クレームブリュレの日(一)
ぱかぱかと走る馬車と並走している途中、レオンハルトは小まめに隣のセレスティーヌの様子を確認していた。
市街地のため御者も速度を落として馬を走らせているとはいえ、セレスティーヌは顔色一つ変えず走っている。父親と不意打ちをしながら庭を走るという持久力をつけるための訓練はまだ続けているようだ。
踵が七センチ高い靴、走りづらくはないのだろうか。試してみたい。しかし、男性用の靴でも踵が高いものはあるが、女性用ほどの高低差があるものはない。探せば手に入るのだろうか。今度、例の牛革専門の革靴オタクが来た時にでも尋ねてみよう。
レオンハルトは自分と馬車の真ん中を走るセレスティーヌをまた一瞥した。やはり疲れている様子はないどころか、楽しそうに見える。
――あれ。
目的地の喫茶店まであと少しというところまで来て、レオンハルトはふと疑問を感じた。この速度なら会話できるだろうか。試しに、セレスティーヌに話しかけてみることにした。
「セレスティーヌさん」
「はい?」
会話可能のようだ。
「いつもお一人でお出かけを? 従者はつけないのですか?」
レオンハルトはあえて単独で外出するようにしているが、セレスティーヌも何か理由があるのだろうか。通常――一般的に、貴族が外出する際は護衛を兼ねて従者を連れているものである。
セレスティーヌは走りつつも頷いた。
「そうですわよ。従者が人質に取られたらいけませんもの」
「ああ、わかります」
レオンハルトと同じ理由のようだ。
「あらかじめハンドサインを決めていても、うまく動けないことがありますしね」
レオンハルトが愚痴をこぼすと、セレスティーヌも「そうなんですのよね」と同意した。しかし、その顔が急に険しくなったものだから、レオンハルトは一瞬たじろいだ。
「この国にレオンハルト様の従者や部下の方を人質になさる不届き者がいますのね?」
声がまるで研ぎ澄まされたナイフのようだ。
「王立アカデミーに入学する前、従者が人質に。無傷で救出できましたが」
なぜ幼い自分ではなく、青年とはいえ成人男性だった従者を人質に選んだのか。犯人は「少年のほうは隙がなかった」と自供したらしいが、それにしても成人男性の従者より、体格の小さい自分のほうが抑え込みやすかったはずだろう。レオンハルトは当時の犯人が下した判断について、今でも不思議に思っている。
「弱い従者を人質にするとは卑怯ですわ。悪党に矜恃というものはないのかしら……」
「ある悪党とない悪党がいますから」
悪事を働く人間にもさまざまな価値観や思想がある。
レオンハルトは、牛革専門の革靴オタクのことは伏せておくことにした。いくらセレスティーヌ相手でも、他者の前科など、軽々しく教えられるものではない。あれほど熱意を持っている革靴オタクのことを、本当は紹介してみたいのだが。
「ですがセレスティーヌさん、さすがにお一人だと、急襲されては危ないのでは?」
レオンハルトはセレスティーヌの実力を疑っているわけではない。だが、庭で並走する父親との訓練とは違い、街中ではどこから不意討ちを喰らうかわからないのだ。すると「じつは……」とセレスティーヌは恥ずかしげに言う。
「わたくし、短剣と、仕込みナイフと針を携帯しておりますの。……内緒にしてくださいませね?」
えっ、とレオンハルトの肩が弾んだ。
「奇遇ですね。僕もです」
「まあ。さすがですわね」
「場所はあえて聞かないことにします」
「当然ですわ。味方から騙さなければなりませんもの」
味方。
「……ありがとう……ございます……」
「何のお礼でして?」
「いやっ、なんでもないです。なんでもなかったことにしてください」
味方として信用してくれていることが嬉しくて、と言える勇気が出ない自分をレオンハルトは恨んだ。このような当たり前の心情、バルドーにだって、国王陛下にだって申し上げられるというのに。
慕っている相手に「嬉しい」と、たった四つの音を伝えるのがこれほど難しいとは。なぜ難しいのだ。レオンハルトが悩み始めたところで、甘い香りがふわっと鼻に届いた。
「あ、もうすぐ着きます。徐々に速度を落としましょう」
レオンハルトの一声で、セレスティーヌと馬車は走る速度を緩めた。
