クレームブリュレの日(三)
「先日、バルドーづてにお預かりした武具と技法書なのですが」
三皿目のクレームブリュレを食べ終わった頃、レオンハルトは今日の最後の本題も切り出すことにした。
「お見せくださりありがとうございました。今日は技法書だけお持ちしたのですが……」
白いテーブルクロスの上には、ティーポットとティーカップ、それからピンクの花が差された花瓶しかない。レース越しに照らされる花瓶の影は来た時よりも傾いている。
そこへレオンハルトが懐から技法書を取り出した。レオンハルトが尊敬する伝説の騎士団長ことジークフリート・ローデンベルク――セレスティーヌの祖父が書き記した、特製のクロスボウについての書物である。
「もうすべてお読みに?」
まあ、とセレスティーヌは目を丸くしている。「いえ」とレオンハルトは首を振った。
「……その……途中までは拝読させていただいたのですが……」
決まりの悪いレオンハルトに何かを察したのか、セレスティーヌの深青の瞳が鋭く光る。
「……本物をお渡ししたはずですけれど、どこかですり替えられたのかしら。密偵のしわざ……?」
「あ、いえ。そうではなく」
セレスティーヌとのあいだに物騒な誤解が生じたので、レオンハルトは即座に否定した。だがセレスティーヌは片頬と眉をぎゅっと近づける。
「……王立騎士団を陥れようと目論む何者かの陰謀?」
「違います」
これはもたもたしている場合ではなさそうだ。それはわかっているのだが、レオンハルトの舌が追いつかない。
「その……途中まで拝読したところで、思い、まして」
「事態はわかりかねますけれど……レオンハルト様。お力になりますわ」
きっとまだ勘違いをしている。険しい表情のセレスティーヌと技法書をちらちら見ながら、レオンハルトは次の言葉を探す。
「……レオンハルト様が思い悩むだなんて。きっと不届き者が暗躍しているんだわ……!」
「違います。……でも、その、い、い、一緒に……」
レオンハルトが話を正そうとした途端、セレスティーヌがこくりと首を縦に上下させた。嫌な予感がする。
「謀略には謀略ということですわね。多少の心得はありましてよ。不届き者を誅する作戦、一緒に練りましょう」
「そうではなく」
勇気だ。今こそ勇気を発揮するのだ。レオンハルトは今度こそ訂正する。
「セレスティーヌさんと、一緒に、読みたい……と……思い……ました」
レオンハルトはテーブルの上に置いた技法書をそろそろとセレスティーヌへ差し出す。セレスティーヌは剣幕を緩めたあと、「あら」と何度かまばたきをした。
「暗号は使われていなかったはずですけれど……」
「あっ、はい。そのようなものは見当たりませんでした」
「ですわよね」
セレスティーヌの視線が技法書とレオンハルトの目を往復した。レオンハルトの視線も同じように動いている。
「……ダメでしょうか? 一緒に読んでいただくのは」
「ダメなんてことはございませんわ」
セレスティーヌがにっこりと笑う。「本当ですか!?」とレオンハルトの肩が弾んだ。
「ええ。おじいさま、達筆でいらっしゃるでしょう? 無駄に腕前を見せつけるような字が多々ありますもの。解読いたしますわ」
理由は違うが、一緒に読んでもらうことは可能らしい。だがこのままでいいのだろうか。レオンハルトは若干の後ろめたさを抱きつつ、表紙を開くセレスティーヌを見ている。
「それで、どの部分が解読困難でしたのかしら」
いや、やはりその誤解は放置したままにはできない。
レオンハルトが読んだ限り、ジークフリートの字は読みづらい――いや、少々大きくペンを動かしたり、やたら一文字を伸ばしたりといった字はあったものの、解読困難とまでは思わなかったからだ。レオンハルトは遠慮がちに「いや、あの」と言う。
「解読というか、読書は難なく進みました」
「あら、そうなんですの?」
セレスティーヌが、余白という概念を知らないのかという勢いで『はじめに』と書かれたページを開く。
「ああ、わかりましたわ。おじいさまの技法書は時折、長々と脱線するんですの。シチューへの愚痴が書かれている槍の技法書もあるんですのよ」
「槍の技法書に」
とても興味がある。
