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駿河の風  作者: 双花 芯
6/19

奉行所

初出仕


 翌朝、多恵の笑顔と一緒に食事を済ませると、新之助は身支度を始めた。

多恵がいそいそとその手伝いをしている。顔が幾分火照っているようだ。


袴を履き紋付を羽織り、両刀を腰に差すと多恵が最後に十手を差し出した。

腰の両刀の重さは、相当に有ると思っていたが、意に反して何も気にならない。


やはり、新之助の体が習得しているようだ。

つづいて、新之助は十手を腰に差す。

今日は奉行所への初出仕と同じことだと思っている。


案内として、山岸凛三郎が迎えに来てくれている筈だった。

治助が門の内側で待っていて、新之助が近づくと扉を開ける。

するとすでに、その門の外で凛三郎が待機していた。


「おはようございます。今日はよろしくお願いします。」

そう新之助が言うと、凛三郎は恐縮している。


凛三郎は同心であり、与力である新之助の配下になる。上下関係が厳しい時代で、上司は命令するだけというのが身に沁みついている。

多恵が一緒に門扉の所まで着いて来て、凛三郎に挨拶をしている。


新之助は一人の家来を従え、凛三郎と三人で奉行所へ向って歩き始めた。

後ろから多恵が

「行ってらっしゃいませ。」

と声を掛けていく。


駿府町奉行所は、駿府城の大手門角に有る。

その場所からは、天守がそびえたって見えている。

奉行所は大きな門構えの屋敷で、新之助の自宅が三百坪ほど在ると聞いていたが、それとは比べ物にならないほどである。


玄関口へ進んで行くと、大勢の同心達が挨拶をして行く。

屋敷の中に入ると、まず新之助の専用であると言われた部屋へ通された。

その部屋は二間続きで、一つは十五畳ほど、襖を隔てたもう一つの部屋は二十四畳あった。


十五畳部屋の上座に座布団が敷いて有り、その前には机が置いて有る。

新之助はまだ、記憶が戻っていないという触れ込みであった為、奉行所のレクチャーは凛三郎に依頼している。


その凛三郎が、新之助の正面に(かしこ)まっている。

「それでは奉行所内部の様子を伺わせて頂きたい。それと今日の予定が有ればそれも。」

と、新之助が問いかけた。


「まずこちらのご上席は、勿論お奉行様です。後で、御挨拶に参る事になっております。お奉行様の配下に、新之助様を含め八人の与力の方々がおいでになり、その下には六十人の我々同心が控えております。


新之助様には、事件の有った折に担当する同心に、御指図をして頂いておりました。またその同心からのご報告を、この場所でお聞きになっています。

時には、事件現場にもお足を運ばれておりました。


また、賊を捕らえた折には、その刑料をお調べになり、それをお奉行様へご進言されていました。」


簡単な説明ではあったが、要領を得たものだった。

ようするに、刑事を指図する管理官のような役職であり、また検事の役も兼ねているようだ。


「それと今のお奉行様のお名前は、大久保忠惟様と申されます。」

そうこうしている間に、襖の外から声が掛かった。


「お奉行様がお会いになる、と申されております。」

それを機会にレクチャーは中断し、新之助と凛三郎は連れ立って奉行の居室へ向った。


新之助だけでは、その部屋の場所も分からない。

凛三郎の後に続き、長く折れ曲がった廊下を歩き奉行の部屋に着くと、その前の廊下へ座り、新之助が部屋の中に向かって声を出した。


「蒲生新之助、まかり越しました。」

予め、用意しておいた言葉を発した。それが、正しいのかどうかは分からない。


すると中から、入れ、という言葉が有った。

座ったまま襖を両手で開け、畳の縁を踏まぬようにして最初の畳の上に進み正座した。


両手で三角形を作るように畳の上に置き、その二十センチほどの高さまで頭を下げる。全てが、映画やテレビで見た作法を真似ただけだった。


「長い間、療養とは申せお役を離れていて、大変申し訳ない事でございました。まだ、記憶は戻っておりませんが、今日からはまた、精進をする覚悟でございますので、何分にもよろしくお引き回しの程お願い申し上げます。」


