夏
町娘誘拐事件
駿府城の西側に番町という場所が有る。
その辺りでは一番の大店、乾物を扱う駿州屋があった。
その駿州屋の主人は吉兵衛と言い、その娘に小春という名の姉と夏という名の妹が居た。姉の小春は婚礼が整い、この秋に輿入れたばかりだった。
相手は城勤めをしている侍の次男坊で、その家の若党をしている。名前は結城辰之介と言った。
その駿州屋の夏がかどわかされたと奉行所に連絡が入ったのは、その年の九月だった。
夏の厳しい日差しは無くなったものの、まだ暑さは残っている。
知らせは、番町の番屋をとおして奉行所へもたらされた。
その日、たまたま非番だった同心山岸と、当番だった同僚の若い宗像伝兵衛は、蒲生新之助の指示で駿州屋へと向かった。
蒲生は非番の山岸を、わざわざ呼び出している。
蒲生新之助の体の中へ入り込んだ長沢祐一が、この時代に飛ばされてから、もう既に一年を過ぎていた。
段々と祐一は、江戸時代の生活にも慣れて来ている。
事件が起きた時の対処の仕方も、自然と身に付いて来た。
駿州屋に出向いた山岸と宗像は、夏がさらわれた時の様子を聞き出していた。
駿州屋吉兵衛が答える。
「夏が居なくなったのは、今日の夕方七つ頃(午後四時)で、姉の嫁ぎ先である結城様のお屋敷に招かれての帰り道でした。
籠を頼み、共の者と女中を一人ずつ付けていましたが、何物かにその二人が切られて夏だけが居なくなったのです。駕籠かきは無事でしたが、賊についての話は何のあてにもなりませんでした。
駕籠かきが知らせて来て直ぐに、何処かの子供が文を持って店に来たのです。その文によると、夏を返して欲しければ三百両を用意せよと有り、金の受け渡しは追って連絡する、と書かれていました。」
宗像が聞いた。
「その駕籠かきは、夏をさらった者の顔を見ているのだな。」
「それが、男四人で襲われたと言っていますが、やくざ者の風体だという事以外、良く分かっていないようです。」
山岸が問う。
「その文には、奉行所には連絡するなとは書かれていなかったのか?」
「いいえ、奉行所には連絡するな、と有りましたが、半年ほど前に常磐屋さんの事件で、与力の蒲生様と同心の山岸様が、見事に事件を解決したと聞き及んでいましたので、今回もお力添えを頂ければ、夏も無事に戻って来るのではないかと考えました。
それで、山岸様にお願いしたいと蒲生様にお願いに上がりました。」
山岸は、それで非番であったにもかかわらず、自分の所へ指示が来たのか、と思った。
「かどわかされた時の、夏の着物や恰好を教えてくれ。それと、夏は今年幾つになった?」
山岸が聞いた。
「はい、夏は今年一六で皐月の生まれです。姉の小春の所へ出かけた時は、薄い桃色の生地に茶の花小紋があしらってある着物で、帯は多分薄い茶色だったように思います。背格好は小柄で、四尺六寸(一五十センチ)程度です。」
「あい分かった。それで金の受け渡しの連絡は、まだ来ていないのだな。」
「はい、どのように連絡が有るのか分かりませんが、それはまだです。前の文は、何処かの子供がお侍さんに頼まれたと言って、店に持って来ました。」
山岸凛三郎は、配下の下っ引与吉に命じた。
「お前は、此処でその連絡が来るのを待て。ただし、その恰好では直ぐに下っ引だと分かってしまう。店の者に言って、商人らしくして貰え。吉兵衛、頼んで良いな?」
「それはもう、そうして頂ければ私どもも心強いです。これ、おしず、与吉さんを直ぐに奥へ通して、着物などを用意しておくれ。」
吉兵衛は、店のしずにそう命じると、しずは与吉を店の奥へと案内する。
「それと、その文を持って来た子供は、何処の誰か分かっているのか。」
「申し訳ありません。文の中を見て直ぐに探しましたが、その時はもう姿が見えなくなっていました。店の者もどこの誰の子か、分かる者が居りませんでした。」