「『カエルとウサギの肉を同時に入れるなら先にウサギの肉を捌けばいいものを』だそうですわ」
「ああ……生臭さの話でしょうか」
「わたくしは、技法書で愚痴をこぼすほど根に持つんなら最初からご自分で捌けばよろしかったのに、と思いましたわ」
それもそうだなあ。レオンハルトはページがめくられる音を聞きながら顎をさすった。今後、野営の際は気を付けよう。
「そういう脱線した話の要点をまとめればいいんですのね?」
「いえ、どちらかというと、その脱線したお話のほうに胸を打たれまして……」
「まあ」
セレスティーヌの目が輝いた気がした。
「レオンハルト様もでして? わたくしもこの技法書のお話には感動しましたのよ」
「セレスティーヌさんもですか!?」
「ええ。おじいさま特製のクロスボウの扱い方よりもそちらに熱中しましたもの」
セレスティーヌが技法書をレオンハルトの近くに寄せる。
「レオンハルト様はどのお話がお好きですの?」
「先日の猪狩りで、僕の部下と軍犬について話してましたよね?」
「覚えてますわ」
レオンハルトがぱらぱらと大切そうに目当てのページまでめくる。そして「ここ!」と指さした。
「害鳥退治の際、とある店の番犬が行方不明になっていたところを救い出し、害鳥を討ち取るとともに番犬に『守るべき場所を離れて迷子になるとは何事か』と説いていた……というくだりです」
「わかりますわ!」
セレスティーヌが次のページをめくる。
「それならレオンハルト様はここもお読みになったんですのよね? それ以来、おじいさまの言葉を理解した番犬は見違えるほど逞しく成長した、というところまで」
「もちろんです。ただ、番犬がお亡くなりになったことが悔やまれます……」
ジークフリートも『無念である』と書いている。
この技法書を受け取った日、レオンハルトが王立騎士団本部宿舎の私室で涙をぽつりとこぼしたのは、まさにこの逸話を読んだ時だった。ジークフリート自ら『見違えるほど逞しく成長した』と語る番犬のその勇姿をこの目で見たかった。本当に惜しい。レオンハルトは目頭を熱くさせた。
「致し方ありませんわ」
そんなレオンハルトを慰めるかのようにセレスティーヌの声色が柔らかくなる。
「おじいさまと出会った頃にはすでに十歳でしたもの……」
そうだったんですね、とレオンハルトは納得した。番犬の年齢までは書き残されていなかった。
「身勝手だとは思いましたが、先日、店の店主にご挨拶と、当時の店主と番犬のお墓へお祈りを捧げてきました」
「レオンハルト様がいらしてくださるなんて、先代の店主も番犬も、おじいさまも喜んでいるに違いありませんわ」
これはレオンハルトが空き時間に市街地の店舗へ赴いた時に知ったことだが、番犬だけではなく、当時の店主も他界していた。
レオンハルトは時代の移ろいに物寂しくなりながら、王立騎士団騎士団長の突然の来訪に驚く店主とそのそばにいた子犬に事情を説明したところ「そういうことなら」と店裏の墓へ案内してもらった。番犬の墓碑はジークフリートが生前彫ったのだと現店主が教えてくれた。〝我が同志ここに眠る〟。技法書の筆致そのままだった。
騎士と一般人だけではなく、人間と犬という種族を超えた絆にレオンハルトはまた涙を流しながら霊魂の平穏を祈ってきたのだった。レオンハルトの去り際、子犬を撫でさせてもらったが、とても凛々しい目をしていたのが印象的だった。きっと新たな番犬として活躍するのだろう。その日レオンハルトは王立騎士団本部に戻ったあと、軍犬の犬舎へ顔を出し、全員と言葉を交わし撫でていった。
「わたくしもそろそろお祈りを捧げに行く時期ですわね……」
セレスティーヌが目を伏せる。
「番犬の命日が近いですもの……」
「お誘いすればよかったですね」
「来年はぜひご一緒させてくださいませ」
もちろんです、とレオンハルトは神妙な面持ちで頷いた。
「この逸話を読んだ時、セレスティーヌさんのおじいさまが先代騎士団長に『これからは犬の時代だ』と仰ったことに繋がるのかな、と思いました」
「ええ。だからこそおじいさまも、なおさら悲しかったんだと思いますわ……」
「今の軍犬のパイオニアだったんでしょう」
ふう、と一息つき、レオンハルトとセレスティーヌは紅茶を飲んだ。
