1697年?
かりそめの夫婦
次の日は、新之助の意識が戻った事を聞きつけて、七人の同心が仕事の途中で見舞に寄ってくれた。誰も新之助の事を疑っていない。
記憶がまだ戻っていないと告げると、皆一様にさもありなんと言う顔をする。その中に山岸凛三郎が居た。
凛三郎も仕事である市中見廻りの途中で、蒲生家に細君と一緒にやって来ていた。
手に見舞いの酒をぶら下げている。多恵に案内されて、部屋に入って来るといきなり畳に頭を擦りつけた。細君もそれに倣っている。
「此度の事は大変申し訳ない事でございました。私のような軽輩のために、蒲生様がこのようなお怪我をされて、大変申し訳ない次第と思っております。お陰を持ちまして私は、少しの傷だけで済みました。何と言ってお礼を申し上げていいか分かりません。」
新之助は床の中で、横たわったままそれを聞いていた。
山岸凛三郎は、年の頃なら新之助と同じくらいか少し若いと思われた。
背は高いほうであろう、百七十センチ位か。細君は多恵と同じくらいの年であろう。
名前は雪と名乗っている。
祐一は恐縮していた。凛三郎を助けたのは、祐一ではなく新之助であるからだ。
「このように横になったままで、申し訳ない。もうその位にしてお顔をお上げください。少し養生すれば、私もすぐ良くなると思います。今日は見舞って頂き、有難く存じます。それになりより、山岸殿に大したお怪我がなくて良かった。」
新之助はそう言うより他なかった。
その後で、凛三郎は今までの新之助の武勇伝を、妻の雪に聞かせるように話し出した。
それによると、新之助は相当な剣の使い手で与力、同心仲間でも一、二を争う腕前だという。辻斬りや、押し込み強盗など解決した事件は幾つも有り、仲間内からも一目置かれているという。
祐一はそれを、新之助とはそういう人物か、と思いながら聞いていた。
祐一は若い頃に、剣道や空手などを習っていた事が有ったが、剣道については剣豪といわれる程の腕前は無い、と自負している。
それにもちろん、真剣など握った事も無い。
体が治ったら、一度二十代の体力を試して見たいと思った。
一ヶ月が過ぎた。殆ど新之助の傷は癒えて、昨日は床上げを行った。
若い体と体力で、傷の治り方も早いようだ。
相当体を鍛えるために、努力もしていただろうと思われた。
その日の朝、起き掛けに庭に出て木刀を振ってみた。
体の所々に痛みを感じるものの、思った以上に体が動くし軽い。
また新之助が木刀を構える姿勢もその木刀が空を切る音も、今までに感じた事が無いほど鋭いものだと感じる。
これは新之助の修行で備わった体の奥から滲み出てくる技であり、祐一が頭で考えて出来るものではない。体が、自然と反応しているようだ。
新之助が久しぶりに鍛錬していると思い、妻の多恵は途中から廊下の上で正座して、それを眺めていた。
新之助が一連の動作を終えると、持っていた手拭いを持って庭に降りて来た。
「もう、すっかり元通りにおなりになったようですね。」
「ああ、多恵にはいろいろ心配を掛けてすまなかった。もう大丈夫だから心配はない。ただ、まだ以前の記憶は戻っていない。そろそろ奉行所に出仕しなければならないだろうが、その場所も分からないし、どんな仕事をしていたかも分からない。それが今のところ一番不安だ。」
祐一は汗を拭きながらそう言った。
この一ヶ月で、新之助になり切ろうと努力していたが、時々令和の言葉遣いが出てきている。
多恵は時々、それを訂正してくれていたが、この頃はすっかり諦めている。
多恵の方が、慣れて来てしまっているようだ。
「大丈夫でございます。奉行所には、父上も私の兄上もおいでになります。分からない事は、何でも相談されるが良いと思います。岡っ引きの源蔵も居る事ですから。」
源蔵というのは、探索にかけては他の同心からも一目置かれていて、前々から凛三郎の元で、下っ引きの仁助と共に働いていてくれているという話を聞いている。
二人は時々、蒲生家へ見舞に来ていたが、あまり目を見て話をしないと新之助は感じていたが、その内に打ち解ける事も有るだろう、と楽観している。
「まあ、そうですね。心配しても始まらない。少しその辺りを歩いてみたいのですが、多恵が案内してくれませんか。」
「かしこまりました。直ぐに用意を致しますのでしばらくお待ちください。」
