決闘前
今日は朝からざあざあと雨が降っている。この調子だと雨天は夜まで続くだろう。
正午より二時間前、決闘場に到着したレオンハルトは入口を潜って雨着を脱いだ。ばさばさと雨粒を払っても、すぐには乾きそうにない。
雨の中、市街地の、煉瓦道であるメインストリートをニンジン歩法で通ってきたが、雨だと中々足音が小さくならない。どうしても雨水が跳ねてしまう。
――ニンジンではダメなのだろうか。今日、セレスティーヌさんに尋ねてみるか。
決闘予定時刻の一時間前だ。レオンハルトは石造りの通路を歩き、扉を開ける。ギギギと音が響いた。立て替えの時期だろうか。闘技場の定期点検は来週か。その報告書を待つことにしよう。レオンハルトは控えの間に入った。
――闘技場は全体が古い石造りだし、こうも土砂降りだと、セレスティーヌさんも肌寒いだろうな。
ガラスのない古い窓からは雨粒が小さく入り込んでいる。レオンハルトは長椅子の近くにある荷台に荷物を置き、簡素な造りの暖炉に火をつけた。ぱちぱちと火が弾ける音と、ストレッチをするレオンハルトの呼吸が重なる。
アリーナの様子も見たいが、不用意に足跡をつけてよいものだろうか。しかし雨で濡れている地面でニンジン歩法を試してみたい。そんな葛藤を抱えながらレオンハルトは肩をほぐす。
「あら、先を越されましたわね」
レオンハルトの肩が跳ねた。しまった。暖炉に火が点いていることが一目でわかるよう、扉を開けっぱなしにしていたのが裏目に出た。
雨着と荷物を脇に抱え、見慣れた白と青の礼装を纏ったセレスティーヌが扉の前に立っている。
「こんにちはっ、セレスティーヌさん」
少し声が裏返ってしまったか。レオンハルトは冷や汗をかく。
「ごきげんよう、レオンハルト様。暖炉、ありがとうございます」
「いえ、僕もついさっき到着したばかりです。タオルとブランケットも持ってきているので、よければ使ってください」
そう言いながらレオンハルトが荷物を漁ると「まあ」とセレスティーヌも荷台に荷物を置く。
「わたくしも二人分、持参していますの」
レオンハルトとセレスティーヌ、二人揃ってタオルとブランケットを差し出した。そして二人とも真面目な顔で押し黙る。
「……僕も二人分持ってきてまして」
「そのようですわね……」
こういう時、どのように遠慮すればよいのだろう。レオンハルトとセレスティーヌは首をかしげる。
「一人分ずつ交換いたしませんこと?」
「なるほど。お互いへの礼としてですね」
「はい。よろしくって?」
「もちろんです。ありがとうございます」
「こちらこそ、感謝いたしますわ」
レオンハルトが持参した一枚とセレスティーヌが持参した一枚、合計二枚のブランケットを、二人それぞれ膝に掛け、長椅子に並んで腰を下ろした。
「あの」
少し震える声で話を切り出したのはレオンハルトである。
「セレスティーヌさん。こないだ、パンを買ってきてくださってありがとうございました」
「ああ、ご令嬢方の行列の日の」
うっ、とレオンハルトは息が詰まりかけた。そのままブハッと吐き出したいところだったが、なんとか持ち堪える。
「……っはい。とてもおいしかったです。とても」
「よかったですわ。わたくしの好みで選んでしまいましたから、もしお嫌いなものがあったらどうしようかと買ったあとに心配になりましたの」
「嫌いな食べ物はないです。どのパンも好きでした」
あのパン、どれもセレスティーヌさんの好みだったのか。レオンハルトは壁に向かって言った。
「僕からパンのお礼をしたいのですが……」
「お気遣いには及びませんことよ。わたくしも同じパンを買っておいしくいただきましたし」
「同じパン」
「ええ。おいしかったですわ」
「……はい。おいしかったです。とっても」
またしてもレオンハルトは壁に言った。
「あの、セレスティーヌさんは」
「はい」
「……甘い……ものは……お好きですか……?」
「『食えるものは食えるときに好んで食え』、ひいおじいさまが追加した家訓の一つでしてよ」
「お嫌いではないんですね」
「大好きですわ」
よかった、とレオンハルトは安心した。
これで、ご令嬢行列ができた日にバルドーから投げつけられた紙の内容には従えそうだ。「それから」とレオンハルトがそろっとセレスティーヌへと顔を向ける。「どうなさいまして?」と暖炉からの暖かい光が灯った深い青色の瞳が呼応する。ご令嬢行列の日、見たかった色だ。
「……その」
レオンハルトは口元に緩く握った拳を当てる。
「……雨の日に物音を立てず歩くコツは、ニンジンではないんでしょうか?」
「まあ! さすがレオンハルト様ですわ。近頃雨は降っていませんでしたのに、よくお気付きになられましたわね」
やはり侮れませんわ、とセレスティーヌが歯がゆそうに暖炉を睨む。
「雨の日はジャガイモですの」
「ああ、ジャガイモですか……」
レオンハルトの視線が天井へ映る。
よりにもよってジャガイモか。しかし、なるほど、いくつも連なっているジャガイモを収穫し、それをまた土を崩さぬよう埋める。これができてこそ、雨の日に足音を消して歩くことが可能になるというわけか。理にかなっている。
「一気に難易度が高くなりましたね」
