼれだった。
だから当然、物理学の道を極めたいと思っている俺も、奴等にとっては落ちこぼれであり、一族の恥だった。
物理の勉強がしたいと申し出た中1の夏以来、祖父は俺を忌み嫌い、殆ど口を聞かなくなった。なのに今更何の話があると言うのだろうか?
祖父の乗った車の前で一礼すると、運転手の遠藤が後部座席のドアを開けてくれた。既に祖父が乗っており、隣に座るように促された。
『お話があると窺いましたが…。』
俺は常に、祖父に対して最上級の敬語を遣っていた。それは敬意ではなく、当て付けであることは誰も知らない。
『うむ…。』
暫しの沈黙の後、
『お前、医学部を受験しろ。来年一年浪人で構わん。』
と。信じられない言葉だった。
『はい?』
当て付け敬語も何も無くなってしまった。俺は呆けたように聞き返した。
『だから医学部受験だ!これは命令だ。曲げられん。』
久しぶりの会話だったにも拘わらず、相変わらずの横暴な物言いに唖然とした。
『ですが俺は物理を…。』
『医学部受験だ。何度も言わせるな!』
俺の意見は完全無視だった。ルームミラーに映った遠藤の顔が青くなっていた。
言いたい事は山ほどある。
だが、今この場で何を言っても無視を決め込まれるだろう。
こういう場合は無言の抗議に限る。俺は祖父の隣で黙りを決め込んだ。
ソレを肯定と勘違いしたらしい。祖父は更に俺の気持ちを無視して語り出した。
『一朗の跡取りは死んだ。あれだけバイクには乗るなと言ったのに…。お前は亡くなった一樹の代わりに医者になれ。お前のことは一応気にかけてやってたんだ。成績が良いのも知っとる。その出来なら、医学部も難なく受かるだろうて。』
『気にかけてやってた』だと?口も聞かなかったクソ爺が、よくもまあ、そんな事が言えたもんだ!寝言は寝て言え!耄碌しやがったのか?
頭に浮かんだ罵詈雑言の数々をなんとか飲み込んで、どうにか平静を装う。
『しかし一朗叔父さんの跡取りは一樹だけではありませんよ?蒼太も居ます。』
『あれはデキが悪い。今から詰め込んだところで間に合わん。』
目眩がしてきた。
確かに末っ子の蒼太はデキが良いとは言えない。だが、真ん中の芽衣子はそこそこ出来る。政略結婚の駒にするのは諦めて、女医って手もあるのではないか?
『芽衣子には継がせられんしな。女医なんぞが院長になった曉には、品格が落ちる。』
おいおい、今のは流石にマズイんじゃないか?ナントカ婦人会やら、女性の人権を守るナントカの会やらが聞いたら、病院の品格どころではなくなるんじゃないか?
『お前がやれ。良いな?期待しとるぞ!』
おい!ちょっと待て!
『ですが…』
バタン!
最後まで無視を決め込んで、祖父は車を降りてしまった。
心の声は届く筈も無く、祖父の理不尽極まりない発言の数々に…憤りを通り越して唖然としてしまった。
勝手に車を降りてしまった祖父を、青い顔をした遠藤が慌てて追いかけた。
(遠藤も大変だな…。)
他人事では無い状況下で、他人事を心配していた。
(マズイ…かなりの重症だ。)
あまりの理不尽に、俺はまともに考える事から逃げようとしているようだった。




