クレームブリュレの日(二)
暖かな日差しがレースのカーテンによって柔らかくテーブルを包む。白い花瓶に添えられたピンクの花は、シンプルながらも、午後を過ごすレオンハルトとセレスティーヌの目を楽しませるのに一役買っている。そこへ爽やかな香りが漂う。クレームブリュレをテーブルに置いたオーナーが、今は紅茶をカップに注いでいる。
なるほど、ノンフレーバーときたか。レオンハルトは白いココットの横に差し出されたティーカップの黄金色を見た。柑橘の風味で誤魔化す必要はない――よほどこのクレームブリュレに自信があると見た。
オーナーはティーポットをテーブルに置き「ごゆっくりお楽しみください」と残して去っていった。ああ、楽しませてもらおう。レオンハルトは白いナプキンを膝の上に広げた。
「――レオンハルト様。このクレームブリュレ」
セレスティーヌの声色は低い。
「わたくし、スプーンで割る前からわかりましてよ」
「そのようですね……」
レオンハルトはクレームブリュレを作ったことこそないが、何度も食べてきた。レオンハルトとセレスティーヌはまだ、ココットのそばに鎮座する銀のスプーンは手に取らない。
カラメルの焦げた甘い匂いに、ふ、とセレスティーヌが小さく笑った。
「まさか……街の喫茶店に火あぶりの達人がいるとは」
セレスティーヌの言葉は、レオンハルトの率直な感想をまさに表現したものだった。
「運ばれたタイミングも絶妙でした」
レオンハルトは階段を降りていくオーナーの白髪混じりの黒髪を一瞥する。
「パティシエ――いえ、火あぶりの達人もオーナーも、最高の焦げ具合で僕たちの前に置かれるよう、タイミングまで計算しています」
二人は同時にスプーンを握る。
「レオンハルト様、今ですわよ」
「ええ、間違いありません」
パリ、と半透明のカラメルが割れる音がした。
両者の音に微々たる差異もない。つまり砂糖の配分が同じであるということだ。レオンハルトは兄アルベルトが作ったクレームブリュレを最大三皿まで同日に食べたことがあるが、ここまで音が揃うことはなかった。
「……やはり熟練の技……」
セレスティーヌが驚くのも無理はない。「ええ」とレオンハルトも同じ気持ちだ。
「今まで耳にしてきたクレームブリュレの表面を割る音の中で、一番のものでした……」
兄には申し訳ないが認めざるを得ない。剣だって槍だってクレームブリュレだって、上には上がいるのだ。ただし火あぶりの達人の存在を兄に知らせてよいものか。レオンハルトは躊躇しつつ、割れたカラメルとともにカスタードクリームを口に運ぶ。
「……おいしい……!」
レオンハルトとセレスティーヌは揃って頭を抱えた。
「バニラビーンズの混ざり方……一体どのような形状のもので混ぜているかはわかりませんけれど、均等に配分されることがもはや自然の摂理と言わんばかりに使い慣れていますわね……!」
セレスティーヌが二口目を食べた。レオンハルトも「はい」それに続く。
「それに加えてカスタードのなめらかさ……何度も濾すことをいとわない忍耐力、見事なものです」
「じっくり湯煎するあいだ、片時も目を離さなかった執念も窺えますわ」
ひとまず落ち着こう。レオンハルトは紅茶を飲んだ。口の中を支配していたクレームブリュレの甘さをたちまち覆す、それでいて喉越しのよい茶葉だ。おいしい。レオンハルトはふたたびココットに向き合う。
「そして仕上げの火あぶり……」
これほど美しくあぶられたクレームブリュレの表面を見たことがあっただろうか。いや、ない。兄特製のクレームブリュレも負けてはいないが、このクレームブリュレは決してまだらに焦げることなく、綺麗に円を描くよう砂糖が火あぶりにされていた。三口目も食べた。おいしい。
「……わたくし、今日という日を私的な祝日にいたします」
