猪狩り前
「――このあたりの畑では、日中でも猪が出没するらしくて」
舞踏会から二日後の夜、王立騎士団本部の騎士団長執務室にて、退勤前のレオンハルトは王都郊外での出没報告が相次いでいる猪についての事前報告を受けていた。
レオンハルトは年季の入った紺色のソファの中央に腰掛けている。バルドーは窓辺に立って、口頭で説明している――例の、レオンハルト特製十対一の戦術資料を読み込ませた、眼鏡をかけた赤毛の騎士ジャンや、ジャンと一緒に調査に当たったチームの騎士たちの様子を見ている。
「ここは市街地や農園地帯から一番離れている区域なので、猪も安心して狙いやすいんだと思います」
ジャンはレオンハルトの向かいで両膝をつき、緊張気味にローテーブルの上に広げた地図を指さしている。
三人掛けのソファ一脚だと足りないか。レオンハルトは膝をついているジャンをちらりと見つつ、また地図へと視線を戻した。
「農園の上の青線が、出没する時間帯が変わる目印なんだな?」
「はい、団長。あ、いや、えっと、明確に変わるわけではないんですが……これまでの報告例と、ここ数日間の現地調査で、先輩方と話し合って『だいたいここで区切ることができるだろう』って結論づけました」
ですよねっ、と不安げな面持ちでジャンが他の騎士を見上げる。レオンハルトも同様に、起立しているチームの面々を見た。その全員がこくりと頷いたことでジャンは安心したのか、胸を撫で下ろした。そして報告を続ける。
「作物の食べかすとか、足跡とか、糞とか、赤でバツ印つけた部分は罠なんですけど、それに掛かった痕跡とか……あ、掛かったとこは星にしてます! それと、チームで目視で確認したり、軍用犬で追跡が得意な子に手伝ってもらったり……あと、この周辺の地理に詳しい先輩のご助言を照らし合わせて、住処は郊外にある森林の……ここ、赤線で囲った部分。ここに巣がある可能性が高くて……」
「ジャン。いくつか囲まれている部分にそれぞれ数字が振ってあるが?」
「あっ、はいっ! 一と書いた部分が住処の最有力候補で、可能性が高い順に、二、三、と続きます」
三つの地点まで絞れたのなら十分か。レオンハルトはジャンの説明に納得した。本当はすべての候補を知りたいが、そんなことを知りたがるのは自分くらいだろう。――だがやはり知りたい。「念のため」とレオンハルトが願いでる。
「候補から外した地域と、外した理由もあとで報告してくれ」
「あ、団長、それでしたら……」
ジャンはポケットからごそごそと紙切れを取り出す。
「その場で書いたので全体的に雑ですけど……簡単な地図と、候補外についてまとめたメモです」
おお、とレオンハルトが感心する。
「ジャン、この場で写してもいいか?」
「はいっ。も、もちろんですっ」
レオンハルトがジャンのメモを受け取ろうとしたところ、横からひょいっと奪われた。バルドーだ。
「俺がかわりに写しておきます。団長はそのまま報告の続きを」
本当は自分で書き写したのだが。じっとバルドーの手中の紙をレオンハルトが見ていたところ「原本と写し、両方ご確認していただきますので」とバルドーから言外に「はやく仕事しろ」とせっつかれた。本棚の壁を使ってペンを走らせ始めたバルドーの姿に、「わかった、頼む」と投げ、レオンハルトは自分で書き写すことを断念した。
「ジャン、紐と鈴」
チームの一人がそう声をかけた。「あ!」とジャンはずれた眼鏡の位置を正す。
「そうでしたっ。団長、この緑の線を引いているのは、鈴を括りつけた紐を張っている場所です」
「長さは正確か?」
「数ミリの誤差はあるかもしれません……ただ、最終的にバルドー副団長から確認してもらって、合格はいただけました。……あと、農家の方にもご協力してもらってしまいました。すみません」
するとバルドーが手を止めて口を挟む。
「張りなおすのに何時間もかかってたので、農家の方々に不憫がられました」
