舞踏会当日
レオンハルトが貴族主催のパーティーに出席する日はいつも宿舎から公爵邸に一度帰還することにしている。
王立騎士団本部宿舎の騎士団長専用室にパーティー用の衣服や身支度の道具があるのは、どうにも落ち着かないからだ。王室主催のパーティーなら、騎士団長として国王陛下や王妃殿下、ならびに主要な王族の護衛として参加できるのだが。
今日は、とある侯爵家のタウンハウスで舞踏会が開催される日だ。あのタウンハウスは王都でも指折りの面積だ。庭園だけで騎士団本部の稽古場の何倍もあって羨ましい。
予定していた業務が終わり、レオンハルトは実家に戻った。
ドレスコード、自分だけ騎士の通常装束オンリーだったらいいのに。騎士団長の礼装も好きではあるし、敬意を払って身に纏うが、いつもの装束と比べると動きやすさはやはり劣る。
レオンハルトは自室で身支度を済ませ、最後にドレスソードを持つ。これはさすがに、伝説の騎士団長の愛剣を叩くと折れそうな細さだな。そんなことを想像しつつ、細身剣を腰に差した。
自室から廊下を抜け、エントランスホールの階段を降りていると、ちょうど帰宅した兄――レオンハルトと同じ白銀の髪、レオンハルトより少し緑がかった碧眼に眼鏡をかけた、アルベルト・グランツシュタインと顔を合わせた。
「おかえり、兄さん。今日は帰って来られたんだね」
「ああ、ただいま。お前こそ」
兄弟といっても、弟は王立騎士団を統べる騎士団長、兄は王宮務めの書記官ともなれば、こうして実家で会う機会も自ずと減るものである。
「行くのか? 今日の」
レオンハルトよりも背丈のあるアルベルトは、弟の礼装を珍しがった。
「うん。バルドーがミドルランクの腕前を見せてくれるって」
レオンハルトがそう答えるなり一拍置き、アルベルトの眉間がぐっと寄った。
「レオンハルト。前々からバルドーを頼りにしろとは言っているが、妙ちくりんなことを教われとは私は一言も言っていないからな」
「だけど僕はまだビギナーなんだ」
レオンハルトがかつてセレスティーヌに一対十で負けた騎士たちに聴取を始めた時のように、アルベルトは細長い息を吐きながら天井を仰いだ。そしてその眼鏡が、シャンデリアにわずかに埃が溜まっているのを映した。
バルドーと同い年で幼馴染のアルベルトは、あの軽薄の面を被った真面目かつひょうきんな男が王立アカデミー入学前からどのような人間だったかを嫌というほど知っている。
だけど僕はまだビギナー――おそらく弟はバルドーに何かしら焚き付けられたに違いない。レオンハルト自身は無自覚のようだが。
埃のことは一旦忘れることにしたらしい。アルベルトはフロアに降り、歩み寄ってきた弟に向き直る。
「兄さん。僕、香水臭くない?」
「いや、気にならない。数ヶ月前、お前が最後に参加した夜会と比べると、成人男性の革靴一足分ほど近付かなければわからない程度には少し香りが弱い」
「汗臭くない?」
「まったく。数ヶ月前の夜会と同じくらい、汗は無臭と言える範囲だ」
「じゃあよかった。行ってきます」
「ああ。まあ……気を付けて」
敬愛する兄に見送られ、レオンハルトは馬車に乗り込んだ。社交界が許してくれるのであればランニングで向かいたい。馬車に揺られ、移りゆく景色を眺めながら、レオンハルトはそんなことを思っていた。
「――レオンハルト様だわ!」
タウンハウスのエントランスを潜るなり、淑女たちの声が聞こえた。待て。まだバルドーからビギナーの技すら教わっていない。豪勢なシャンデリアの下で主催者に挨拶を済ませた頃にはもう、レオンハルトの心には暗雲が立ち込めていた。
「レオンハルト様、私と一曲踊りませんこと?」
黄色のドレスに身を包んだ淑女は伯爵家の出身だったな。昔から真っ先に声をかけてくる方だ。無碍にはできまい。
両方の口角は一センチほど緩やかに上げる。決して眉間に力は込めないこと。目をカッと見開くなど言語道断。まばたきするならゆっくりと。レオンハルトは両親から教わった通りに笑みを浮かべることにした。そして声量は騎士を指導する時よりも七割抑えるべし。
「はい。僕でよろしければ」
