恋人というものは
レオンハルトは〝恋人〟という名の関係性が存在していることは承知している。王立アカデミー時代、そういう関係の契約を結んでいるらしきクラスメイト同士が複数いたからだ。
だが、恋人関係になるための交渉の場で行なうという〝告白〟に必要な言葉といえば「私の恋人になってください」しか思い浮かばない。それしか言われたことがないからだ。
なお、レオンハルトはこれまでに「なれません」と言って、数々の交渉を決裂させてきた。
レオンハルトは王立騎士団本部内の騎士団長執務室にて、デスクに両腕をだらりと投げている。セレスティーヌからもらったパンの名残である茶色の紙袋の上に顔を乗せながら。
バルドーはそんな騎士団長の姿を、年季入った紺色のソファの中央に座ったまま、「こいつマジか」とでも言いたげな目で見ている。
「バルドー。……こ、恋人っ……というものは」
〝恋人〟すらも言い慣れていない。
「……もし、僕が、セ、セ、セレスティーヌさんと、こ、恋人になれたらっ」
セレスティーヌの名前すら呼びづらくなった。
「……セ、セレスティーヌさんの身に危険は及ばないのか……?」
「は〜ぁああ?」
溜め息とともにバルドーの高い呆れ声が響く。「だから」とレオンハルトが言い直す。
「セレスティーヌさんの命が危ぶまれることはないんだろうな……!?」
「何日も連戦で決闘する関係性か何かだと思ってます?」
「違うのか?」
「全然違う」
「……じゃあどういう契約条件だ?」
バルドーが両手で顔を覆い隠した。そのままレオンハルトに問いかける。
「団長。デートって、知ってる?」
「お前がたまに出かけていくもの」
「そうだね……」
「それから、僕の兄さんが『ミルクレープの生地一枚ごとの厚さを測っただけなのに』と言いながら首をかしげて帰ってくるもの」
「アルベルトは何やってんだよ……俺がレディだったら泣いてるわ……」
「『生地の厚さは均等だったが、一層だけクリームの量が〇.九グラム多かった』って」
「より泣くわ」
レオンハルトの兄であり、王宮で書記官をしているアルベルトとバルドーは同い年である。王立アカデミーでも同級生で、レオンハルト含め、幼少期からの幼なじみだ。
「じゃあバルドー。お前はデートというお出かけで何をやっているんだ、いつも」
「言わせんなよそんなこと……」
「鍛錬」
「違ぇよ」
即答だった。
違うのか、とレオンハルトは項垂れる。パンの残り香がいい匂いだ。
「団長。一般的な話をしましょう」
バルドーがまた背もたれに両腕を委ねた。
「恋人になった二人はですね」
「二人は?」
レオンハルトは紙袋を強く抱き締める。
「デートをします。休日とか、仕事終わりとか、学生なら放課後とかに」
「それはわかる」
レオンハルトがこくりと頷く。ここまでは一般的な教養らしい。
「デートは……まあここでは、適当に街でお買い物する、という設定にしましょう」
武器屋か、防具屋、もしくは鍛冶屋か。なるほど、とレオンハルトが右手で顎を撫でる。
「まず待ち合わせをします。目印がわかりやすい場所で、あらかじめ時間を決めて」
騎士団本部前か。
「合流したら、手を繋いで歩きましょう」
握力比べか。興味はある。
「腹が減ったらどっかで食いましょう」
奇襲されても空腹状態では全力が出せないからか。一理ある。
「あとは買い物を楽しみましょう。『これ素敵だね』とか『ほしいな〜』とかレディが言ったら、それとなく買いましょう。買ってやるよ、という態度は厳禁です」
よくわからないが、とにかく武具を買えばいいのだな。
「帰り道も手を繋いで歩きましょう」
また握力を比べるのか。熱心だな。たしかに数時間経てば握力も変わるかもしれない。レオンハルトは感心する。
「解散する時、『今日はとても楽しかったよ』って言って、軽くキスでもしときましょう」
「待ってくれ。突然わからなくなった」
「なんで」
「キス」
「そうだよ」
「とは」
「接吻」
レオンハルトはデスクにドンと両肘をつき頭を抱えた。しばし沈黙していたが、ハッ、と顔を上げる。
「バルドー。手の甲にだな」
「相手は王族じゃねえんだよ」
またも頭を抱える。「唇同士のだよ」とバルドーが追い討ちをかけると、とうとう支えられなくなったのか、ゴッ、という鈍い音とともにレオンハルトの頭がデスクと衝突した。「イテッ」結局、油断してしまった。レオンハルトは背もたれにぐったりと上半身を預ける。「今のは見なかったことにしといてあげます」とバルドーの慰めがレオンハルトの耳に届いた。
「バルドー、お前は……」
「はい?」
レオンハルトは背もたれで頭をもたげ、天井をぼうっと眺めている。
「とんでもない高等技を身につけているんだな……」
バルドーの長い長い溜め息が聞こえた。
「ちなみにデートで買い物に行くの、武器屋でも防具屋でも鍛冶屋でもないですからね」
「嘘だろう!?」
ガタッ、とレオンハルトがデスクに前のめりになった。「やっぱそっちだと思ってたか」と言うバルドーの頬は引き攣っている。
「団長。手繋ぎも握力比べじゃないですよ」
「……じゃあなぜ繋ぐんだ……」
「繋ぎたいと思うんです。世の中の恋人たちは。相手と。手を」
「試合後の握手でもないのにか、バルドー」
「試合後の握手でもないし、国際交流での挨拶としての握手でもないです」