そしてまたペンを動かし始めたのだった。
「まあ、そこは僕から頭を下げておく。お前たちは気にするな」
レオンハルトが笑いながら頷く。
「ジャン。鈴はどのくらいの間隔で括りつけたんだ?」
「九十センチ間隔です。本当はもっと間隔を詰めたかったんですが……農作業の邪魔にもなっちゃうので……」
「現地の方に了承してもらうのが一番だ。そこは確認してもらったか?」
「はい! 緑の線が一部途切れているのは、農作業のための出入口で――」
ジャンたちの詳細な報告を、レオンハルトは楽しそうに聞いていた。
「――あの、団長」
「なんだ? ジャン」
報告が終わり、レオンハルトが資料を整理していると、ジャンが眼鏡の位置を直しながら尋ねてきた。
「本当に団長自ら狩りに行くんですか……? セレスティーヌさんと」
「ああ。セレスティーヌさんの安全は守る。やはり心配か?」
い、いえっ、とジャンが言葉を詰まらせる。だがその表情は暗い。
「ジャン。言いたいことがあるならちゃんと言え」
やや厳しい口調でジャンに促しながら、バルドーが書き写し終えた紙と原本のメモをレオンハルトだけに見えるよう手渡した。複写とメモを見比べているレオンハルトに、ジャンは恐る恐る言う。
「……不安で……っ」
「不安?」
レオンハルトが二枚の紙からジャンへと視線を移す。
「今回の任務……ぼ、ぼくが……チームの意見をまとめる係で……っ」
「おお。皆に頼まれたのか。すごいじゃないか」
「頼まれたというか……皆さんのご指示で……っ」
レオンハルトは立ったままのチームの騎士、そしてバルドーをぐるりと見回す。全員、素知らぬ顔だ。レオンハルトは苦笑し、目を固く瞑っているジャンに同情した。
「まとめ役は嫌だったか?」
「い、いえっ。嫌とかじゃなくって……ただ、本当にこれでいいのかなって不安がいっぱいで……っ」
「ジャンは王立騎士団二年目だったな」
「は、はい」
二年目か。
レオンハルトは騎士になって二年目の頃の自分の記憶を辿る。隣国の非国営集団が国境を越えて紛争を仕掛けてきていたな。レオンハルトも戦線に駆り出され、相手の武器や食糧を押収、それから兵士を捕縛し、王室が隣国の政府と交渉する時間を稼いでいた。
当時は隊長という地位で、今と同じく部下を率いる身ではあったものの、最終的な指揮権は先代騎士団長だった。
不安だったな。「現地でのあらゆる判断はお前に一任する。とにかく双方の死者を出さずに時間を稼げ。食糧だけは絶対に補給する」とかいう、先代からの雑な命令が。
その時のレオンハルトは、今すぐ逃げ出したいという気持ちに押し潰されそうになりながらも「全責任は俺が取る」と言い切った先代騎士団長の自分への信頼を信じることにした。
――ここで自分が逃げる選択をしたら、困る人がいる。それに、先代だって、命令するのは誰でもよかったわけでもないだろう。他にも優秀な騎士はいくらでもいたからだ。その中でわざわざ自分を指名したということは、少なくとも、先代なりの「お前ならやれる」という無言の信用だったのではないか。先代の本心はわからなかったが、当時のレオンハルトはそう思った。
ならば、やれるかではなく、やるのだ。
レオンハルトは自分を鼓舞した。そして隊長としての自分を信じてついてきてくれる部下のためにも、思いつく限りの最善を選び抜くと誓い、意見を述べ、意見をもらい、どうにか命令を遂行したのだった。
「不安になるのは自然なことだと思う」
レオンハルトはジャンを見ながらそう言った。
「判断し終わったあと、自分の決めたことが最善だったのか、もっと他に適切な手段はなかったか、不安になるのは何もおかしいことではない」
「う……はい。今団長が仰ったこと、バルドー副団長も仰ってました」
「そうか。バルドーからは他に何か聞いたか?」