「レオンハルト様。次は私とも踊ってくださいまし」
次の矢だと。緊張しつつも鍛え上げられたレオンハルトの表情筋は崩れない。緑のドレスの淑女は男爵家のご令嬢で、そうだ、一人目のご令嬢とよく一緒にいることが多い。
「その次は私と――」
バルドー、さすがに出てきてくれ、お前はもう来てるんだろう。到着早々、こんなに矢の的になるとは――いや、いつもか。そうだ。これまで自分は、社交界で飛んできた矢はそっと掴んでそっと地に置いてきた。レオンハルトは記憶を頼りに淑女たちの猛攻を受けることにした。
「――今夜、あなたのような美しい花に手を添えられて光栄です」
胃がムカムカしてきた。バルドーの声だ。
黄色のドレスの伯爵家令嬢とダンスをしていると、背後から副官――いや、マスターランクの声が聞こえてきたのだ。
「まあ、バルドー様ったら。いつもお上手ですこと」
「おや、あなたに釘付けなのは私だけではありませんよ。……ほら、私の上官なんか、他のレディと踊っているというのにあなたを気にかけている」
お前のことだ、こっちがそれとなしに見てるのは。しかし、「まあ!」と喜ぶバルドーのパートナーを落胆させるのもまずいか。レオンハルトは決して崩壊しない笑顔をちらりとそちらに向け、また自分のパートナーへと視線を戻す。
「上官より先にあなたとご一緒できたことが、今年一番の私の手柄です」
嘘をつけ。先月、巨大な熊を討伐した時にも全く同じセリフを聞いたぞ。「嬉しい……」嬉しいのか。レオンハルトはバルドーのパートナーの反応に驚愕する。
「レオンハルト様? 先ほどから上の空ですのね」
しまった。今掴んでいる矢から思考が逸れていた。
「申し訳ございません。舞踏会は久しぶりですので、緊張していました」
嘘ではない。
「まあ、レオンハルト様でもご緊張なさるんですね」
緊張か。緊張、緊張。
「もちろん、僕だって緊張くらいすることもありますよ。特に最近は緊張してばかりです」
バルドーの真似をしてビギナーなりにセレスティーヌへ頼んだ時は、かなり緊張していたと自分でも思う。レオンハルトは苦笑した。
「……舞踏会以外にも社交の場に?」
ご令嬢から質問を受けた。「いえ」とレオンハルトは小さく首を横に振る。
「騎士団の業務と、実戦の時の話です」
「レオンハルト様は相変わらずですのね……」
あ、しまった、どうしよう、これは相手の目が虚ろになる兆候だ。話題話題。話題を変えるのだ。レオンハルトはスムーズにリードしながら、脳内を必死に掻き回す。
相手は伯爵家のご令嬢。いつも真っ先に声をかけてくる。黄色のドレス。使えそうな駒はどれだ。
「そ……そうだ。本日のドレス、とても綺麗な色ですね」
「……レ、レオンハルト様にお褒めいただけるなんて……!」
そんなに驚かれることだろうか。いや、たしかに、淑女のドレスに言及したのは初めてかもしれない。
「レオンハルト様は黄色がお好きなのですか?」
「えっ」
いや青が好きだ。国の象徴だから。
しかしおそらくこれを正直に言うのはビギナーとして失格だろう。おそらく言ってはならない事項だと思う。レオンハルトはとりあえず話を合わせることにした。
「ええと……素敵だと……思います。青とか金とか、並んでいると」
「青と金……次お会いする時はその色を着てきます、レオンハルト様」
着てこられても。
いや、青なら褒めることができるか。困った時は「ふふふ」と小さく微笑みなさい。レオンハルトは両親の教えに則った。
ダメだ、僕がマスターランクになれる未来が想像できない。
三人のご令嬢とのダンスを終え、レオンハルトは一人バルコニーに出て姿を隠していた。そこへ革靴の足音が近付いてきたが、レオンハルトは気にもしない。むしろ早く来い、とすら思っていたからだ。
「四点」
バルコニーの壁にぴたりとくっついて気配を消していたレオンハルトに、赤茶色の髪をぴっちりとセットし、濃紺のタキシードで粧し込んだバルドーがニヤニヤと点数を告げてきたのだった。
「何点満点中?」
ゆったりと壁に背を預けたバルドーにレオンハルトが尋ねた。
「百点満点中」
「……ランクアップのために必要な点数だけ教えてくれ」