セレスティーヌの感極まった声を聞き、はっ、とレオンハルトは顔を上げ「僕もです」と言う。
決して国が定めた祝日に不満があるわけではない。ただ、人生で傑作に出会えた日なのだ。私的な祝日。そうだ、私的に祝わずにはいられない。
「クレームブリュレの日ですね」
レオンハルトがそう名付けた。セレスティーヌが紅茶を口にしたあと、静かに手を胸に置く。
「クレームブリュレの日……わたくし、来年もまたこちらで迎えますわ……必ずや」
セレスティーヌの意思は堅いようだ。来年も。また。ここで。スプーンを握るレオンハルトの指がぴくりと動いた。
「僕も……ご一緒させていただいてもよろしいでしょうか……?」
「……よ、よろしいんですの……?」
セレスティーヌがレースのカーテンへと目を逸らした。
「セ、セレスティーヌさんと騎士団の業務さえ問題無ければ、ぜひ」
「……たっ、楽しみですわ……!」
レオンハルトとセレスティーヌはクレームブリュレを堪能しつつ、揃ってレースのカーテンの網目を数え始めた。
――いや、数えている場合ではない。レオンハルトは「セレスティーヌさん」と本題を切り出す。
「一昨日の決闘で、伝説の騎士団長……あ、いえ、セレスティーヌさんのおじいさま秘伝の滋養強壮剤を分けていただきありがとうございました」
「礼を言うのはわたくしもですわ。おかげさまで風邪を引くこともなく元気に過ごせておりますもの」
「僕もです。最初はあまりのもったいなさに飲むのをためらいましたが……万が一風邪を引いて業務に差し障る方がダメだと判断し、ひと思いに飲ませていただきました」
レオンハルトが言い終わると、セレスティーヌはスプーンを置いた。
「わたくしが決闘を申し込んだせいで、レオンハルト様が体調を崩してしまっては不本意ですもの。お元気なら何よりですわ」
「いえ。たとえ決闘したからであっても、僕の体調不良は僕自身の健康管理不足です。本来なら、あなたに昼食を買っていただいたのも僕の失態なのですが……」
ご令嬢が行列を成した日のことである。
「あの日もパンを差し入れしてくださり助かりました。ありがとうございました」
「お気になさらないでくださいませ。あの日はバルドー様も驚いていらっしゃいましたし、よほど不測の事態だったのだと思っておりますもの」
「それは……はい、正直に言いますと、僕も驚きました……」
何がご令嬢方をそうさせたのか。レオンハルトはまだ原因を掴めずにいるが、王立騎士団本部の警備を強化したことで、あれ以来、行列ができる事態は免れている。
レオンハルトが何口目かのカスタードクリームをスプーンで掬った。
「王立騎士団本部への通行許可証の件はさておき」
セレスティーヌが言う。レオンハルトのスプーンが止まる。
「レオンハルト様に結婚の直談判をしにいらっしゃるだなんて、なんと勇敢なことでしょう」
ぼたっとカスタードクリームがココットに落ちた。
「皆さまの、とても立派な度胸……私も見習うべきですわ」
「……あなたが言いますか?」
つい指摘したくなった。
レオンハルトは空になったスプーンを持ったままセレスティーヌを見る。勇敢で立派な度胸。何度も決闘を申し込むセレスティーヌのほうがよほど――いや、規則を無視してまで結婚を直談判するのも、ある意味、勇敢で立派な度胸なのか。規則は守ってほしいが。レオンハルトの視線とスプーンが宙を彷徨う。
「『度胸と勇気と器の広さはいくらあっても損は無い』でございますの」
誰が追加したローデンベルク家の家訓だろうか。レオンハルトは一度セレスティーヌに目をやる。度胸と勇気と器の広さ。
――どれも自分に欠けているものだ。当初は騎士団本部の稽古場に来ていたセレスティーヌから逃げ惑い、猪狩りに誘うことさえままならず、嫉妬してばかりだった。