「えっと……『そう思うんならもっと勉強しろ』って言われました」
バルドーらしいな、とレオンハルトは思った。「あ〜クソ、こんなことならもっと勉強しとけばよかった」とボヤいていた、あの時のバルドーらしい言葉だ。
「なら僕からは違うことを言おう。判断した以上、ジャンは現場の人間をきちんと信じてくれ」
え、とジャンが眉をぐにゃぐにゃに曲げたままレオンハルトを見上げる。
「仮に失敗したとしても、ジャン一人だけに全責任がのしかかるわけではない。失敗の原因は現地で動いた人間の判断ミスかもしれないし、天候も情勢も、いつだって不測の事態に陥ることはある」
「はい……」
力なく頷くジャンの姿に、例の、先代から雑な命令を受けた当時の自分が重なる。
「だが、ジャンがまとめた意見と作戦の通りに動く人間も無能なわけではない」
レオンハルトのまぶたの裏には、先代から雑な命令を受けた自分が、バルドーとともに作戦を練り、さらにそれを部下に伝え――国境の紛争地帯で試行錯誤しながら任務に当たっていた当時の光景が浮かぶ。
部下から作戦の改善案が出たこともあった。試す価値があるか皆で話し合い、わずかでも希望があればすぐに実践した。もちろん失敗もあったが、それなら挽回して精度を上げればいいだけのこと。そのために毎朝毎夜、皆で意見を交わし続けた。何ができるか、何ができないか、何ならできそうか、何ならできなさそうか、それはなぜなのか。そんなことばかり話していた気がする。
レオンハルトはあらためてジャンを見た。
「だからジャン、お前はこれから、仲間の力量を見定め、疑いつつ、信じることも覚えてもいいかもな。すぐには難しいかもしれないが」
「で、ですが団長。疑うと信じるって、真逆では……?」
「不測の事態に陥った時、この人の力量が困らないかを疑う。この人の力量なら大丈夫だと信じて任せられるくらいの作戦を練る。これは両立できると僕は思う」
これは受け売りと僕の個人的な意見だが、とレオンハルトは続ける。
「先代が仰っていたんだ。『任務を完璧に遂行するなんてことは、今も昔も、騎士の誰一人として成し遂げられたことはない』と」
レオンハルトが先代騎士団長と一緒に、歴代騎士団長の肖像画が並ぶ通路を歩いていた時のことだった。「こいつも」「こいつも」「こいつもできなかったに違いない」と先代は肖像画の先人を雑に指さしながら言っていたな、とレオンハルトは思い出す。
「その先代の言葉を僕なりに考えてみたんだが……誰だって、あとから振り返れば、他に最善だったかもしれない方法を見つけられてしまう。だから『完璧に遂行できた任務なんてない』という意味なんじゃないかと思う」
「……なるほど……」
「完璧に遂行できないからと早々に諦めて、普段から鍛錬を怠るのはもってのほかだけどな。これも含めて僕の考えだ」
ジャンの眉がまっすぐになっていく。
「ジャンも皆も、全員、いつ騎士団長に任命されてもいいように準備しておけよ。お前たちが断ろうとしても僕は命令するからな」
そう言い、レオンハルトはジャンの手書きのメモを返す。「えええ」と声を震わせつつ、ジャンはそれを受け取るのだった。
「――しかしお前の複製技術はさすがだなぁ、バルドー」
ジャン含む害獣駆除チームを退室させたあと、レオンハルトはデスクに戻り、自分のかわりにソファにどっかり座ったバルドーに言った。
「ジャンの筆跡や手癖と比べて、すぐには見分けがつかなかったぞ」
「でも少し比べれば見分けついたんですね?」
「バルドーの微妙な手癖も知ってるからな。何も知らない人間だったらバレないと思う」
「はあ。腕、鈍ったかぁ。練習すっか」
バルドーは片手でペンをくるくる回している。
「僕も鍛えたかったな。その場の殴り書きのサンプルなんてそうそう手に入らないから」
「他のやつらがいるとこで隠密技術を鍛えようとしないでくださいマジで」