そう言って多恵は屋敷の奥に入って行った。
暫くして、多恵が身支度を整えてやって来た。
先ほどの多恵とどこがどう変わったのか、新之助には見当が付かない。
始めて、家の外に出る事にした。
既に頭の中では、此処は江戸時代の元禄時代で駿府の町中なのだ、私の意識だけが時を越えて蒲生新之助の体の中に入り込んでしまっているのだ、と理解しようとしていたが、家の中だけではまだその確信には至っていない。
世間というものをこの目で見るまでは、と頑なに思っていた。
家の外に出るのには、木の門を潜らなければならなかった。門扉には屋根が付いていて、その周りも木製の塀が道路に沿って造られている。
門扉は両開きになっていて、片方の扉が二メートル程ある。その門扉の一方に潜り木戸が拵えてある。その潜り木戸を押し開いて外に出ると、そこには幅が三メートルほどの道があった。当然、舗装はされていない。
土を堅く固めてあるようだったが、雨が降れば水たまりだらけになると思われた。
地名を聞くと駒形だと言う。
北の方角に、駿府城の天守が見える。
天守が有った。
改めて、ここは江戸時代の駿府城下で有る、と認めざるを得ない。
道の回りは、蒲生家と同様な武士の屋敷であろうと思われる家が並んでいる。
歩く一歩一歩が、震える気がした。
その武家屋敷の地域を通り過ぎると、商家や民家が見えて来た。
人通りもあり、賑やかな雰囲気になって来る。
行きかう人々は、すべて和服姿であり、髷を結っている。
間違いない。此処は江戸時代だ。
暫く散策していたが、少し気が滅入って来た。
やはりここで暮らすしかないのか、と思ったからだ。
だが多恵はその様子を見て、まだ本人が言うようには新之助の体調が戻って居ないのだろう、と推察したようだ。心配そうな顔をした。
「ご気分がすぐれないようでしたら、今日はこの位にしてお帰りになりませんか。」
と言って来た。それを切っ掛けに足は屋敷へと向く。
それから二日ほどは、外に出る気にもならなかったが、朝の鍛錬は欠かさないようにした。汗を掻くと気分が良くなる。
体は、完全に元に戻ったようだった。休んでばかりも居られないと思われ、明日から出仕するという決心をした。
その晩の事である。
昨日までの部屋に行って就寝しようとしたが、多恵が布団を寝屋に移した、と言っていたのを思い出した。
その寝屋に向かうと、十畳ほどの部屋の中央に二つ並べて、布団が敷いてある。
この部屋は今までと違い、長押が拵えて有り、長押には長槍が掛かっている。
新之助が就寝しないと、多恵は絶対に就寝しないという事を新之助は知っていた。
それで、新之助はそのまま寝る事にした。
布団が二つ敷いてあるという事は、もう一つに多恵が寝るのだろう。
夫婦と言うのだから、一つの部屋に二人が就寝するのは別におかしなことではないが、祐一は戸惑った。
いくら新之助と多恵は夫婦であったとしても、祐一としては赤の他人であり、ましてや多恵は二十歳前の女性である。
そんな事を考えていたが、その内に睡魔に襲われて寝入ってしまった。
ふと気が付くと、多恵が左隣りの布団の中で、新之助に背中を向けて寝ている。
ただ、布団が小刻みに揺れている。耳を澄ませてみると、多恵が声を押し殺して泣いているようだ。
祐一は、何で多恵が泣いているのか気になった。それで、小声で声を掛けた。
「どうしたのですか。何を泣いているのです。」
その声に、多恵が驚いた様子をみせた。
「申し訳ありません。起こしてしまったようで。何でもありませんから、お気になさらないでくださいまし。」
「何でもない、と言われてもやはり気になる。私に至らぬ事が有ったのでしょうか。もしそうならば謝ります。
多恵は私に謝るなと言っていましたが、いつも多恵には助けられているぱかりで、とても有難いと思っています。本当にどうしたのですか。」
と聞いた。それでも多恵は何でもない、と言う。
祐一は何となく多恵の気持ちに気が付いた。
それでもしばらくの間、祐一は自問自答していた。
心は祐一だが、この体は蒲生新之助だ。
もう令和の世に戻れないかも知れない。それならば、蒲生新之助として生きて行かなくてはならないのだろう。
このまま多恵と、他人行儀にしていていいものであろうか。
夫婦であるのであれば、夫婦としても生きなければならない。