レオンハルトは手元のココットに目を落とし、カスタードクリームを力なく掬い上げる。
「その家訓は……僕は則れそうにないですね」
カスタードクリームがやたら甘く感じた。
「わたくしの家の家訓でしてよ。レオンハルト様が気になさる必要はないと思いますけれど」
「いえ。人として必要な三つだと思います」
騎士としても必要な要素だ。度胸がなければ戦場に立てず、勇気がなければ剣を振るえず、器の広さがなければ剣を置いて相手と対話ができないからである。やはり自分はまだまだだ、とレオンハルトは反省する。
「ですが、レオンハルト様はどれも兼ね備えているようにお見受けしますわよ」
「そうでしょうか」
セレスティーヌの言葉に偽りはないと信じたいが、レオンハルト自身、腑に落ちない。紅茶を飲むと、先ほどまで口を占領していた甘さがすっと影を潜めた。「そうですわよ」セレスティーヌの声色が少々鋭さを帯びる。
「王立騎士団の騎士団長という責任の大きい職に就くなんて、度胸がなければできない決断ですわ」
「それは……」
レオンハルトの視線が花瓶の花に逃げる。
「先代騎士団長の推薦があったからです」
「推薦されることと、就任することは別でしてよ。本気で責任から逃げたければ、騎士を辞することだってできたはずですわ」
それはそうだが。
「勇気は言わずもがなですわ。国のため、民のため戦線に立つ騎士という道をお選びになられましたでしょう」
「はい」
騎士になることは、レオンハルトが王立アカデミーに入学する前から決めていた道だ。
「戦いに命を賭してもよいという勇気がなければ選べない道ですわ」
セレスティーヌの言葉が重く聞こえた。彼女が、何人もの騎士を輩出してきたローデンベルク家の出身だからだろうか。いや、違うな。レオンハルトは花の茎を見る。セレスティーヌ自身、騎士ではなくとも、日頃から戦いに身を置く人間だからだろう。「仰るとおりです」レオンハルトも異論はない。
「部下も皆、勇気がある者たちばかりですから」
「その部下の皆さまがレオンハルト様の器の広さの証人でしてよ」
「……部下が?」
レオンハルトは眉間にシワを寄せ、セレスティーヌの深い青色の瞳の様子を窺った。どちらの眼差しも真剣だった。
「以前、部下の皆さまが、レオンハルト様とわたくしの決闘を観戦にいらっしゃっていた日のことですけれど」
ああ、盾を持って戦った決闘の日か。レオンハルトはすぐに思い出した。
「中にはレオンハルト様に野次をお飛ばしになった部下の方もおられましたわよね?」
「さすがにセレスティーヌさんにも聞こえてましたか」
「当然ですわ」
レオンハルトは苦笑した。あの日は「団長にぶちかませ」「団長をぶっ飛ばせ」などと言っていた部下もいた。
「バルドー様も副騎士団長とはいえ、上官であるはずのレオンハルト様に軽快な口調で接していらっしゃいますわよね」
「ええ、まあ。あいつは締める時は締めますが」
「そのようですわね。バルドー様とお知り合いになって日が浅いわたくしでも、それはなんとなくわかりますわ」
さすが観察眼が鋭い。レオンハルトはもう一口紅茶を味わった。
「レオンハルト様は部下の方がお嫌いでして?」
「いえ、まったく」
即答だった。
「腹が立つことがないとは言えませんが、信頼していますし、信用のおける部下たちです」
「時として腹が立つのは人として普通のことですわ」
言葉を続ける前に、セレスティーヌも紅茶を飲んだ。
「でも、腹が立つからといって信頼も信用もしない、ましてやお仕事も振らない、なんて切り捨ててはいらっしゃらないでしょう?」
「はい。切り捨ててしまうと、誰よりも僕自身が一番困ります」
レオンハルトはそう答えながら思わず笑ってしまった。そんなことで部下を排除していては、組織として成り立たない。レオンハルトにとって重要なのは、自分自身の感情よりも、王国を守る組織を維持することなのだ。