「そうか、それでは仕方あるまい、それでももし、その子を見つけ出したら直ぐに奉行所へ知らせるように。」
山岸がそう言うと、吉兵衛は承知した。
山岸は奉行所へ戻って、蒲生新之助に今までの状況を伝える。
新之助は指示を出す。
「もう一つ、やっておかねばならない事がある。一つは、夏を乗せた駕籠かきに、やくざ者の風体を聞き出して、似顔絵を描かせる事。
あやふやでも構わない。
顔に記憶が無いのであれば、背丈や着物の柄などだけでも良い。もう一つは、夏が連れ去られた付近を徹底的に聞き込み、怪しい人物や夏、それと夏を乗せたかもしれない籠を見かけなかったか聞きこむ事、これらを直ぐに取り掛かって欲しい。」
「承知いたしました。我ら七人の同心とその配下の者達で、全力で取り組みます。」
山岸はそう答えると、他の同心たちと町中へ駆け出して行った。
二日後、同心の川辺と宗像が新之助の元に報告に来た。
川辺が言う。
「蒲生様、少しずつ分かって参りました。まず先に、夏かどわかしの手紙を店まで持って来た子供が分かりました。
その子供に聞き質したところ、どうも頼まれたお侍というのが、先の常磐屋事件の時に番頭の与一から聞いていた浪人者と、背格好が似ているらしいという事です。子供の言う事ですから、まだそうだとは言い切れませんが。」
すると宗像が続けた。
「また、夏がかどわかされた場所付近を、丁寧に聞き込みを致したところ、一台の籠が安倍街道を麻機山方面へ向って、駆けていたという話を何件か聞き出しました。ただそれに、夏が載せられていたかどうかまでは確かめられませんでした。」
新之助は暫く考え込んでいたが
「分かった。続けて探索をお願いします。」
そう言って机に向かって、書き物を始めた。
次の朝、駿州屋の小僧が店を開けるために、表の雨戸を引いていたところ、
その戸の間に一通の手紙が挟まっていた。
直ぐに番頭に知らせると、番頭はその手紙を持って吉兵衛の所へ持って行く。
慌てて吉兵衛がその手紙を開けると、次のような文が出て来た。
「夏の命が惜しければ、三百両を今日の晩五つ半(午後九時)に、浅間神社の境内へ吉兵衛一人で持ってこい。役人に知らせたり、吉兵衛一人では無かったりしたら、その場で夏を殺す。」
浅間神社は、低い山の頂上に鎮座している。麓の鳥居からは、何段もの石段を上って行かなくてはならない。
吉兵衛はすぐさまその手紙を、店の中で寝泊まりしていた下っ引の与吉へ知らせる。
与吉はその情報を、番屋へ知らせた。
番屋には川辺が宿直をしていた。川辺は与吉と共に奉行所へ向った。
「蒲生様、今日の晩、浅間神社の境内で身代金の受け渡しと、下手人から知らせてきました。どのように計らいましょうか。
浅間神社は境内と言ってもその範囲は広く、まさか神社本殿での直ぐ前という事も無かろうかと思います。それにあそこは寺社奉行の差配下であり、我々町奉行所は手が出ません。」
それを聞いた新之助は直ぐに指示を出した。
「今日の晩ですね。時間は充分あります。すぐさま捕り方を集め、出発する用意をして置いて下さい。
下手人は吉兵衛一人で来なければ、夏を殺すと脅して来たのですね。それは夏が一行とその場に居合わせるという事です。寺社奉行の事は気にしないで良い。私が責任を取ります。」
それを聞くと、川辺は目を丸くした。
驚いたのは、新之助の決断の速さと、責任は自分が取るという言葉だった。
今までそのような言葉を新之助の口から聞いた事が無い。
新之助はその足で、舅で上司の倉沢宗右衛門の所へ向った。
倉橋の居室前の廊下でかしづく。
「倉橋様、蒲生新之助です。失礼仕る。」
そう言って、静かに障子を開ける。すると倉橋は、部屋の中で机に向かっていた。
「何事だ、新之助殿。」
新之助は静かに部屋の中へ入ると、倉橋の前で姿勢を正し深々と一礼した。
「お聞き及びと思いますが、駿州屋の末娘夏の一件です。実は、夏と引き換えに金三百両を、今日の夜に浅間神社の境内で受け渡しと、下手人からの通達が有りました。