到着したのは、菓子店が併設された喫茶店だ。菓子店のほうは、一昨日の夕方、雨の中レオンハルトが予約しに来た時もちらほら人が並んでいたが、今日はその比ではない。親子や貴婦人、それに男女――レオンハルトはかっと瞳を開いた。手を繋いだ男女が菓子店の行列に並んでいる。手を繋ぐのか、本当に。握力比べ――しているようには見えない、少なくともあの手の重ね方では。あれが〝恋人〟の技か。
レオンハルトは気持ちを落ち着かせ、御者にまた後ほど来るよう手配し、セレスティーヌを喫茶店へエスコートする。〝いきなり手を繋げとは言わないからレディとしてちゃんとエスコートすること〟。バルドーのメモに書かれていた指示だ。セレスティーヌを戦士ではなくレディとして、他のご令嬢をエスコートするように振る舞えばいいのだな。
しかし店内入口へと繋がる十段にも満たない階段くらい、セレスティーヌならばエスコートされずとも難なく上れそうだが――〝ちゃんとエスコートすること〟。
「セレスティーヌさん、お、お手をどうぞ。僕は今、戦士ではなく、紳士として手を差し出しています」
ぴくりとセレスティーヌの眉が上下した。レオンハルトの顔と差し出されたその白い手袋を見つめたあと、一瞬、彼女の祖父である伝説の騎士団長の迫力ある肖像画のように凄んだかと思いきや、顔をばっと背けた。
「……しゅ、淑女としてお手を拝借すればよろしいんですわね?」
セレスティーヌの視線はストリートの群衆に向けられたままである。「よ、よろしければ」とレオンハルトが追って言うと、「わ、わかりましたわ」と白い手袋で包まれたセレスティーヌの鍛えられた片手が伸びてきた。
その手をそろっと救い上げたが、レオンハルトの指先はあからさまに震えている。十段にも満たないとはいえ、この状態で階段を上るのか。
「すみません、セレスティーヌさん」
レオンハルトはあらかじめ断ることにした。
「む、武者震いしてしまっていますが、お気になさらず」
「……わ、わたくしもなんだか武者震いがしてきましたわ。気になさらないでくださいませね」
たしかにセレスティーヌの手も震えている。これは気を抜けない。レオンハルトは一段一段踏みしめるごとに、周囲から敵意や殺意は向けられていないか、不審な動きをする者はいないか、刃物の擦れる音はしないか、襲撃される気配はないかを警戒した。
どうやら敵はいないようだ。階段を無事に登頂し、レオンハルトは安心してセレスティーヌの手を離した。
――繋ぎたいと思うんです。世の中の恋人たちは。相手と。手を。
先日聞いた、バルドーの呆れた声がレオンハルトの脳裏に響いた。
――またエスコートさせてほしいとは思う。だが〝恋人〟という契約関係ではない。彼女と。自分は。
ならば手を繋ぎたいと思うのは自分の大層失礼な強欲でしかない。レオンハルトは扉を開け「後ろはお守りしますので前方にご注意ください」とセレスティーヌを通しつつ、強欲は捨てることにした。
レオンハルトが名乗る前に、店内へ入るなり喫茶店のオーナーが「お待ちしておりました」と出迎えた。年齢は五十代くらいだろうか。白髪混じりの黒髪をぴしっとまとめた男性である。「こちらへどうぞ」とオーナーに言われるがままレオンハルトとセレスティーヌが案内されようとしているのは、どうやら二階の特別席らしい。
二階だと。レオンハルトは階段を二度見した。もう手袋は外してしまっている。しかし他の来客もいる中でもたつくわけにもいかない。レオンハルトは隣のセレスティーヌに「戦士ではなく、紳士として」と声をかけた。セレスティーヌも険しい表情で重く頷き、同じく手袋を外した片手をレオンハルトへと差し出す。
――手袋の防御力は偉大である。
レオンハルトは認めざるを得なかった。鍛えられたセレスティーヌの手も、内側は少し柔らかい。柔らかいのに、殺傷力はローデンベルク家のエントランスで目にした、棘がやたら鋭く重厚なモーニングスターのようである。モーニングスターと違い、セレスティーヌの手は温かいのが輪をかけて威力を高めている。そうか、とレオンハルトは悟る。モーニングスターが冷たい鉱物でできているのは、敵へのなけなしの優しさだったのか。世界で初めて星のような球の殴打用武器を発明した人物のなんと偉大なことか。
敵襲を警戒し、無事二階まで上がった頃、レオンハルトは衝撃から解放されたことへの安堵の溜め息を吐いた。そして、この建物の隣に立つ菓子店の行列に並んでいたあの男女へ、心から敬意を送るのだった。