「……でしたら、レオンハルト様はもう、三つとも兼ね備えていらっしゃいませんこと?」
食べようと思ったクレームブリュレを、レオンハルトは食べなかった。しかし今度はカスタードクリームは落ちない。目の前で誇らしげに微笑むセレスティーヌに、レオンハルトはしばらく見惚れていた。
「違いまして?」
追い討ちか。レオンハルトはスプーンに乗せたままの甘いクリームをぱくりと口に入れた。カラメルがじゃりじゃりと混ざって甘さを引き立てている。
「先日の猪狩り、事前調査や鈴を張り巡らせる作業をなさったのは部下の方なのですわよね?」
「はい」
「ですわよね。いくらレオンハルト様が優秀であろうとも、他の業務と並行して事前調査まで済ませる時間を捻出するのは困難ですもの」
「はい。あのあたりの地理に詳しい部下や、見どころのある新人に任せました」
「そのおかげでわたくしも猪に専念できましたのよ。感謝申し上げますわ」
はたして自分が礼を言われることなのだろうか。レオンハルトはティーカップに手を伸ばしつつ首をかしげた。
「セレスティーヌさんからのお言葉、後ほど部下にも伝えておきますね」
そう言ってレオンハルトは紅茶を口に流した。全員、喜ぶだろう。何せ、あの量の猪を狩った当人からの謝意だ。自分からも改めて礼を伝えるか、とレオンハルトはティーカップを置いた。しかしセレスティーヌは目を細め「ありがたいですけれど、今はレオンハルト様についてのお話ですわよ」と言う。
「部下を信じることと、自分以外の者が集めた情報を信じるかはまた別の心得ですのよ、レオンハルト様」
「当然です。だからこそ、腕と発言が信用できると見込んだ部下に頼みました」
一瞬、セレスティーヌがきょとんとした。だが「ならば」とまた自信に満ちた瞳で笑う。
「やはりレオンハルト様は兼ね備えていらっしゃいますわ。度胸と勇気、そして器の広さを」
たまらずレオンハルトはスプーンを置いた。
不屈の精神と目を見張る向上心、そして騎士に相応しい高潔さを兼ね備えて何度も戦いを挑んでくるセレスティーヌにそう評価されたことが、レオンハルトにはたまらなく嬉しいのだ。
ただ、とレオンハルトは口元を隠しながら言う。
「……ですが先日、騎士団本部に結婚を直談判しにいらしたご令嬢方を、僕は一斉にお断りする度胸も勇気もありませんでした」
これは事実だ。業務に支障をきたすとわかっていながら、結局は一人一人を相手にしたのだから。
「レオンハルト様に相手への礼節と敬意があるからではなくって?」
「いえ、それとこれとは別問題です」
うーん、とセレスティーヌが頬に手を添えた。そして「あ」と何かを思い出したように口を開く。
「そういえば、お友達から聞きましたの。あの日、女性の皆さまが騎士団本部に押しかけてきたのは、舞踏会でレオンハルト様がわたくしと踊ったからだとか……」
えっ。
「ど、どういうことですか?」
思いもよらぬ情報にレオンハルトが身を乗り出す。
「わたくしのお友達のマリーを覚えてらして?」
「はい。先日の舞踏会でご挨拶させていただきました」
セレスティーヌと一緒にいた、カーキブラウンの髪をした辺境伯家のご令嬢だ。バルドーともあっという間に打ち解けていたところを見るに、人懐こい性格のご令嬢なのだろう。
「マリーは顔が広いんですの。わたくし、たまにマリーとお互いの家でお茶をするんですけれど……」
本当に仲がいいんだな。レオンハルトは舞踏会での二人の様子を振り返っていた。
「こないだマリーの家にお邪魔した時、『レオンハルト様があなたと楽しそうに踊っているのを見た他の皆が、うかうかしてられないって徒党を組んで騎士団本部に行ったらしいのよ』って言ってましたわ。どこまで本当なのかはわかりませんけれど」
