1697年?
私は蒲生新之助 妻は多恵19才
それで
「分かりました。色々有難うございます。」
と、新之助と呼ばれた祐一がそう言うと、多恵が付け加えた。
「そのお話の仕方も、何かお変わりになっておられますね。何処で、覚えてらっしゃったのでございましょう。
以前の旦那様は、もっと威厳がございましたし、私や使用人の前では、あまりすみませんとか、有難うとかはおっしゃらなかったように思います。いえこれは、差し出がましい事を言って申し訳ありませんでした。」
多恵はそう言うと、深々と頭を下げた。
狐につまされた感じであったが、どうしても確認したい事が有った。
それは、祐一が二六才であると告げられた事だ。
いくら昔の人が老けていたとしても、六八才と二六才では格段の差が有る。
自分の顔はどう映っているんだろうという素朴な疑問である。
自分の顔を確認したかった。それで相手の芝居を看破するつもりでもいた。
「すみませんが、手鏡を持って来てもらえませんか。」
「旦那様は、いつも通りにきりっとされています。特に変わった様子は有りませんが、それでも必要ですか。」
「ええ、どうしても自分の顔が思い出せないので、確認したいのです。お願いできますか。」
そう言うと、多恵は笑顔で
「また、そんな変なおっしゃり方をして。どうされたのでしょう。少し小さいと思いますが、鏡なら此処に持っております。」
断られるかとも思ったが、意に反して多恵は胸元から、赤い刺繡のしてある小さな袋を取り出し、祐一に差し出した。
祐一は、手のひらに載る位の小さな鏡を袋から取り出し、おそるおそる覗いてみた。
そこに写っていたのは、以前の自分の顔とはまるで似ても似つかない顔だった。
若い頃の自分の顔とも違っている。
多恵の言うように、その顔にある目はきりっとしていて、横長である。
眉毛は太く、鼻筋がすっと通っている。若い顔だ。
さらに驚いた事に、月代が剃ってあり髷を付けていた事だ。髭を剃ってから何日かは立っているのであろう、髭が伸びていたがそれ程濃くは無かった。
祐一は
「誰だ、これは。」
と心の中で驚愕して叫んだ。
言葉には出さなかったが、その驚いた様子は多恵にも伝わったようだ。
「何をそんなに驚かれておいでになるのですか。いつも通りの御顔です。」
祐一は、やっと理解した。これは自分ではない。蒲生新之助だ。
家は芝居や映画のセットではなく、多恵やはる、治助などは役者ではない。
実際の江戸時代の人物だ。何がどうなったのかは分からないが、私は、意識だけがこの時代に飛ばされたようだ。
頭の中は祐一だが、体は新之助なのだ。
そう理解し、もう一つ質問をしてみた。
「あの、今の将軍様と、駿府の御城代はどなたですか。」
多恵は呆れた顔で答えた。
「将軍様は五代綱吉様で、御城代は三枝守俊様です。ちなみに今は元禄十年でございます。」
元禄十年と言えば、もうすぐに赤穂浪士の討ち入りが有る頃ではなかったかな、と思った。
記憶に因ればたしか討ち入りは、元禄十五年十二月十五日だったはずだ。
その年は西暦で一七〇二年だと覚えている。
すると今年は、一六九七年なのか?