「……それから、病気になった牧羊犬のかわりに羊を統率したのはさすがとしか言いようがありませんでした」
「このページですわね」
セレスティーヌはすぐさま別のページを開いた。
はじめは仰々しい文字で特製クロスボウの開発経緯を説明していたが、徐々に『ローデンベルク家領内の牧場で飼っている牧羊犬が病気になったと聞いた』、『仕方のない牧羊犬だ。犬用の滋養強壮剤を与えるついでに、牧羊犬としての仕事も肩代わりしてやった』、『その日の仕事終わりに、お互い歳はとりたくないものだな、と牧羊犬と語らった』と日記へと脱線していくページである。
「足腰のいい運動になった、とおじいさまもご満悦なさっていたそうですわよ」
「……僕も羊と一緒に統率されてみたかった……」
さながら当時の羊は王立騎士団のようだったことだろう。レオンハルトが夢見た、ジークフリート――伝説の騎士団長が率いた、圧倒的不利と目されていた大戦を逆転勝利に導いた頃の王立騎士団のような。
その一頭として草原を駆けてみたかった、とレオンハルトはレースのカーテン越しに青空を見つめた。かの羊たちも青空の下で率いられたのだろうか。
「同じ牧場の羊を狙ってきた狼に、薪割りの薪を投げて討ち取ったところはお読みになって?」
「もちろんです」
レオンハルトは食い気味に言う。
「『斧は牧場の所有物だから』という理由で、ただの薪を投げ槍として選ぶご判断……さすがに驚嘆せざるを得ませんでした」
はっ、とレオンハルトが先日の猪狩りでセレスティーヌとの会話を思い出す。
「セレスティーヌさん。『その手に持ちうるものすべてを武器とせよ』という家訓、まさかこの一件で?」
「いいえ、違いますわ」
セレスティーヌの金髪が揺れた。
「その家訓は先の大戦の勃発する前の紛争の際、おじいさまの野営地が襲撃されたのをきっかけに追加されたのです」
「詳しく教えてください」
ジークフリートが逆転勝利に導いた大戦。それ以前の紛争。レオンハルトの脳内には今、王立アカデミーの図書館や王立騎士団の記録で読んだ資料がずらりと並んでいる。
「東の地方で野営していたところ、敵国の先遣隊が国境を越えて夜間に襲撃してきたそうですわ」
「ああ、隣接する村同士の小競り合いが国境紛争まで拡大した戦いですね」
王立アカデミーで習った歴史だ。ジークフリートがすでに騎士団長を務めていた時代である。
「夜襲の記録もたしかに残ってはいますが……どのように王立騎士団が勝利したかは、王立アカデミーで習ったとおり、謎に包まれています」
敵軍から武器を奪ったのだろうか。伝説の騎士団長とその部下ならばやりかねない。レオンハルトはそう推測した。「ここだけの話ですわよ」とセレスティーヌが声を潜める。「絶対に口外しないとお約束いたします」レオンハルトも声量を抑える。
「おじいさま、頑丈な木の根を見つけたからそれを鞭になさったそうなのです」
「木の根を」
レオンハルトの推測は見事に外れた。
「引きちぎったそうですわ」
「頑丈な木の根を」
たとえ篝火があったとしても、夜の野営地、しかも戦闘中に武器として応用可能な頑丈な木の根を瞬時に見つけることは、ましてやそれを引きちぎるのは難しいだろう。
レオンハルトは己の両手をじっと見る。直径十センチの太さまでならば引きちぎれるだろうか。しかし鞭としても使えるほどしなやかな木の根だ。手足を使っても、迅速に引きちぎれるかは試してみなければわからない。いや、まずは東の国境付近に自生する樹木について調べるところからだ。
レオンハルトは近日の予定をどうやりくりするか思案する。
「……これも内密にしてくださいますかしら?」
まだ極秘の情報があるのか。レオンハルトはセレスティーヌを見て一瞬ためらった。
しかし〝尊敬するジークフリートに関する情報〟という誘惑を、セレスティーヌのいたずらっぽい深青の瞳で投げかけられたのだ。「墓場まで持っていきます」とレオンハルトは誓うしかない。もっと自制心を鍛えねば。レオンハルトは自分自身を全力で殴りたい衝動に駆られながらもそっと耳を傾ける。
「……我が家に残る日記には『敵兵の首を絞めるのにも役立ってしまった』と照れくさそうに書いてありましたの。おじいさまらしからぬ、ちーっちゃな文字で」