本当に、どこまで事実なのかわからない。レオンハルトは真顔でセレスティーヌを見るしかなかった。
レオンハルトの中で、社交界で顔が広いといえばバルドーだ。彼にも聞けば少しは真相に近づけるだろうか。しかし徒党とは。彼女たちの目的が国家転覆ではないことにレオンハルトは少なからず安堵した。
「……行列、わたくしにも非があったのかしら……」
レオンハルトが真顔だったからだろうか。セレスティーヌが眉を顰めた。
「いや、セレスティーヌさんに非はないです」
レオンハルトは断言した。だがセレスティーヌが渋い顔をしたので、レオンハルトはこう続ける。
「そもそもダンスにお誘いしたのは僕です。そして通行許可証もなしに押し寄せたのはあの方々の独断です」
「……たしかに一理ありますけれど……」
一理しかない。レオンハルトは語気を強める。
「騎士団本部内で起こったことですので、責任はすべて僕にあります」
セレスティーヌはあと少しで納得しそうな表情で視線を泳がせる。
「……わたくし、隠密行動の心得もありますの。もし徒党に国家転覆を企てる気配があれば、助太刀させてくださいませね」
やめてくれ、騎士団に入団させない理由が一つ消えてしまう。レオンハルトはセレスティーヌの騎士適性の高さに焦りつつも「万が一、億が一のことがあれば頼らせてください」と応じた。もちろん頼る気はない。
「もし今後また同じことが起きても、一斉にお断りすることにします」
規則を破ってまで押し寄せる相手だ。もしもレオンハルトが一斉に断固拒否したと相手から無礼を咎められても飲み込もう。目には目を、歯には歯を、掟破りには掟破りをだ。レオンハルトは家の教えに従うことにした。
「……断ってしまいますの?」
「え?」
「えっ?」
お互い、拍子抜けした顔で見つめ合う。セレスティーヌが何に驚き、「断ってしまいますの?」と尋ねたのか、レオンハルトにはわからなかった。
「……えっと?」
なんとも情けない声だ。それは当のレオンハルトも自覚していた。しかしセレスティーヌの心中を探る術が何もないのだ。
レオンハルトはかしげていいのかわからずも、首を少しだけかしげた。セレスティーヌも、どう言えばいいのかわからないような表情で言葉を紡ぐ。
「わたくしはレオンハルト様に決闘を申し込んで、勝って、プロポーズするつもりですわ」
「えっ……と、はい、そうですね……そのよう、ですね?」
「ええ」
二人とも手探りである。
「……だからといって、他の女性との縁談を断っていただきたいとは申し上げておりませんわ」
なるほど。セレスティーヌの言葉の意図を汲み取るなり、レオンハルトの頬に熱が集中した。
「……僕は」
レオンハルトは小さく震えるスプーンでカスタードクリームを掬う。
「僕は、少なくとも」
「はい」
「正式な手続きを踏まず、通行許可証を持たずに、騎士団長の執務室へお越しになる女性とは」
「はい」
「け、結婚……したいとは、思えません」
嘘は言っていない。誰かが伴侶として騎士団本部内に来るとしても、正式な入場許可を得た上で来てほしい。それはレオンハルトの価値観に基づく認識と判断である。嘘は言っていない。レオンハルトは力強くクリームを飲み込んだ。
「……バルドー様が発行した通行許可証をお持ちになった女性が行列を作る可能性もありましてよ?」
たしかに可能性はゼロとは言えない。しかしレオンハルトの言い訳はゼロになった。ここから増やすことはできるだろうか。レオンハルトはまたクレームブリュレを食べる。甘い。スプーンがココットを突いた。クレームブリュレもなくなった。レオンハルトはかつて任務で登った崖の頂上に到達した恐怖を思い出した。
「結婚については、一斉に押しかけられることのない状況で熟慮したいです」