「八十点は見せていただきませんと」
やはりマスターランクは程遠い。この夜空の星が各一点だとするなら、マスターランクは夜空の支配者と称しても過言ではないのではないか。
「でも団長、褒めることできたじゃないですか、ドレス」
「ドレスは……まだ足取りがおぼつかない、生まれたての猪だ」
「つまり取っ付きやすいと」
「そういうことだ」
「じゃあ三点」
「減点もされるんだな……」
さすがに糖分がほしい。甘いものでも摘んでくるか。レオンハルトがぼんやりと考えていると、その様子を見かねたのか、バルドーがアドバイスをする。
「団長。『お綺麗ですね』」
「それは……お顔か? ドレスか?」
「髪型も」
「選択肢を増やさないでくれ」
「『あなたと踊ることができて光栄です』」
「それなら言えそうだ」
「向こうから理由も聞かれますけどね」
レオンハルトが無言で隣のバルドーを見上げた。「返答は?」と水色の瞳が言っている。
「初めての相手なら『以前から踊りたいと思っていました』。踊ったことあるんなら『以前のダンスが楽しかったから』」
「それなら言えるかもしれない……」
「言い淀まずに言えたら五十点差し上げます」
大幅加点じゃないか。レオンハルトが壁から身を離す。「ガンバレ〜」というバルドーの上っ面だけの声援を受け、レオンハルトはホールに戻った。
やはりホールに戻ると矢の集中攻撃を受けた。
しかしレオンハルトの顔つきは先ほどとは違う。せっかくバルドーが教えてくれたのだ、実践してみよう。レオンハルトはにこやかにご令嬢たちへ応対した。
再戦の一人目は、淡い水色のドレスのご令嬢である。褒めやすい色だ。「素敵な色ですね」とレオンハルトの口が発声する前に、「あ」と予期せぬ声が出た。
「――それで、わたくし、猪狩りにご一緒したかったんですの」
セレスティーヌさんだ。ホールの壁沿いのソファに――ご友人だろうか、たしか辺境伯家のご令嬢だ――一人の淑女と腰掛けている。レオンハルトの視線がついそちらに向く。セレスティーヌのドレスはその瞳と似た、深い青一色だ。あの色、綺麗だな。国を象徴するにふさわしい色だ。
というか、まだ諦めてなかったのか、猪狩り。
「セレスティーヌ。あなた、近ごろ騎士団に出入りしてるって噂が広まっているわよ?」
辺境伯のご令嬢が言った。「噂ではなく事実ですわ」とセレスティーヌはあっけらかんと答えた。
「でもどうしてセレスティーヌが猪狩りに?」
「血が騒ぎましたもの」
「セレスティーヌの祖先、獣なの?」
本当に言われてる。先日、バルドーの冗談に「よく言われますもの」と返していたが、まさか本当だったとは。レオンハルトは思わず鍛え上げた笑顔が崩れそうになった。必死で持ちこたえた。
「わたくしも疑問に思って家系図を遡りましたけれど、獣らしき名前は見当たりませんでしたわ。特例の養子として二頭はいましたけれど……」
「特例……どういうことか知りたくもないけれど、じゃあきっと、セレスティーヌと血縁の獣は歴史から抹消されているのよ」
「……その発想はありませんでしたわ……!」
なんだあの会話。レオンハルトはダンスから抜け出して細かく聞き出したい。いや、ダメだ、今は点数を稼がねば。
「すみません、ぼうっとしてしまいました」
レオンハルトは目の前のパートナーへ微笑んだ。
なぜ微笑んだだけで照れられるのだ。レオンハルトは女性の思惑がちっともわからない。
「ええと……そちらのドレス、綺麗ですね」
言えた。これで加点だ。レオンハルトの笑顔が逞しくなる。
「今日、レオンハルト様がお越しになると聞いて、レオンハルト様の瞳と似た色のドレスを選びました!」
女性はそんな理由で自分が着るドレスを選ぶのか!?
後頭部をゴツンと盾で殴られた気分だった。よかった、バルドーに後頭部を強めに殴るよう頼んで、咄嗟に衝撃を和らげる訓練をしておいて。
「次からは、どうぞあなたのお好きな色のドレスをお召しになってください。僕のことはお気になさらずに」
このレオンハルトのにこやかな返しを聞いていたバルドーが大幅減点したことを、レオンハルトはまだ知らない。