頑丈な木の根を引きちぎって鞭がわりにした挙句に絞首の道具にも使うとは。これは判断力も鍛える必要がありそうだ。それに加えて己の常識を再考する余地がある。レオンハルトはうつむいた。
「王立アカデミーの授業でも不明なところでしたから、おじいさまに直接お尋ねしたこともあったのですけれど、『そんな恥ずかしいことを公にできるものか』と顔を真っ赤にしてお逃げになりましたのよ。……やっぱり恥ずかしいものですの?」
そうですね、とレオンハルトが苦々しい顔を上げる。
「たしかに……騎士が木の根で敵兵を絞首したことを公にするのは、少々、照れくさいものがあります」
そしてぽりぽりと頬を掻くのだった。「レオンハルト様でも恥ずかしいと思うんですのね」と、セレスティーヌは、レオンハルトがそう言うのなら祖父も本気で恥ずかしかったのだろう、と納得した様子だった。
もしも戦闘の事後報告書で『頑丈そうな木の根を発見。引きちぎり、鞭として使用。敵兵の絞首にも応用』とペンを走らせると思うと――レオンハルトはその後も想像する。現場を知らない他の騎士たちや、国王陛下からも「どういうことだ?」と根掘り葉掘り聞かれることだろう。「剣は?」と尋ねられては弁明しようにもうまい言い訳が出てこない。おまけに公的記録として残るともなれば、後世の人間に何を言われるやら。
「ですけれど、わたくしはそんなおじいさまのご判断を誇りに思っていましてよ」
「わかります。正規の武器で戦うことも立派ですが、生存のために手段を選ばないのも素晴らしい判断だと僕も思います」
照れくさいことと、手段として選ぶことは別である。
レオンハルトはかつて自分が騎士団長になる前、まだ隊長だった頃、隣国のとある集団が国境を越えて紛争を仕掛けてきた折に先代から「現地でのあらゆる判断はお前に一任する。とにかく双方の死者を出さずに政府同士が協議するための時間を稼げ。食糧だけは絶対に補給する」と任務を受けた時のことを振り返る。
もしも当時、今セレスティーヌが教えてくれたジークフリートの話を知ってさえいれば、実行できる作戦の幅も広がったことだろう。バルドーにも知恵を借りれば、もっと怪我人を減らすことだってできたかもしれない。
やはり『任務を完璧に遂行するなんてことは、今も昔も、騎士の誰一人として成し遂げられたことはない』、先代の教えは的を射ていたのだろう。
「なるほど、木の根だったのか……」
これで王国の謎が一つ解けた。だがレオンハルトが墓場まで持っていく以上、この件はローデンベルク家以外の者には謎として残り続けるのだろう。
「ちなみに砂で敵兵に目潰しもしたそうですわ」
えっ、とレオンハルトが声を上げた。夜襲なのに、さらに目潰し。砂で。
「そこで『埃相手とて一切油断するべからず』に繋がるわけですね……!」
レオンハルトはバルドーが先に知っていたローデンベルク家家訓をすぐさま持ち出した。しかしセレスティーヌはきょとんとした顔で「いいえ」と否定する。違うのか。
「その家訓を追加したのはひいおじいさまですの」
自分の母親が落としそびれた敵国の城を陥落させて王国の地図をまた書き換えさせ、さらにニンジン歩法やジャガイモ歩法――ローデンベルク流歩法の開祖になった騎士か。セレスティーヌのひいおじいさま、つまりジークフリートの父である。
「だからこそ、おじいさまは『敵兵は砂に油断するだろう』と賭けに出ることができたそうですわ」
「敵兵もまさか夜襲中に砂で目潰しされるとは思わなかったでしょうね……」
もし自分が目潰しされた敵兵だったとしたらパニックになり作戦や連携に支障が出るだろう。レオンハルトは身震いした。
「むしろ、夜だったのが功を奏したのだとわたくしは思いますわ」
「同感です。ただでさえよく見えないのに、さらに相手が砂を飛ばしてくるとは予想すらしないのが普通です」
やはり常識を疑うべきか。レオンハルトは凝り固まった自分の額を小突いた。
「そうか……夜襲の裏をかいたのか……なるほど」
「ただ砂を投げ飛ばせばいいわけではございませんことよ」
セレスティーヌに言われ、レオンハルトは眉間に力を込めた。
「日頃から砂を投げる訓練を積んでおけということですね」