中央では側用人の柳沢吉保が権力を握っていた頃で、柳沢吉保は、榛原郡吉田町が知行地だ。
祐一の住んでいた焼津市の隣で、この駿府だった静岡市とも近い。
ここは駿府で時代は元禄なのだ。本当にそうなのか?傷が癒えて、外に出られるようになれば確認できるだろうが、まだ祐一は半信半疑のままであった。
直ぐに多恵の父親が来ると言っていたが、その前に昨日から腹が減っていた事を思い出した。あまりにも不思議な事が起きても、人間腹だけは空くようだ。腹がぐーっと鳴った。
すると多恵はそれを察して、直ぐにはるに命じて粥を作らせた。粥は直ぐに出て来たが、粥の上に梅干しが乗っているだけの簡単なものである。
祐一は布団の上に起き上がろうかと思ったが、思うようにいかない。
それを見て多恵は、祐一の布団を捲ると右腕を祐一の背中へ回して来た。
体を祐一に密着させるようにして、体全体で祐一の上半身を起き上がらせようとしている。その時に、多恵の体から甘い香りがしてきた。
祐一は久しぶりに、女性特有の匂いに触れた気がして、少し動揺した。
どうにか祐一は、上半身を起き上がらせた。多恵は座布団を持って来て、祐一の腰に当てがい、祐一が後方へ倒れないようにしてくれている。
祐一は粥の入った茶碗を持とうとしたが、腕は上がらない。
それで多恵が茶碗を持ち、木の匙ですくって祐一の口まで運んできた。
祐一はその多恵の動作に照れたが、腹が減っていたのでそのまま口の中へ入れて貰って食べた。
塩味がして、意外とおいしいと感じた。
そうしている時に、廊下から男の声が聞こえてきた。
「呼んだけれど返事が無かったので、上がらせてもらったぞ。何と仲の良い事じゃ。」
その男が、多恵が新之助へ粥を食べさせていたところを目撃して言った。
「あっ、父上、お人が悪い。旦那様はお腹を空かしておいででしたが、手がまだ思うように使えません。それでこうして。」
そう言って顔を赤らめた。江戸時代の女性はこんなにも、純情なのか。
それも驚きの一つだった。
多恵が父上と呼んだ男は、着物の上に紋付の羽織を着ている。腰には小刀と紺色の紐が付いた十手を指していて、右手に大刀を持っている。
祐一である新之助は、姿勢を正そうとした。
こうなれば、新之助の役に徹するほかに方法は無い。そう思った。
祐一の中に有る江戸時代の知識は知れていた。映画やテレビ、小説などで垣間見る程度だ。それも現代風にアレンジしてある。
どれだけ通用するか分からないが、やるだけはやってみよう。後は記憶喪失を装えば何とかなるだろう、と観念した。
新之助が姿勢を正そうとすると、多恵の父親が
「そのまま、そのまま。」
と言ってそれを制し、その場に座った。大刀は体の右側に置いた。
新之助は軽く頭を下げると、心の中で用意をしておいた話を口に出した。
「実は多恵とも話をしていたのですが、目覚めるとそれ以前の記憶がまるで無いどころか、自分の名前さえ分かりません。多恵が私の妻だと聞かされたのはほんの今しがたです。
多恵のお父上だと思われますが、申し訳ありません、私にその記憶が無いのです。お名前も存じ上げませんので、ご容赦ください。」
祐一は記憶喪失を装い、そう告げた。
多恵の父親と思しき人物は、それを聞いて驚愕すると思いきや、意外と冷静であった。ただ、驚きは有るのだろう。
「ふむ、そのような事は時々耳にしておるが、本当にある事なのだな。
身近に起こるとは思わなんだが。まあ、時が経てばおいおいと思い出されるであろう。
それまではしっかりと養生する事だ。あれだけの怪我だ、そのような事も有ろう。」
と言っている。
「それで、若し私が記憶を無くする前の事情などを知っておられるなら、ぜひお聞かせ願いたいのですが。それと申し訳ない事ですが、父上のお名前なども。」
多恵の父親と言っても、年は四〇才位であろうと推測した。
自分より若い男が、父親なんてどうかしている、と新之助の中の祐一は思う。
「なんだ、まだ怪我をした事情を、多恵から聞いていないのか。そなたは、
一昨日の夜、捕り物で八幡山へ籠った押し込みを捕らえに行っていたのだ。
首尾よく賊は捕らえて、その帰り道だ。
他の捕り方へ賊を引き渡した後、後輩の同心である山岸凛三郎と共に、殿として下山していた。その時に、雷が鳴って大雨が降りだしてな。
前日まで大雨が続いていた事も有り、少しの雨で丁度そなた達二人が歩いていた場所の崖の上が崩れて来たのだ。
