奉行所
最初の事件が起こってしまった
それから一週間ほどが経ったが、これと言って事件は起こらない。
新之助は、溜まっていた書類の整理やら許諾の類を吟味していた。
ただ一つ、困った事が有った。書類は当然毛筆である。楷書であればなんとかなったが、少しでも崩してあると読めなくなる。
それで、これは他人には聞く事が出来なかった為、家に戻ってから多恵にレクチャーしてもらっている。
ある程度、読めるようになると、後は自然と読む事ができるようになって来た。
ただ、それを書くと我ながら達筆である。新之助自身が達筆であったのだろうと、祐一は思う。やはり、体が覚えている事は忘れていないのだ。
十日ほど過ぎたところで、最初の事件の一報が入った。
報告は、鷹匠町の番屋からだった。
大店の中の一軒である「常磐屋」の大番頭浅次郎が、何者かに殺害され、所持していた五十両を盗られたようだ、というものである。
五十両と言うのは、現在の価値で五百万くらいか。
殺害されたのは清水山の麓あたりだという。清水山というのは、駿府城より東へ半里(約二キロ)程の場所にある、標高の低い山である。
麓からでも五分程度で上り切る事が出来る筈だと、祐一の記憶にはあった。
早速、新之助は同心達を呼び出し、その捜査に当たらせる事にした。
そして、自らも鷹匠の番屋へ出向いた。遺体を確認するためだ。
番屋に着くと、既に同心の山岸凛三郎が遺体と一緒に到着していた。
遺体には、莚が被さっている。
その筵を取り払わせると、胸に刺し傷がある浅次郎の骸が表れた。
病死の遺体は何度も見た事が有ったが、殺されたた遺体は初めてだ。
思わず顔を顰めそうになったが、ぐっと我慢をした。
「刺し傷のようだが、獲物は何だか分かったのですか。」
新之助が聞くと凛三郎が答えた。
「はい。幅の狭い包丁のようで、さしずめ柳葉包丁ではないかと思われます。」
遺体は羽織を着たままだ。
その羽織の胸の辺りが黒く染まっていて、一部が何かに突き刺されたような刺し傷が付いているが、その幅や深さは外からでは見えない。
それで、番屋に居た岡引きの源蔵に命じて、羽織を脱がせ羽織に着いた傷の幅を計らせる。すると二寸だという。新之助は頭の中で計算した。
(六センチと五、六ミリか)
続いて着物も脱がせ、体に着いた傷の幅と深さを計らせた。
そちらも幅は二寸、深さは三寸だった。すると凛三郎の言ったように、柳葉包丁の可能性が有る。
でも新之助は、その刺し傷の切り口に注目した。
切り口は、鋭利な刃物で付けられたように、傷の回りの肌があまりにも綺麗だったのだ。
新之助は、遺体に着物を着せ羽織を着させると、何を思ったか腰の脇差を抜いた。
そして、それを刺し傷のすぐ横へ突き刺してみた。
突き刺したと同時に、新之助の中の祐一は、この男はご遺体に対してなんという事をするんだ、と自分自身であるにもかかわらず訝しがり又腹を立てた。
その時辺りまではまだ、新之助を第三者として認識出来ていたようだ。
自分が行っている動作なのに、それを批判している。
「蒲生様、何をなされるのです。」
凛三郎が驚いて叫んだ。源蔵も思わず後ずさりしている。
「凛三郎殿、源蔵、二つの傷跡を比べて見てください。」
新之助がそう命じると、凛三郎と源蔵は再び遺体から着物を脱がせ、新しくできた刺し傷と、以前の刺し傷を見比べた。
すると、その形状から傷の回りなども殆ど同じに見えた。
「これは、同じに見えます。」
凛三郎が答える。
「やはりそうですか。刺し傷があまりにも見事に見えたので、試してみました。おそらく獲物は包丁の類ではなく、侍の脇差だと思われます。しかも、
下手人は相当な剣の使い手であろうと思われます。
それでなくては、このように見事な傷はできないと思います。それで、被害者の浅次郎は、五十両もの大金を持っていたというのは確かな事ですか。」
新之助が聞いた。
「はい、それについては源蔵に常磐屋へ聞き込みに行ってもらうつもりです。真偽や事情については、後程ご報告させて頂きます。」
凛三郎が答えた。
「そうですか、それではその折に浅次郎が五十両もの大金を持って出るのを、誰と誰が知っていたのか、それを確かめて貰いたいと思います。それで殺害された時刻については分かっているのですか。」
「その辺りも、常磐屋で確認をしたいと思っていますが、遺体の状況から昨晩の暮れ五つ頃ではないかとの見立てです。」
暮れの五つとは、現在の午後8時頃に当たる。
それを聞いて新之助は、浅次郎の腕を取って曲げ伸ばしをしてみた。
硬直はかなり進んでいるように思える。
詳しい事は分からなかったが、半日は経っていそうである。
「それでは一旦、奉行所へ戻ります。何か分かったら知らせて下さい。」
そう言って、慎太郎は番屋を後にした。
しかし、番屋を出て引き戸を締めた所で、中から話し声が聞こえて来た。
源蔵の声だった。それで思わず足を止めた。
「何でぇ。何時もは番屋なんかには、出向いて来た事も無いのに。この度は、蒲生様は何であんなに張り切っているんですかね、山岸の旦那。
しかも、ご遺体へ刀を刺すなんて真似までして、獲物を割り出すなんて。
何時もの蒲生様らしくない。普段は、他の者に任せっきりにして、手柄だけは自分のものにするのに。」
あからさまな非難だった。凛三郎は、
「そう言うな、我々は普段通りに探索すればよいのだから。でも、下手人が侍か否かでは、まるで探索の方法が変わって来る。それだけでも収穫なのだから。」