ふう、とレオンハルトが息を吐く。「ええ」と同意するセレスティーヌも、きっと身につけるまでに苦労したのだろう。その声色でわかる。
「わたくしも、おじいさまからマスターランクを授かるまでに十年かかりましたわ」
「……おじいさまが発明したんですか」
「いいえ、ニンジンもジャガイモも、編み出したのはひいおじいさまでしてよ」
「伝説の騎士団長のお父上ということですね」
レオンハルトは窓の向こうに広がる、雨で覆われた市街地を眺める。
「あの方は、ご自身のお母上が落としそびれた敵国の城を陥落させ、王国の国境をまた少し広げた偉大な騎士です」
セレスティーヌのひいひいおばあさま――高祖母は、かつて王子を救出する際に敵国の要塞を焼き討ちし、寄り道に城をいくつか落として王国の領土拡大に貢献した騎士である。
その息子であるセレスティーヌの曽祖父もまた騎士であり、自分の母が「山道で敵に見つかりさえしなければ落とせたのに」と嘆いていた敵国の城を見事に陥落せしめ、王宮の廷臣にふたたび王国の地図を書き換えさせたのだ。
レオンハルトにとっては、どちらも尊敬する先人である。
「そのひいおじいさまがローデンベルク流歩法の開祖ですの」
えっ、とレオンハルトがセレスティーヌの横顔を見る。
「そんな大事な技術を教えてくださったんですか……!?」
いけませんよ、とレオンハルトはぶんぶんと首を横に振った。しかしレオンハルトに向けられたセレスティーヌの目線は鋭い。
「この技術を修得したレオンハルト様を超えなければ、わたくしは真の意味でレオンハルト様に勝つことなどできませんわ」
「なるほど」
そういうことならば、とレオンハルトが頷く。
「僕も極めようと思います」
「受けて立ちますわ」
「ちなみに、現在のご師範は……?」
「それが……わたくしの兄ですの」
国内の獣を伸し、今は国外に獣を求めにいっているという兄か。騎士団長という立場上、師範から教えを乞うために国を離れるのは難しい。レオンハルトは項垂れた。
「ご帰国されたら、教えてくれませんか……?」
「もちろんですわ。遠く離れた海沿いの国で巨大なサメを溺れさせた、という便りが届いたのが昨日のことですので、いつになるかはわかりませんけれど……」
帰ってきたら必ず教えますわ、とセレスティーヌは笑った。
海沿い。王国に海はないため、レオンハルトも実物を見たのは片手で数えるくらいしかないが、とにかく深く広大だった。レオンハルトの生涯において剣で両断できないものの一つは間違いなく海である。
そしてサメというのは、海に住む生物でも鋭い歯と強い顎を持つ魚だと王立アカデミーで学んだことがある。
そうか、魚も獣か。レオンハルトは、湖や川で釣りをする時は気を抜かずに挑もう、と思った。
「レオンハルト様。わたくしからもお尋ねしたいことがあるのですけれど……」
「はい、何でしょうか」
雨粒が外壁を伝ってぽつぽつと落ちる音と、その奥でざあざあと群を成して降る雨の音。それから一番手前に、火が不規則に弾ける音が決闘場の控えの間に響く。
レオンハルトは何度まばたきをしただろうか。ゆっくりとした数度目のまばたきののち、セレスティーヌの横顔がようやく口を開けた。
「け、決闘は、まだ、申し込んでよろしいのでしょうか」
レオンハルトも暖炉を見た。決闘は。まだ。申し込んで、よろしいのでしょうか。セレスティーヌが、自分に。
「わ、わたくしは、他人様のお手柄を横取りする趣味はございませんのっ」
――あっ。
そういうことか、と納得できた途端、レオンハルトはセレスティーヌから顔を背ける。
「い、今のところっ、誰かの手柄になる予定はないです!」
そして壁に言ったのだった。
「……本当に、よろしいんですのね?」
セレスティーヌの声色がいつもと違い、なんだか弱々しい。レオンハルトが戸惑いつつも視線を向けると、表情をやや顰めたセレスティーヌの顔があった。
「は、はい」
レオンハルトはブランケットを握りしめた。「ただ」と付け足しながら。
「僕は騎士団長としても、一人の人間としても、簡単に負けるつもりはありません。僕自身がそれを許したくないからです。だから……」
レオンハルトは下唇を一度噛み締めた。
「僕は、もっと強くなりたいと思ってます」
セレスティーヌが息を飲む音がかすかに聞こえた。
彼女の瞳に映る火の揺らめきも綺麗だ。レオンハルトも喉を鳴らす。
「……それでもよければ、どうぞ決闘をお申し込みください」
するとセレスティーヌが目を大きく見開いたかと思うと、たちまちその頬を赤らめ、金髪を勢いよく振り乱しながら壁を向いた。セレスティーヌが今どのような表情なのか、レオンハルトからは見えない。
何かまずいことを言っただろうか。レオンハルトは焦りこそするが、簡単に負けるつもりがないのは本心である。強くなりたいと願っていることもだ。撤回する気もさらさらない。
「本当に、さすがですわ」
何がだ。
壁のほうを向きっぱなしのセレスティーヌに褒められたような気がするが、一体何を褒められたのだろう。レオンハルトが視線をぐるぐる泳がせていると、「じ、時間ですわ」とセレスティーヌがブランケットを畳みながら立ち上がる。「はい」とレオンハルトもそれに続いた。