あわや土砂に飲み込まれると思った凛三郎を、とっさの判断でそなたが凛三郎を突き飛ばし、土砂崩れから凛三郎を救ったのだか、その為にそなたが土砂に押し流されて、崖から転落してしまったという訳だ。
これは当の凛三郎や、先を歩いていた捕り方などから聞いているので間違いはない。凛三郎は、そなたに感謝しておったぞ。命の恩人だと。
それと私の名前は、倉橋宗右衛門だ。ついでに教えておいておくが、わしはそなたの舅でもあるが、与力の上席でもあるぞ。」
顔は笑っていた。
「すると私は丸一日、気を失っていたのですか。」
「そうだ、凛三郎が知らせて、直ぐにそなたの救出に向かった。
まだ雷が鳴り、大雨が降っていたのだが、そなたの倒れている場所へ行くと、そなたはもう息絶えていたと思われた。
それで此処に連れて来て、一応医師にも見せたのだがな、もうだめかも知れないとの見立てであったわ。体中に傷が有ったので、見た目だけでも整えよと命じて、汚れを取りのぞき傷の手当てをさせたのじゃ。
そして、此処へ寝かせておいたのだ。わしはもうそなたが死ぬものと思い、多恵にも諦めよと諭した。ところが多恵はそれが信じられず、一日だけ待ってくれるよう私に言ったのだ。
それがこうして目覚めて、腹が減ったのだとは驚きじゃ。記憶などはどうにでもなる。命が有ればそれでいい。」
何か、祐一の身に起こった事と似ているような気がした。
令和と元禄と時代は違っていたが、同じような現象で二人の男が負傷した。
そして、時を飛び越えて二人の意識と体が入れ替わったのかも知れない。
それでは、祐一の体の中には蒲生新之助の意識が入り込んでいるのか。
そう考えたが、確認のしようが無い。
それに、それより祐一の体は大丈夫なのであろうか。もしかしたら、祐一の体は死んでしまっているのではないだろうか。
そうであれば、蒲生新之助の意識は今どこにあるのだろう。
二人は、元に戻る事が有るのだろうか。
今の祐一には、それが一番大事であった。
それと、妻の芳美と娘の美津子の事を思い浮かべた。
二人にとっては、身内である祐一と駿が、同時期に意識を失った事になる。
その心境はどうなのだろう、それが一番の心配事だ。
「しばらくは養生をするといい。奉行所の方は心配いらない。お奉行様も事情は充分に分かっておられる。そなたの事を褒めておったぞ。私としても鼻が高い。元の体に戻ったら、おいおいお役目に戻ればよい。」
舅である倉橋宗右衛門は、そう言い残して部屋を出て行った。
また多恵と二人きりになったのを見計らって、気になっていた事を多恵に問うた。
「子供の声が聞こえないようですが、二人の間に子供は居ないのですか。」
それを聞いて多恵は、申し訳なさそうな顔をした。
「もう嫁いで一年になりますが、まだ子供が授かりません。大変申し訳ありません。」
そう言って、頭を畳に擦りつけた。
「いや、そんな風に取らないでください。ただ気になっただけですから。」
多恵はおどおどしている。新之助を恐れている様子だ。
それに此処は江戸時代らしい。
それでなくとも子供の話題は、微妙な問題を含む事も有る。
それで祐一はしばらくの間、子供の話題は避けようと思った。
「いつもは、まだ子が出来ぬかとお怒りになられますのに、今日はどうしてそのようにお優しいのですか。多恵は、本当に申し訳ないと思っております。どうぞ、ご勘弁ください。」
新之助は、子供の事になると妻の多恵をしかりつけているようだった。
「子が出来ないのは、多恵だけが悪いのではないでしょう。そんなに思いつめないでください。その内に、授かる事も有るでしょうから。」
「何とお優しい、何時もの旦那様とは別人のようです。ありがとう存じます。」
多恵は、頭を下げた。
「それともう一つ、この屋敷にはどれ位の人が住んでいるのですか。」
と聞いた。すると多恵は
「後家来衆は、総勢で十二人ですが、士分は四人です。宿直をしておりますのは、毎晩その中の二人でございます。士分の四人はそれぞれの家から通っておりますが、それ以外は、離れで暮らしています。
その中に女中のはるといね、小間使いの治助が居りますが、この三人はお屋敷の隅に住まわっています。」
「そうですか、総勢で十二人が、出入りしているという事ですね。」
大所帯だ。それらの人を養う収入は、どうしているのであろうか、と気になったがそれはまだ聞けない。
続きは明日 「かりそめの夫婦」