――あっ。先を越された。
テーブルへ案内され、セレスティーヌが座る椅子を引こうとしたレオンハルトよりも先に、オーナーが慣れた動作でセレスティーヌを着席させた。あの身のこなし、只者ではない。
ごくりと唾を飲んでオーナーを一瞥したあと、レオンハルトも着席した。
ふかふかで座り心地のよい椅子だ。長時間座っていても疲れにくい設計。そして一階の客席から上がる談笑の声が程よく落ち着く。かといって二階が暗いわけではなく、いくつかの窓が午後の日差しをフロアへとふんだんに広げている。レオンハルトとセレスティーヌが着席したテーブルの横にも小窓があり、レースのカーテン越しに小窓からの光を受け、テーブル上の花瓶に添えられたピンクの花が活き活きと咲いている。
なるほど、バルドーがこの喫茶店を推薦したわけである。
「本日のおすすめはクレームブリュレです」
オーナーがメニュー表を差し出しながらそう告げた。
クレームブリュレだと。作り方や味ならレオンハルトも知っている。王宮から実家に帰ってきた兄がよく試みている、完璧に仕上げるのが難しい菓子だ。試食するうちにレオンハルトの好物になった。
――このオーナー、どこからか情報を嗅ぎつけたのか。いやまさか。グランツシュタイン家の、ましてや警備の堅い王宮で書記官として働く兄の情報をどこから仕入れられるというのか。
レオンハルトは内心やや狼狽しつつも、バルドーが推す喫茶店の、さらにオーナー直々に推奨するクレームブリュレに臨むことにした。
「セレスティーヌさん、お好きなものをお選びください。何品でもどうぞ」
レオンハルトはセレスティーヌにゆっくりと選んでもらうつもりだったが、セレスティーヌはメニュー表をぱたりと閉じ、「わたくしもクレームブリュレをいただきますわ」と真剣な表情で言った。
セレスティーヌも気付いたのだろうか。オーナーの身のこなしと椅子の設計技術の高さ、そしてすべて計算のうちとでも言わんばかりの空間の過ごしやすさに。
「お飲み物は紅茶とコーヒーがございますが、いかがいたしましょうか」
オーナーがメニュー表を受け取りつつ尋ねた。「セレスティーヌさんは何になさいますか?」とレオンハルトが向かいに座るセレスティーヌの意見を求めると、さすがと言うべきか、彼女は厳かに「クレームブリュレに合うお茶をお願いいたしますわ」と答えるのだった。
「僕も、同じものをいただきます」
どうやらレオンハルトとセレスティーヌの心中は同じであるようだ。レオンハルトは襟元を正す。
バルドーが推す喫茶店がオーナー直々に推奨するクレームブリュレ、それに最も合うお茶とは如何なる味わいなのか、オーナーのお手並み拝見といこう。そしてチップもうんと弾もう。レオンハルトはそう思った。
「セレスティーヌさん、クレームブリュレがお好きなんですか?」
オーナーの立ち去る小さな足音に感心しつつ、レオンハルトは正面のセレスティーヌに言った。
「いいえ」
セレスティーヌはおもむろに首を横に振る。
――好きじゃないのに、注文したというのか。一体なぜ。
「僕に合わせていただいたのですか……?」
そうだとするなら、嬉しさと申し訳なさが同時にどっと押し寄せる。レオンハルトは頬が引き攣りそうなのをぐっと堪えた。
「いいえ」
合わせたわけでもないだと。レオンハルトはセレスティーヌの心中がまったく読めず、言葉を失う。一方、セレスティーヌは非常に冷静な目つきでレオンハルトを見ている。
「わたくし、メニューに〝クレームブリュレ〟の文字を見つけたら、迷わず注文することにしておりますの」
「……家訓ですか」
「いいえ」
ローデンベルク家の家訓でもないだと。レオンハルトはとうとう身を強ばらせる。
「シェフをはじめ、我が家のコックは皆、製菓技術も高いのですけれど」
「けれど……?」
狩りも行うというシェフは菓子作りもうまいのか。レオンハルトの額にうっすら汗が滲む。
「『クレームブリュレだけはマスターランクまでに三十年はかかった』……皆、口を揃えてそう言いますわ」
「……三十年……!」
レオンハルトの兄アルベルトはまだ二十七歳だ。クレームブリュレを作り始めてからは、もっと短い。