それで、浅間神社の境内へ捕り方を差し向けたいと存じますが、そのお許しを頂きたいと思い参上仕りました。」
すると倉橋に、何を言うかという感じで、顔に怒りが表れている。
「そこ元は、神社境内が寺社奉行の管轄である事を忘れたか。
われら町奉行が寺社内へ踏み込むことなど、到底出来る筈がない。何をたわけた事を言って居る。」
「しかし、そのような事を言って居っては、下手人を取り押さえる事は出来ませんし、夏の命も危なくなると思われます。
金の受け渡しの時が、かどわかしの下手人を捕らえる、一番の機会でございます。何とか、お許しを頂けませんでしょうか。」
新之助は頭を畳に擦り付けた。
「婿殿。」
倉橋はあえて新之助を婿殿と呼んだ。
「婿殿だけの責任で済むものなら、私も許そうと思うが、その責任は上席の私の所へも及ぶのだ。寺社奉行様との確執は避けなければならない。
町人の娘の命一つより、そのほうが余程大事なのじゃ。分かったらこれ以上の問答は不要である。」
倉橋の態度に取り付く島も無かった。
新之助は、元禄と令和の時代の考え方に、大きな違いがある事を思い知らされた。
町人の命よりも、役人のメンツの方が余程大事なのだ。
時には令和の世でも、警察や検察のメンツが、冤罪を生む事も有るし、起訴すべき事件を不起訴にしてしまう事例も有る。
でも、人の命には代えられないだろう。
それをいとも簡単に、人の命よりも役人のメンツが大事と言ってのける。
妻多恵の父親であろうが、とうてい承服は出来なかった。
が、それを今言っても仕方がない。時代が違うのだ。
それ以上の説得も出来ず、新之助は倉橋の部屋を退出したが、その足で直ぐに川辺を呼び戻した。
同心の川辺は、新之助の部屋へやって来た。
「どうですか、捕り方の用意は出来そうですか。」
「はい、総勢三十人程度が集まります。」
「それでは川辺殿は半数を引き連れて、神社正面の上り口辺りで待機するように、それと提灯には火を入れないように。
なるべく人目を避けて潜んでいて欲しい。時間は、五つ半で良い。その頃には境内で、夏と金の引き渡しが行われています。
それよりも早くもなく、遅くもなく捕り方を引き連れて行って欲しい。また、半数を同様に裏口で待機させておいてください。
そちらは山岸殿を筆頭としてくれれば良い。その連絡は、川辺殿にお願いいたします。」
川辺は頭を下げて、了承する。
「して、蒲生様はどのようになさるのですか。やはりその場には蒲生様に居て頂き、指揮を執ってもらわねば。」
「いや、それぞれは川辺殿と山岸殿に、指揮をお願いします。私は、少し他にやりたい事があります。
もし境内から逃げてくるものが居ったら、一人も逃さないように。ただし境内には決して踏み込まないようにお願いします。
賊は安倍街道の麻機方面へ逃げ去る可能性があります。そちらを主に塞いでくださればよい。」
川辺は、新之助が上席への説得が失敗して、責任逃れの為に現場には来ないつもりであると思ったが、其れを口にする事はなかった。
(先ほどの蒲生様と、今の蒲生様は何方が本当の蒲生様なのだ。やはり、境内に入るお許しは頂けなかったのだろう、それで責任逃れか?何時もの事だな。)
川辺は心内でそう思った。
暮れの五つ(午後八時)になって、捕り方の準備が整った。
新之助からは、浅間神社に五つ半に到着するように言われている。
それより早くなっても、遅くなってもだめだとの指示であった。
その頃になっても、新之助は奉行所にはおろか、隊列にも姿を現さない。
四半刻が経った。
捕り方は二手に分かれ、それぞれが神社の表と裏口へと向かった。
敵に気付かれないようにする為、その二手もさらに二手に分かれて違う道を行く事にした。勿論、提灯には火を入れていない。
続きは明日 「初めて刀で切り合いをした」