「ええ。ですが惜しいですわ」
「乾いた砂と湿気た泥、粘土……草や小石混じりの砂もでしょうか。落ち葉もですね?」
「さすがですわ、レオンハルト様」
いえ、とレオンハルトは首を横に動かす。
「僕なんてまだまだです。セレスティーヌさんのおじいさまの足元にも及びません」
「いいえ。瞬時に物事を把握して判断なさるお姿、お見事でしてよ」
そう評価されるのは嬉しいが、どうにも満足はできない。
「……ちなみに、セレスティーヌさんもその訓練を?」
「おじいさまが開祖のローデンベルク流砂かけ術がございますの」
ローデンベルク流砂かけ術だと。レオンハルトがテーブルをわずかに揺らした。
「まさか……マスターランク……?」
ニンジン歩法――ローデンベルク流歩法を使いこなすセレスティーヌだ。砂かけ術をマスターしていても不思議ではない。レオンハルトの予想通り、セレスティーヌは「はい」と堂々と認めた。
「まだおじいさまがご存命でしたので、直々に授かりましたの。最終テストで投げるのは蜘蛛の糸でしたわ」
蜘蛛の糸だと。
「……難易度が、高そうです……」
レオンハルトは肩を落とした。セレスティーヌもまぶたをぎゅっと閉じ、「ええ」とテストの過酷さを物語る。
「わたくしは、最終テストクリアまで三年の月日を要しましたわ」
「三年も……!」
つまりレオンハルトが王立騎士団の頂点、騎士団長を拝命し今日に至るまでと同等の年月だ。
「だが蜘蛛の糸なら……そうか……!」
ただでさえこびりついたら剥がすのに苦労する蜘蛛の糸だ。それを一度手にし、風圧や流れに逆らって敵へ投げて目潰しするなど、どう考えても至難の技である。
「コツさえ掴めば呆気なかったですわ」
ティーカップを片手にレースのカーテンを眺めるセレスティーヌの横顔は、砂かけの達人、それ以外に表現しようがなかった。セレスティーヌにとっては、この美しいレースを織り成す細い糸でさえも目潰しの武器になるのだろう。白いテーブルクロスも、その上に飾られたピンクの花一輪でさえも。
「これこそが極意なのだと悟りましたもの」
セレスティーヌがティーカップをソーサーに置く。さすが達人、その動作にさえ物音一つ立てない。レオンハルトは下唇を噛み締めた。
「……現在のご師範はセレスティーヌさんのお父上ですか?」
「お母様ですわ」
ローデンベルク家の嫡子はセレスティーヌの父、ローデンベルク伯爵である。つまりセレスティーヌの母は輿入れしてきた、ローデンベルク家の血縁ではない女性なのだ。嫡流であるはずのローデンベルク卿を凌駕するほどの腕前――ごくり、とレオンハルトが喉を鳴らした。
「……僕も入門できるでしょうか?」
どれほど長い年月を経ようとも、マスターランクへ辿り着けたその暁には戦術に活かせることだろう。しかし門外不出の技術である可能性も否めない。レオンハルトはかすかな希望を胸に尋ねた。
「入門希望者は滅多におりませんので、わたくしにはわかりかねますわ。帰ったらお母様に聞いてみますわね」
「ぜひ……!」
望みが繋がるかもしれない。レオンハルトは膝の上で拳を握った。「ですけれど、レオンハルト様」とセレスティーヌが強い眼差しを送ってくる。
「たとえお母様に断られても、我流で修得すればよろしくってよ」
「いえ、セレスティーヌさん。我流は我流。僕はきちんと本流に認められたいです」
「誤解なさっていてよ、レオンハルト様」
「誤解……?」
レオンハルトの拳が解かれる。
「『流派と階級にこだわっていては落命す』。わたくしのひいひいおばあさまが追加した家訓ですの」
数世代前、当時の王子が敵国の要塞に人質として囚われていた際、王子救出の任務を果たすついでに要塞を焼き落とし、さらにおまけとして周辺の城砦をいくつか陥落させ、城塞都市をも降伏させて王国の領土拡大に大きく貢献した騎士である。
そのような偉大な騎士が残した家訓。たしかに、とレオンハルトは唸った。
「……戦場で生き残るという主目的を見失ってはいけないという意味か……」
「そのとおりですわ、レオンハルト様」
一理も二理も三理もある。生き残ってこその、王国とその民を守護する騎士なのだから。
「……セレスティーヌさん。今日から始めます」