「……それもそうですわね」
よし、通じそうだ。レオンハルトはセレスティーヌと自分のティーカップに紅茶を注ぐ。これも嘘ではない。レオンハルトの手が静かにティーポットを置いた。「ありがとうございます」とセレスティーヌが言った。難を逃れたか。レオンハルトはかつて崖を無事に下りることができた、あの安心感で包まれる。
「レオンハルト様」
まだ足場が不安定か。レオンハルトは訝しげに視線を送ってくるセレスティーヌを見て思った。
「本日は解散いたしませんこと?」
「えっ」
思いもよらぬセレスティーヌの発言に、レオンハルトは硬直した。セレスティーヌはクレームブリュレを完食しかけていた手を止め、背後から刃が剥き出しの短剣を取り出した。敵襲か。レオンハルトは身構えたが、セレスティーヌはあろうことかレオンハルトの眼前に刃をちらつかせる。
「この短剣の刃、鏡としても使えますのよ。レオンハルト様、こちらでご自身のお顔をご確認なさいまし」
レオンハルトはセレスティーヌに言われるがままに短剣を見た。本当だ、まるで鏡面のように研磨された刃だ。これは後方の死角を確認するのにも使えそうだ。
いや、そんなことより、なんだ、この顔の赤みは。レオンハルトは思わず両手で自分の顔を覆った。
「滋養強壮剤の効き目が薄かったみたいですわね。発熱なさってますわよ」
「いえっ、そうではないと思います。そうではないです、発熱ではないです」
セレスティーヌが短剣を隠す物音が聞こえた。
「……何かしらの毒物?」
「毒物も摂取してません。騎士団の食糧は検品してます。このお店も安全です」
「わたくし、嘘は嫌いですわ」
「嘘じゃないです」
「国の旗に誓えまして?」
「家紋にも誓えます」
レオンハルトは目元を覆い隠したまま、襟につけたラペルピンを指した。「わかりましたわ」と引き下がるセレスティーヌの声が耳に届いた。
セレスティーヌは体調を気遣って解散を申し出てくれたらしい。レオンハルトは顔から手を離し、呼吸を落ち着かせる。
「……なので、まだ、解散は……なしで」
とレオンハルトが訴えても、セレスティーヌは不服そうだ。「発熱ではないです」とレオンハルトが再度言ったことで、セレスティーヌもようやく「わかりましたわ」と合意してくれた。
「……いつでもこの背中にお乗りくださいませね?」
「はい。ありがとうございます」
慕っている女性の背中に乗れるものか。いや、猪を同時に五頭担ぐことのできるセレスティーヌならば成人男性一人おぶって運ぶなど朝飯前だろうが、レオンハルトが気にしているのはそこではない。
――ああ、わかった。
レオンハルトはバルドーのメモを振り返る。家を出るまで、いや、ほんの今まで〝とびきりカッコいい身だしなみをすること。髪もちゃんとセットすること〟の意味がわからなかった。しかしレオンハルトは、なるほど、と再三頷く。
格好つけたいのだ、セレスティーヌの前で。どうすれば格好がつくのか、それはまだわからないが。
「……レオンハルト様。解散しなくても平気そうでしたら……」
「はい」
クレームブリュレを食べ終えたらしいセレスティーヌが、突然しおらしく言い出す。
「……クレームブリュレ、もう一皿追加しても構いませんこと?」
ふっ、とレオンハルトが笑みをこぼした。
「もちろんです。注文しましょう。僕は二皿、行きますが」
「……じつは、二皿食べたいんですの。わたくしも」
「そうしましょう。遠慮はダメですよ」
「……三皿」
「はい。では僕も三皿で」
「感謝いたしますわ!」
嬉しそうに笑顔を弾ませるセレスティーヌを眺めながら、レオンハルトはテーブルの脇に備えられたベルを鳴らした。この人の瞳で自分を確かめていたい。ふと目が合って笑った深い青色を見て、レオンハルトはそう思った。