「そうだな。一人で鍛えることにする。これ、練習に使わせてもらうぞ」
レオンハルトはバルドーが書き写したメモをまじまじと眺めている。他人の筆跡を真似して複製するのは、この二人の幼い頃から続いている暇潰しの一つだ。
「明日セレッちゃんと待ち合わせでしたよね?」
バルドーがペンを懐に戻しながら言った。
「ああ。申し訳ないが夜明け前に来ていただくことにした」
「まあ猪狩りですしね……」
「すまないが留守は頼む、バルドー」
「あーい」
飯食お、と立ち上がったバルドーを「それと」とレオンハルトが引き止める。
「ジャンに一度、軍用犬の世話をさせてもいいかもしれないな」
「あー、それね。いいですけど、一応そう思った理由も聞いときましょか」
バルドーは立ったままぽりぽりと首の後ろを掻く。
「さっきジャンが『軍用犬で追跡が得意な子』と発言していた。たぶん犬好きだ。一頭ごとの性格も特徴も把握してくれると思った」
「俺が思ったのとおんなじ理由だわぁ……まあ、猪狩りが落ち着いたら世話させてみます。じゃ、俺はこれで失礼します」
「ああ。お疲れ」
「……初デートの猪狩り、がんばってね団長!」
デっ、とレオンハルトが立ち上がるよりも素早くバルドーは立ち去っていった。
これはデートではなく猪狩りである。
翌日、まだ日付が変わって三時間しか経っていない王立騎士団宿舎の騎士団長室で、レオンハルトは目を覚ました直後にそう思った。
――なんだデートって。
バルドーが貴重な休日にもかかわらず女性と約束をして「何プレゼントしよっかな〜」と楽しそうに出かけていくあれか。レオンハルトの兄アルベルトが、半年に一度あるかないかの頻度で「ミルクレープの生地一枚ごとの厚さを測っただけなのに」と怪訝そうに首をかしげながら帰ってくるあれか。
なんだデートって。
反応が極端な二人の身近な男の顔を思い浮かべながら、レオンハルトは訓練用の衣服に着替え、王立騎士団本部の外周をぐるりと走ることにした。
昨夜――厳密に言えば今も夜なのだろうが――は軍用犬とともに騎士を数人、猪による被害が多い地点に待機させておいた。戦闘はせず、追い払うだけの命令だ。被害がなければいいのだが。
そういえば一昨日は、例の牛革専門の革靴オタクがレオンハルトを訪ねてきた。自慢のコレクションだと言って数足の革靴を見せてもらったが、たしかに熱中する人は熱中するだろうと思った。「これは五歳の牛」「これは生後半年の牛」と説明を受けつつ皮を見比べたが、たしかにキメの細やかさや質がまったく違った。
牡と牝でもまた微妙に革の差が出るらしい。
詳しく学べば王立騎士団で支給する装備品も改良できるのではないか、とレオンハルトは興味深くあれこれ質問してしまったが、牛革靴オタクは嬉しそうに丁寧に答えてくれた。
本当は今日、盗みたくなったんです、と正直に伝えてくれた牛革靴オタクはレオンハルトの反応に満足したのか、「あと半年働けば新しいのが買えそうです」と笑顔で帰って行った。半年待たなくていいから、また教えに来てくれ、とレオンハルトもまた素直に返したのだった。
しかしながら盗難事件犯人の再犯防止案、また更生については、王宮からの返事は「不受理」とのことだった。また案を練ってみよう。
――あ、しまった。昨日中に騎士団長の執務室にソファを追加する予算申請についての書類を作りたかったのに。バルドーが「初デート」とか言うから――いやいや、自分のミスでバルドーを責めるのはお門違いである。
――ああ、しまった。せっかくランニングがてらデートとかいう謎の現象について忘れるため、こうして本部外周を一周してきたというのに。
レオンハルトは王立騎士団本部の入り口で項垂れた。
また一周する時間はない。なぜなら王宮に提出するソファ追加の予算申請書をこれから作成するからだ。
それが終われば初デ――もとい、猪狩りである。セレスティーヌとの。