「さすがですわね。いつの日か競い合いましょう」
「負けません」
「それでこそ騎士団長ですわ」
いや、まだだ。独自に砂かけの訓練はする。だが、自分の腕前がどの域まで達しているかを測るには、やはり基準となる師が必要だ。レオンハルトはセレスティーヌに頭を下げる。
「……一応、お母上に入門の件をご確認願いたいです」
「もちろんでしてよ。それはそれ、これはこれですものね。反故にはいたしませんわ」
「ありがとうございます……!」
これでまた強くなれる。レオンハルトはセレスティーヌの寛大な心に感謝した。
花瓶の影がまた傾いた。そろそろ喫茶店で過ごす時間も頃合いだ。
――バルドーは女性と出かける時、いつもこのような、胸を突かれるような気持ちになるのか。
セレスティーヌは技法書を読みながら、ジークフリートの字を指で撫でている。「おじいさまったら、相変わらず仰々しい字ですこと」と口では呆れているものの、そこに祖父への親しみの情が込められていることは、レオンハルトにもわかった。
こうした午後の過ごし方も楽しいんだな。
レースのカーテン越しに光を浴びる白いクロスのテーブル、花瓶に飾られたピンクの花、すっかり空になったティーポットとティーカップ、伝説の騎士団長が残した技法書とそれを読む、白いワンピースを装備したセレスティーヌ。レオンハルトはこの光景を忘れることはないだろう。
「どうなさいましたの? レオンハルト様」
きょろっとした深い青色の瞳と視線が重なる。
「あ……いえ。なんだか、僕ばかり楽しんでしまったな、と思いまして」
「そんなことはありませんわよ。わたくしも楽しかったですもの」
「ほ、本当ですか?」
座り心地のよかったはずの椅子が、急に硬く感じる。レオンハルトは座り直した。
「わたくし、嘘は嫌いでしてよ。王都に火あぶりの達人が潜んでいたと知ることができましたし……」
たしかにクレームブリュレは絶品だった。また食べたい。
「レオンハルト様とこんなにゆっくりとお話できたのも初めてでしたわ」
言われてみれば。
レオンハルトは宙を見つめ、これまでセレスティーヌと話した記憶を掘り起こす。決闘場、王立騎士団本部の稽古場、猪狩り、舞踏会――あまり長話をしたことはなかったか。
「それにわたくし、レオンハルト様とこうしてお話できたことで……」
「はい」
レオンハルトはセレスティーヌの言葉を待ったが、なかなか続きは出てこない。こうして、お話できたことで。これに連結しそうな言葉は何だ。レオンハルトは背中に汗をかきながら考える。
「……『剣をもって求愛すべし』ですわっ」
セレスティーヌがぷいっと横を向いた。
よりによってその家訓に戻るのか。こうして、お話できたことで、剣をもって求愛すべし。これは文として自然な繋がりなのだろうか。ローデンベルク家では意味が通じるのだろうか。いや、きっと繋がるのだろう。レオンハルトはひとまず納得することにした。
――もし、これが世間一般的に言うところの〝デート〟であるとするのなら。また出かけたいと思う。目の前の、王国で指折りと言ってもよいであろう強い戦士と。
レオンハルトはこの時間を名残惜しみつつも、騎士としての業務に戻るべく、「そろそろお屋敷へお送りします」とセレスティーヌに告げる。技法書はまだレオンハルトが預かることにした。
――勇気。勇気だ。
一階へと下りる階段の前で、レオンハルトはセレスティーヌに手を差し出した。絶大な防御力を誇る手袋を外した素手で。
セレスティーヌは少しばかり身構えたが、喉を鳴らしたあと、やはり素手をレオンハルトの手のひらに乗せた。
「またのお越しをお待ちしております」
白髪混じりの黒髪をぴしっと整えた喫茶店のオーナーが見送りに出てきた。レオンハルトは彼に、あらかじめ金額を書いていた小切手を渡す。
「こちらに名前をお書きください。ささやかですが、パティシエという仮面をかぶった火あぶりの達人と、あなたへ贈ります」
レオンハルトはそう言って喫茶店の扉を開ける。世間一般的に〝ささやか〟にしては桁が多すぎる小切手をわなわなと震える手で握りしめたオーナーは、〝火あぶりの達人〟には首をかしげつつも「またのお越しを……!」と深々と頭を下げるのだった。