バルドーにとって、レオンハルトの顔がよほど怪訝そうに見えたのだろう。バルドーは眉と口元を歪ませながら「じゃあさ」と片手をスッと掲げてみせる。
「団長は、こないだの舞踏会でセレッちゃんと踊った時、エスコートしても何とも思わなかったわけ?」
レオンハルトは宙を睨んだ。先日の舞踏会。レオンハルトがセレスティーヌと初めてダンスした夜のことである。
「なんでそこはちゃんと顔赤くするわけ!?」
バルドーの声はもはや悲鳴とも受け取れた。
「……昨日、団長から頼まれた通り、この伝説の騎士団長の自慢の武具と技法書のお礼を一応考えてはいたんですけど。セレッちゃんが喜びそうなお礼を」
目を擦りながらバルドーは何度目かの溜め息をこぼす。
「ちょっと内容を変更しますね」
疲れきった表情のまま、バルドーは懐から小さな手帳とペンを取り出し、そこに何やらサラサラと書き始めた。「なんだ?」と熱の引いた顔でレオンハルトが待つ。べりっと紙を一枚破ったバルドーはそれを二回ほど折りたたんだあと、レオンハルトの眉間を目掛けて投げ飛ばした。皮膚に接触する前にレオンハルトの右手がそれを掴む。
「それでいいと思います、とりあえずは」
メモを広げているレオンハルトを放置し、バルドーはソファから「よっこらせ」と大げさに立ち上がる。業務に戻るらしい。
「あり……がとう……?」
バルドーから渡されたメモを読んだレオンハルトは、バルドーが考えたのだから間違いはないだろう、と思いつつ、本当にこれが返礼として相応しいのか半信半疑になりながらもバルドーの背中に礼を言ったのだった。
予定していた業務を終え、滞ってしまった分は残業で済ませた。遅めの晩食も終えた。
ようやくだ。
レオンハルトはセレスティーヌから預かった、伝説の騎士団長自慢のクロスボウと盾、技法書を丁重に抱え、いそいそと王立騎士団本部の宿舎へと持ち運ぶ。
ニンジン歩法はまだ改善の余地があるな。重量のある荷物を抱えたまま宿舎の床を歩くと、耳の奥に小さくカシャンと音が響く。明日の朝練では走りながら試してみるか。レオンハルトは騎士団長専用の寝室に入った。
この部屋で、伝説の騎士団長――ジークフリート・ローデンベルクも長年過ごした。その事実だけでレオンハルトは毎晩ぐっすり眠ることができている。先代から受け継いだ時は、あまりの散らかりように唖然としたが、今では家具も小物もきっちり整理整頓されている。
クロスボウはどこに置くべきか。デスクでいいのだろうか。
レオンハルトは恐る恐る、執務室のものより少し幅と奥行きのあるデスクに置いた。いつもはこのデスクで個人的に資料を広げているが、クロスボウを預かっているあいだは床に広げることにしよう。
盾はどこだ。二人掛けのソファか。
レオンハルトは紺色のソファの上へそっと盾を置く。これでは不十分か。盾がぐらつかないよう、ソファから落ちないよう、紺色のクッションを控えめに押し当てた。
よし。技法書はベッド横のサイドテーブルに、きっちりまっすぐに置くことにした。これでいい。
――いや、やはりよくない。
いくら施錠できる部屋とはいえ、これから着替えて湯浴みに行くのだ。その隙にこれらが盗まれることなどあってはならない。
レオンハルトは床の板をおもむろに剥がし、頑丈かつ重い金属製の床下金庫にクロスボウと盾、技法書を収納した。金庫の扉だけでも二十キログラムはある。レオンハルトはその扉を無音で閉じ、鍵をかけ、床板をまた無音で戻した。よし。これでいくらか安全だろう。
伝説の騎士団長はここに何を収納していたのだろうか。そんなことを考えながら、レオンハルトは就寝前の身支度をすべて済ませることにした。
就寝前にすべきことをすべて終え、レオンハルトは寝室のベッドの上であぐらをかいて技法書を開く。クロスボウを見ながら技法書を読むのは後日することにした。明日も早いからだ。
――あの方の字だ。
レオンハルトは口元を押さえて感激する。『これは我がクロスボウのための書である』、王立騎士団に保存されている書類を片っ端から読み漁ったレオンハルトにはわかる。この時折さも仰々しく払う字は間違いなく、ジークフリート・ローデンベルクの筆跡だ。
レオンハルトは一旦、本を閉じる。
本物である。いや、セレスティーヌが持ってきてくれたのだから疑っていたわけではないが、レオンハルトが感じている〝本物〟とは偽証だとか詐欺だとかそういった疑いが晴れた気分ではない。本物を、本物だと実感できたことへの感動である。レオンハルトは慎重に本を開いた。ああ、やはり本物だ。また閉じた。大きく深呼吸し、レオンハルトは腹を決めて読み進めることにした。
しばらく閉じたりまた開いたりを繰り返しながらジークフリート直筆のクロスボウの技法書を読んでいたレオンハルトだが、とある章に至った頃、その薄い水色の瞳からぽつりと一粒の涙がこぼれた。
――よかった。セレスティーヌとの猪狩りの日、軍用犬について直接話さなくて。
レオンハルトは技法書のページが自分の涙で濡れないよう持ち上げる。そのまま右腕で乱雑に自分の目元を拭った。
まだまだ知らないことだらけである。レオンハルトは己の知識不足を恥じた。そして同時に、こうも思った。
――セレスティーヌさんと一緒に読みたい。
クロスボウも盾も、二人でじっくり見たい。レオンハルトは耳まで熱を帯びていくのを感じながら、今晩はひとまず、ふたたび技法書を床下金庫に収納することにした。




