奉行所
初出仕
翌朝、多恵の笑顔と一緒に食事を済ませると、新之助は身支度を始めた。
多恵がいそいそとその手伝いをしている。顔が幾分火照っているようだ。
袴を履き紋付を羽織り、両刀を腰に差すと多恵が最後に十手を差し出した。
腰の両刀の重さは、相当に有ると思っていたが、意に反して何も気にならない。
やはり、新之助の体が習得しているようだ。
つづいて、新之助は十手を腰に差す。
今日は奉行所への初出仕と同じことだと思っている。
案内として、山岸凛三郎が迎えに来てくれている筈だった。
治助が門の内側で待っていて、新之助が近づくと扉を開ける。
するとすでに、その門の外で凛三郎が待機していた。
「おはようございます。今日はよろしくお願いします。」
そう新之助が言うと、凛三郎は恐縮している。
凛三郎は同心であり、与力である新之助の配下になる。上下関係が厳しい時代で、上司は命令するだけというのが身に沁みついている。
多恵が一緒に門扉の所まで着いて来て、凛三郎に挨拶をしている。
新之助は一人の家来を従え、凛三郎と三人で奉行所へ向って歩き始めた。
後ろから多恵が
「行ってらっしゃいませ。」
と声を掛けていく。
駿府町奉行所は、駿府城の大手門角に有る。
その場所からは、天守がそびえたって見えている。
奉行所は大きな門構えの屋敷で、新之助の自宅が三百坪ほど在ると聞いていたが、それとは比べ物にならないほどである。
玄関口へ進んで行くと、大勢の同心達が挨拶をして行く。
屋敷の中に入ると、まず新之助の専用であると言われた部屋へ通された。
その部屋は二間続きで、一つは十五畳ほど、襖を隔てたもう一つの部屋は二十四畳あった。
十五畳部屋の上座に座布団が敷いて有り、その前には机が置いて有る。
新之助はまだ、記憶が戻っていないという触れ込みであった為、奉行所のレクチャーは凛三郎に依頼している。
その凛三郎が、新之助の正面に畏まっている。
「それでは奉行所内部の様子を伺わせて頂きたい。それと今日の予定が有ればそれも。」
と、新之助が問いかけた。
「まずこちらのご上席は、勿論お奉行様です。後で、御挨拶に参る事になっております。お奉行様の配下に、新之助様を含め八人の与力の方々がおいでになり、その下には六十人の我々同心が控えております。
新之助様には、事件の有った折に担当する同心に、御指図をして頂いておりました。またその同心からのご報告を、この場所でお聞きになっています。
時には、事件現場にもお足を運ばれておりました。
また、賊を捕らえた折には、その刑料をお調べになり、それをお奉行様へご進言されていました。」
簡単な説明ではあったが、要領を得たものだった。
ようするに、刑事を指図する管理官のような役職であり、また検事の役も兼ねているようだ。
「それと今のお奉行様のお名前は、大久保忠惟様と申されます。」
そうこうしている間に、襖の外から声が掛かった。
「お奉行様がお会いになる、と申されております。」
それを機会にレクチャーは中断し、新之助と凛三郎は連れ立って奉行の居室へ向った。
新之助だけでは、その部屋の場所も分からない。
凛三郎の後に続き、長く折れ曲がった廊下を歩き奉行の部屋に着くと、その前の廊下へ座り、新之助が部屋の中に向かって声を出した。
「蒲生新之助、まかり越しました。」
予め、用意しておいた言葉を発した。それが、正しいのかどうかは分からない。
すると中から、入れ、という言葉が有った。
座ったまま襖を両手で開け、畳の縁を踏まぬようにして最初の畳の上に進み正座した。
両手で三角形を作るように畳の上に置き、その二十センチほどの高さまで頭を下げる。全てが、映画やテレビで見た作法を真似ただけだった。
「長い間、療養とは申せお役を離れていて、大変申し訳ない事でございました。まだ、記憶は戻っておりませんが、今日からはまた、精進をする覚悟でございますので、何分にもよろしくお引き回しの程お願い申し上げます。」
これも又、用意して覚えておいた言葉だ。
「まあ、そう堅くならなくともよい。そなたの事は、舅の倉橋から聞いておる。
怪我の事も己の不始末ではなく、そこに控えている同心の山岸の命を助けた所業であった、と聞き及んでいる。何も恥じる事はない。またしっかりと励んでくれ。」
「有難きお言葉。以前にもまして励みとう存じます。」
「あい分かった。下がってよいぞ。」
奉行の大久保の部屋を後にして新之助は居室へ戻ったが、そこには舅の倉橋宗右衛門が待っていた。
「これは舅殿、わざわざおいで頂かなくとも、こちらから参上いたしましたものを。」