それが多恵の為でもある。
そう思う事で、妻の好美の存在を消そうとしたし、甘美な肉欲への誘惑の言い訳にもした。
そして意をけっして、小声で多恵に語り掛けた。
「ずっと寂しい思いをさせてしまっていました。多恵さえ良ければ、私がそちらへ移りますがいいですか?」
すると多恵は、ためらいがちに背中で頷いた。
やはりそうであったのか、と祐一は思った。新婚一年である。
いくら新之助が怪我をしたと言っても、ひと月以上の間、一人寝をしていたのだ。
しかも、多恵には他人行儀な接し方しかしてこなかった。
寂しかったのであろう、と思った。
新之助は多恵の布団の中に入ると、多恵の背中から腕を回しその体を抱きしめ、足をからませ寝間着の上から、両手でふくよかな弾力のある二つの乳房を掴んだ。
多恵の体がびくっとして、それに反応する。
以前、体を寄せて新之助を起こしてくれた時の、あの多恵の甘い匂いがした。
新之助がうしろから多恵の首筋に唇を当て、耳たぶをそっと噛む。
洗い髪の香りがする。
多恵は「あっ。」という小さな声を出した。
多恵の体を回して新之助の方へ向けると、多恵は恥じらいを見せうつむく。
その表情が、新之助にはとても愛らしく感じた。
多恵の顎を右指で上げて、顔を正面から見つめ直す。
ほのかな明りの中に、白い多恵の顔がはにかんでいる。
すると多恵は、すっと目を閉じた。
思わず新之助は、その多恵の薄い唇を吸った。柔らかい上唇の感触が伝わってくる。
全ての行為が終わった後、多恵は身を整えてから新之助の胸の中に顔を埋めて来た。
まだ火照っている、多恵の体が熱く感じる。
「旦那さま、多恵は幸せ者でございます。今しばらくこのままで、お話をさせて頂いてもよろしゅうございますか?」
「ああ、構いませんとも。多恵とは、じっくり二人だけで話す時間も、余り有りませんでしたから。済まないと思っていました。」
その時、新之助である長沢祐一は、後悔の気持ちで心が沈んでいた。
やはり、妻の芳美に申し訳なかった、と。
それに、こんな事はすべきではなかったのではないか、と。
此処は江戸時代の駿府だ。それに自分の体は祐一ではなく、蒲生新之助だ。
それは分かっている。だから新之助としては、正しい事をしたはずだ、
いや当たり前のことをしただけだ、と思う。
でも心は、意識は長沢祐一のままだ。これでは、好美だけではなく、此処にいる多恵にも裏切り行為になりはしないか。いや、間違いなく裏切り行為だ。
段々と、そう思うようになって来ていた。
私は、これからどのように生きていけばよいのだろうか、そのような気持ちで、悶々としている時に、多恵が話しかけてくれたのだ。
それでも、多恵は幸せ者だ、と言ってくれたのだ。その言葉に、少し救われた気がした。
「旦那さまは、とても変わられました。とても、お優しくなられました。それは日々のお言葉や、その行いからもそう思っておりました。でも。」
そう言うと、何やらはにかみながら言葉を飲み込んだ。
「でも、何ですか?私達は夫婦なのです。何を言っても構いません。私に直すところが有れば、遠慮無くそう言ってください。」
「いえ、違うのです。そうではありません。はしたない女だと思わないでくださいませ。今日の睦事はとても嬉しゅうございました。とても幸せな気持ちにさせて頂きました。
今までには無い事でした。それが、一番でございました。こんな事を申し上げて、申し訳ありません。そして、ありがとう存じます。」
多恵は、新之助の体にしがみ付いて来た。恥ずかしさで、顔を上げられないでいるようだ。
その言葉を聞いて新之助は、いや祐一は、好美には申し訳ないが、この江戸時代に居る限り、一旦は好美の事を忘れよう、多恵を大事にしていこう、改めてそう決心した。
それしか、生きていく方法はない。
「多恵、私のほうこそ礼を言わなければならないと思っています。記憶の無くなった私を、旦那さまと敬ってくれて、日々の世話をしてくれて、何と言って礼を言っていいか分からない位です。
これからも分からない事だらけだと思いますが、諦めずにいろいろと教えてください。お願いします。」
多恵に返事は無かった。ただ、新之助の胸の中で涙を流しているのが分かった。
新之助は、多恵の体を強く抱きしめた。
続きは明日 「奉行所」