と言って咎めている。
どうも蒲生新之助と言う人物は、他人に嫌われているようだった。
新之助は、何故自分で遺体に刀を刺し込んだのか、その理由は自分でも分かっていない。
咄嗟に、そうしてしまったのだ。
そうして、それを以前の新之助の仕業にしてしまっている。
祐一として頭で考えている事と、以前の新之助が体で覚えている事とは、
まったく別の事だと考えなければ辻褄が合わない。
間違いなく真剣を腰に差しても違和感は覚えず、木刀を振ってみても、その威力は祐一には到底成し得ない技だ。
筆の運びもそうであるし、だから遺体に刀を刺したのも、その体が覚えていたのだろう、というしかない。
その、体と意識とのちぐはぐな違和感は、これからも続くのだろうか。
源蔵は新之助と番屋で別れた後、常磐屋へ出向いた。
「御免よ。御用の筋のものだが旦那は居るかい?」
「はい、ああ親分さん、お疲れ様でございます。主人は奥に降りますので、今呼んでまいります。少々お待ちください。」
番頭が目聡く源蔵を見つけるとそう答えて、傍に居た女を奥へ向かわせた。
常磐屋を待つ間、源蔵は店の框に座って待っている。
暫くすると、常磐屋彦衛門が店先に現れた。
「これは、これは親分さん、ご苦労様でございます。この度は私共の浅次郎の事で、大変ご迷惑をおかけしております。何分にもよろしくお願い申し上げます。」
「おおよ。その浅次郎の事なんだがな、浅次郎が五十両もの大枚を持っていた、というのは本当かい?」
「はい。商売に使うお金で、浅次郎に支払いを任せておりました。当日は田中屋さんへ仕入れ商品の支払いのために、五十両を持たせておりました。浅次郎は、その支払いへ行く途中でした。」
「で、店を出たのは何時だい?」
「はい、田中屋さんの都合で、暮れの六つ半(十九時)に来て欲しいとの事でしたので、店を出たのは六つ(十八時)を少し過ぎた頃だったと思いますが。
帰りの予定は五つ(二十時)でしたが、浅次郎は帰りませんでした。それどころか常磐屋さんから使いが来て、来るはずの浅次郎が来ていないが、どうしたのかと問い合わせが有ったのです。」
「それでどうしたい。」
源蔵が聞く。
「はい。店の者を数人、浅次郎を探しに出しました。あの清水山の付近も探しましたが、その時には浅次郎の姿は勿論、遺体も見つかっておりません。」
「そうすると、五つ過ぎまで浅次郎は生きていたかもしれないという事だな。それでご遺体を見つけたのは誰だい。」
「はい、それは伝吉さんという、両替町に住む大工です。たまたま仕事で遅くなり、清水山の近くを通りかかった折、道端に倒れている浅次郎を見つけてくれました。直ぐに、番屋へ届け出てくれたようです。」
常盤屋彦衛門が言う。
「その時はもう、懐に五十両は無かったんだな。」
「お役人が色々お調べになったようですが、五十両はおろか浅次郎の巾着も無くなっていたそうです。」
それを聞いて源蔵が、新之助からの質問を問い質した。
「それで、その日浅次郎が五十両の大金を持っていたというのは、誰が知っていたんだ。」
「はい、それは私と浅次郎と、番頭の与一という者の三人だけです。この店の者は、他に誰も知りませんでした。」
「後は、田中屋の誰かか?」
「そうだと思いますが、それは私どもには分かりかねます。ただ、主人の吉右衛門さんは間違いなくご存じだったと思います。」
「そうかい、ありがとよ。邪魔したな。」
そこまで聞くと、源蔵は礼を言って常磐屋を後にして、田中屋へ向った。
源蔵は田中屋へ着くと、常磐屋で聞いた事と同じ事を聞いた。
主人の田中屋吉右衛門は店に居て、常磐屋と同じような応答だった。
常磐屋の番頭浅次郎が五十両を持って、田中屋を訪問する事は主人の吉右衛門と、大番頭の喜八しか知らなかったという。
この事を、源蔵は同心の山岸凛三郎へ報告した。
山岸凛三郎は早速奉行所へ向い、与力である蒲生新之助に、その一部始終を報告する。
新之助は、即座に指示をだした。
「ならば事は簡単です。常磐屋と田中屋に、岡っ引きか探索方をそれぞれ四人ずつ、四六時中張り込ませてください。対象は主人、大番頭と番頭、常磐屋は大番頭が亡くなっているから、主人と番頭の与一だけでいい。
何処かへ出かけるようだったら、その後を附けてその行き先を探らせてください。通常の商売での外出なら良いが、特に不審な場所へ出入りするようだったら、すぐに知らせて欲しい。
其処に、侍、浪人が居ればなおさらです。期間はそうですね、今日から三日間程度でよいでしょう。奪った金を回収するか、またはその報酬を渡すのに、それ程の日時は掛からないと思いますから。」
凛三郎が質問する。
「すると蒲生様は、田中屋か常磐屋が腕の立つ侍を使って、浅次郎を襲わせたとお考えですか?」
「そう思います。金が動くのを知っていたのが、その五人だけだったら。
ただ、全く別の読みも有ります。
偶然に浅次郎に出くわした腕の立つ侍が、浅次郎を襲ってたまたま懐に有った金を盗んだ場合ですが、そんなうまくは事が運ぶとは思われません。
そのパーセンテージは低いと思う。予め浅次郎が、金を持っていると知っての犯行だと思います。」
「パーセンテージ?ですか。パーセンテージとは何でしょう。」
聞きなれない言葉を聞いて、凛三郎が新之助に聞く。
続きは明日 「捕り物」