そんなに高度なものを作成しようとしていたのか、兄は。さすが兄と褒め称えるべきか、無謀だと今からでも阻止したほうがいいのか。いや、無謀という言葉で道を引き返すような兄ではない。レオンハルトは兄の志を賞賛することにした。
「わたくしはまだミドルランクですの」
なんということだ。レオンハルトは膝の上で拳を握った。
「セレスティーヌさん。それは、ローデンベルク家に伝わるクレームブリュレ流派ですか?」
「ええ。開祖はひいひいひいおじいさまでしてよ」
「王国の領土拡大に貢献したひいひいおばあさまの、お父上……?」
「そのとおりですわ」
歴史が長い。レオンハルトは思わず天井を仰いだ。日差しに照らされたシャンデリアが綺麗だ。
セレスティーヌの高曽祖父といえば、周辺諸国が同盟を組んで王国への大侵攻を開始した折、戦場の最前線で同盟軍の猛攻を食い止め、その功績により王立騎士団の副騎士団長まで昇り詰めた鬼才だ。そのような高名な騎士が開祖のローデンベルク流クレームブリュレ――食べたい。
「ちなみに、現在の師範は……?」
尋ねずにはいられなかった。
「わたくしの父ですわ」
あろうことか、剣の達人でありながら外交官として働くローデンベルク卿その人とは。――ローデンベルク家へセレスティーヌを迎えにいった際、卿がローデンベルク夫人から投擲されたフォークで頬を掠めて血痕を残していたのも何かの暗示か。レオンハルトは唇を噛み締める。
いや、待て。
レオンハルトは気付いた。レオンハルトの兄アルベルトは今、ローデンベルク卿の下で働いている。かれこれ五年になるだろうか。五年前から、兄が作るクレームブリュレの精度が上がっていった気がする。まさか王宮でローデンベルク卿に教えを受けているのだろうか。
――間接的にローデンベルク流のクレームブリュレを食べていたのだろうか。
レオンハルトは顎をさすり、真っ白なテーブルクロスをじっと眺める。今度兄に会ったら聞いてみよう。
「レオンハルト様はクレームブリュレがお好きなんですの?」
レオンハルトが顔を上げると、にこにこと微笑んでいるセレスティーヌと目が合った。
「……好きなっ……食べ物の一つです……」
レース、花柄だ。しかも王妃殿下が好んで用いる花だ。この喫茶店、愛国心にも溢れていると見た。レオンハルトはセレスティーヌから目を逸らしていた。
「そうなんですのね。知りませんでしたわ」
「兄が、たまに作っているので……食べているうちに好きになりました……」
「レオンハルト様のお兄様……」
セレスティーヌの声がやや上を向いたので、レオンハルトは視線を戻した。セレスティーヌは顎に右手を添え、宙を見ている。
「以前、わたくしのお友達が話しておりましたわ。レオンハルトのお兄様は王宮で書記官をなさっているんですのよね」
「はい。社交の場にはあまり顔を出しませんが」
まあ、とセレスティーヌが目を見開いた。
「社交界には姿を現さず、クレームブリュレと向き合っている……」
あながち間違いではない。
「殊勝な心がけですわね……」
「そうですね。以前はスフレ作りに挑戦していました」
「……スフレの道も険しいですことよ」
セレスティーヌが眉を顰めた。レオンハルトも苦々しく頷く。
「バニラやチョコや……パンケーキやチーズケーキ、一通り作っていましたが『挑むには時期尚早だった』と言っていました」
あの落胆ぶりときたら。当時のレオンハルトは見ていられなかった。
王立アカデミーの文官クラスを首席で入学、首席で卒業した兄にもまだ困難な道が残されていたらしい。今度会ったら励まそう。レオンハルトは兄をどう労わろうかと考える。
「――この匂いは」
レオンハルトとセレスティーヌは一斉に階段へと目を向けた。この香ばしく甘い匂い。階段を上ってきたオーナーがその腕上のトレーに乗せているのは、間違いない、クレームブリュレだ。
来たか。
レオンハルトは姿勢を戻す。正面に座るセレスティーヌも物々しい雰囲気だ。テーブルの上のピンクの花越しに、ふと目が合う。こく、と二人は無言で頷き、目の前にクレームブリュレが到着するのをじっと待つ。
「お待たせいたしました。クレームブリュレでございます」
テーブルクロスがほんのわずかに擦れる音とともに置かれた白いココット。その中の黄茶、焦茶色のカラメルを見て、レオンハルトは兄が作ったそれを上回るクレームブリュレの味を覚悟した。