そう言って、宗右衛門を上座へ座らせ、自身はその下座へ座る。
「いやいや、少し気になってな。そなたの事が心配になって、急いてしまった。どうだ、少しは思い出せそうか。」
「申し訳ござりませぬ。少しも思い出せません。山岸殿が一緒でなければ、右も左も分からない事だらけでした。」
「そうか。でも山岸は同心の輩だ。そなたは与力としての立場もある。今後はこの舅に尋ねるが良い。」
「ありがとう存じます。そのように心がけます。」
新之助は、頭を下げた。
「ところで、多恵との仲は如何だ。そなたが記憶を無くした事で、二人が不仲になったなどという事は無いだろうな。」
父親としての心配なのだろう。
「いや、多恵はこんな私を懸命に支えてくれています。御心配には及びません。」
「そうか、それなら良かった。」
舅の倉橋は、それだけを言うとそそくさと部屋を出て行った。
隣の部屋で、凛三郎が二人の会話を聞いていたのだろう。
宗右衛門が出て行くと、直ぐに部屋の中に入って来た。
「ご存知とは思われますが、倉橋様は、八人おいでになる与力様の筆頭でございます。くれぐれも倉橋様のお気持ちを損なわれる事の無いように、お願い申し上げます。
同心は六十人居ると申し上げましたが、蒲生様の配下は、私を含めて総勢七人でございます。皆がお屋敷にお見舞いに参っておりますが、改めてご挨拶に見えています。」
そう言うと、隣の部屋との間の襖を開けた。
すると、そこに六人の同心が控えていて、各々に頭を下げている。中には新之助よりかなり年上の同心も居た。
その中の一人が一膝、前へいざり寄り
「川辺辰之進と申します。また蒲生様とこうして、ご一緒出来て嬉しゅうございます。
皆蒲生様のお怪我の事は存じておりますし、また山岸殿をお助けになられた経緯も聞き及んでおります。みな一応に感激をしております。
われら軽輩の命を、身をもってお助けいただいたこの御恩は、一生忘れる事ではありません。蒲生様の為なら、この身を削ってでもお仕い申し上げます。
この気持ちは此処に居る一同、皆同じでございまする。存分に我らをお使い下さるよう、お願い申し上げます。」
山岸を始め七人が皆、一斉に頭を下げた。
それを聞いて、新之助いや祐一は感動してしまった。同心仲間の絆の強さが、ひしひしと伝わって来たからだ。
「私は、それ程の事をした訳ではありません。当たり前のことを、当たり前に行ったまでだ、と思っています。知っての通り、私には以前の記憶がまるでありません。
皆様方に正しい指図ができるかどうかも、実際に事が起きてみなければ分かりません。私に間違った指図が有れば、直ぐにそう言って欲しいと思っています。これからは特に、私を支えて頂きたい。この通りです。」
新之助は上座からではあったが、頭を下げた。
この七人の助けが無ければ、仕事は全うできないであろう。心からそう思った。だが、それを見た同心たちは、恐れ多い事と新之助の頭よりさらに低く頭を下げた。
新之助はその後、書類の整理などに追われたが、ほとんどの文が草書で書かれていたため、半分以上は読めなかった。
そんな事は、同心たちに言えるはずもなく、書類と悪戦苦闘していた。
その内に尿意を催し、厠へ行こうと思って部屋を出た。
厠からの帰り、廊下を歩いていたが、その順路を間違えたようだ。見覚えのある場所まで戻る途中で、廊下の角の向こう側から話し声が聞こえて来た。
声に聞き覚えは無い。他の与力に仕えている、同心の二人と思われた。
「蒲生様もいい気なものだな。聞いたか。蒲生様が山岸殿を助けた、という事になっているようだ。私が捕り方から聞いたところでは、まるで反対だった。
崖が崩れて来た時に、蒲生様は慌てて我先に逃げ出そうとして、山岸殿を突き飛ばしたのだそうだ。運よく山岸殿は、難を逃れたが蒲生様は躓いて、崖から転落したって訳だ。」
「その話は拙者も聞いた。あまりにみっともない仕種だったので、倉橋様が取り繕って話をこしらえ、皆には本当の事を言わないように、かん口令を引いたようだ。」
「なまじ、剣の腕が立つのでおおっぴらには出来ないが、当の本人はその話を信じているようだ。普段の行いを見ていれば、そんな事は無い位は分かると思うのだが。あの嫌われ者が。」
そこまで聞いて、新之助は居たたまれなくなった。
そっとその場を逃げ出すようにして、部屋へ戻ることにした。どうも、凛三郎から聞いている新之助像と、本来の新之助は大分違っているようだ。
そう言えば、妻の多恵も子供の事では、びくびくしていたと新之助は思った。
ただ一つ、剣の腕が立つのはまちがいないようだ。
続き明日 「最初の事件が起こってしまった」