これも又、用意して覚えておいた言葉だ。

「まあ、そう堅くならなくともよい。そなたの事は、舅の倉橋から聞いておる。


怪我の事も己の不始末ではなく、そこに控えている同心の山岸の命を助けた所業であった、と聞き及んでいる。何も恥じる事はない。またしっかりと励んでくれ。」


「有難きお言葉。以前にもまして励みとう存じます。」

「あい分かった。下がってよいぞ。」


奉行の大久保の部屋を後にして新之助は居室へ戻ったが、そこには舅の倉橋宗右衛門が待っていた。


「これは舅殿、わざわざおいで頂かなくとも、こちらから参上いたしましたものを。」

そう言って、宗右衛門を上座へ座らせ、自身はその下座へ座る。


「いやいや、少し気になってな。そなたの事が心配になって、急いてしまった。どうだ、少しは思い出せそうか。」


「申し訳ござりませぬ。少しも思い出せません。山岸殿が一緒でなければ、右も左も分からない事だらけでした。」


「そうか。でも山岸は同心の輩だ。そなたは与力としての立場もある。今後はこの舅に尋ねるが良い。」


「ありがとう存じます。そのように心がけます。」

新之助は、頭を下げた。


「ところで、多恵との仲は如何だ。そなたが記憶を無くした事で、二人が不仲になったなどという事は無いだろうな。」

父親としての心配なのだろう。


「いや、多恵はこんな私を懸命に支えてくれています。御心配には及びません。」

「そうか、それなら良かった。」

舅の倉橋は、それだけを言うとそそくさと部屋を出て行った。


隣の部屋で、凛三郎が二人の会話を聞いていたのだろう。

宗右衛門が出て行くと、直ぐに部屋の中に入って来た。


「ご存知とは思われますが、倉橋様は、八人おいでになる与力様の筆頭でございます。くれぐれも倉橋様のお気持ちを損なわれる事の無いように、お願い申し上げます。


同心は六十人居ると申し上げましたが、蒲生様の配下は、私を含めて総勢七人でございます。皆がお屋敷にお見舞いに参っておりますが、改めてご挨拶に見えています。」


そう言うと、隣の部屋との間の襖を開けた。

すると、そこに六人の同心が控えていて、各々に頭を下げている。中には新之助よりかなり年上の同心も居た。


その中の一人が一膝、前へいざり寄り

「川辺辰之進と申します。また蒲生様とこうして、ご一緒出来て嬉しゅうございます。


皆蒲生様のお怪我の事は存じておりますし、また山岸殿をお助けになられた経緯も聞き及んでおります。みな一応に感激をしております。


われら軽輩の命を、身をもってお助けいただいたこの御恩は、一生忘れる事ではありません。蒲生様の為なら、この身を削ってでもお仕い申し上げます。


この気持ちは此処に居る一同、皆同じでございまする。存分に我らをお使い下さるよう、お願い申し上げます。」

山岸を始め七人が皆、一斉に頭を下げた。


それを聞いて、新之助いや祐一は感動してしまった。同心仲間の絆の強さが、ひしひしと伝わって来たからだ。


「私は、それ程の事をした訳ではありません。当たり前のことを、当たり前に行ったまでだ、と思っています。知っての通り、私には以前の記憶がまるでありません。


皆様方に正しい指図ができるかどうかも、実際に事が起きてみなければ分かりません。私に間違った指図が有れば、直ぐにそう言って欲しいと思っています。これからは特に、私を支えて頂きたい。この通りです。」


新之助は上座からではあったが、頭を下げた。

この七人の助けが無ければ、仕事は全うできないであろう。心からそう思った。だが、それを見た同心たちは、恐れ多い事と新之助の頭よりさらに低く頭を下げた。


新之助はその後、書類の整理などに追われたが、ほとんどの文が草書で書かれていたため、半分以上は読めなかった。

そんな事は、同心たちに言えるはずもなく、書類と悪戦苦闘していた。


その内に尿意を催し、厠へ行こうと思って部屋を出た。

厠からの帰り、廊下を歩いていたが、その順路を間違えたようだ。見覚えのある場所まで戻る途中で、廊下の角の向こう側から話し声が聞こえて来た。


声に聞き覚えは無い。他の与力に仕えている、同心の二人と思われた。

「蒲生様もいい気なものだな。聞いたか。蒲生様が山岸殿を助けた、という事になっているようだ。私が捕り方から聞いたところでは、まるで反対だった。


崖が崩れて来た時に、蒲生様は慌てて我先に逃げ出そうとして、山岸殿を突き飛ばしたのだそうだ。運よく山岸殿は、難を逃れたが蒲生様は躓いて、崖から転落したって訳だ。」


「その話は拙者も聞いた。あまりにみっともない仕種だったので、倉橋様が取り繕って話をこしらえ、皆には本当の事を言わないように、かん口令を引いたようだ。」


「なまじ、剣の腕が立つのでおおっぴらには出来ないが、当の本人はその話を信じているようだ。普段の行いを見ていれば、そんな事は無い位は分かると思うのだが。あの嫌われ者が。」


そこまで聞いて、新之助は居たたまれなくなった。

そっとその場を逃げ出すようにして、部屋へ戻ることにした。どうも、凛三郎から聞いている新之助像と、本来の新之助は大分違っているようだ。


そう言えば、妻の多恵も子供の事では、びくびくしていたと新之助は思った。

ただ一つ、剣の腕が立つのはまちがいないようだ。


続き明日 「最初の事件が起こってしまった」

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