1697年?
武家屋敷
ずきずきと体のあちこちが痛み、その痛さで長沢祐一は意識を取り戻した。
段々と意識が戻るにつれて、頭も痛み出した。
どうやら、布団の中で横たわっているようだ。どうして、此処で寝ているんだったかなと、直ぐには理解ができないでいる。
すると、少しずつ記憶が戻って来た。そうだ、身延山久遠寺の階段を上っている途中で、雷が近くに落ちて杉の木の突端が落ちて来たのだった。
それで階段を転げ落ちて、怪我をしたんだ。
意識が有るという事は、死んではいないようだ。
旅行の始まりのはずだった。一緒に居た、堀江たちはどうしたのだろう。
目を開けたつもりであるが、ぼんやりとしか見えない。暗い部屋だ。
なんとなく和室の天井が見えると思った。棹縁天井だったからだ。照明器具は見えない。ボーッとした明るさが少しずつ戻って来た。
不思議な事に、そのほのかな灯りが揺らいでいるようだ。
段々と意識が戻り始めている。上半身を布団の上で起こそうと思ったが、体を支えようとした右腕に激痛が走った。起き上がれない。
それで寝たままで首を左右に振って、周りを確認しようとした。
右側を向くと、ぼんやりした暗い部屋に、閉じている襖が見えた。病院ではなさそうだ。左側を向いても、同様に襖の模様が見える。
両側の襖の模様は、松の木があしらってあったが、その色は良く分からない。
左側の襖の前で、畳の上に燭台が見えた。その燭台には小さな火が灯っていて、おぼつかない灯りを放っている。時々、その炎が揺らいでいる。
それでほのかな明かりが、揺らいで見えていたのだ。燭台の片側には、和紙で出来ているであろうと思われる風除けが備わっていた。
部屋の中には誰も居ない。不思議な空間だった。
部屋の広さは十二畳位だろうか。
その中央に布団が敷かれていて、そこに祐一は横たわっていると思われた。
祐一は少し腹が減ったと思った。という事は、怪我をしたが頭や内臓に異常はないようだ。声を出そうとしたが、何と言って声を出そうか迷った。
そもそもここが何処なのか分からないし、何故此処に自分が居るのかも分からない。暫くは静観しようと思い、体の自由が利かなかった事も有り、もう一度眠りにつく事にした。
そうすれば、体力も回復するだろうと思ったのだ。
それからどの位の時間が経ったのだろう。次に目覚めた時には、周りが明るかった。
右側の襖が一枚だけ開いていて、外からの明かりが部屋の中に入っている。
という事は、誰かが居る事に間違いはない。誰かが襖を開けたのだ。
夜に意識が戻った時には分からなかったが、徐々に自分の様子が把握できるようになっていた。
怪我をしている事は間違いない。頭や腕、胴回りなどに包帯が巻かれている。
着ているのは、綿の和風の寝間着だった。腰には子供の時に締めた事が有る三尺で、寝間着の前を止めてある。下着のシャツは着ていない。
始め気付かなかったが、不思議な事があった。
明るくなったためか、周りの景色がはっきりと見える。
眼鏡は落としたはずだと思い、顔に手を触れたがやはり眼鏡は掛けていない。
五年程前に、白内障の手術を受けた時の事を思い出した。
あの時は、手術の後で眼帯を外した時に、あまりにも回りが明るく見え、色彩もはっきりしていて感動した。
それと同じような事が起きている。眼鏡を掛けていないのに、周囲がはっきりと見える。階段を転落した時に、何処かを打って何か良い方に変わったのかもしれない、視力が回復したのか、と思った。
もう一つ、感じた事が有った。空気が美味しいと思ったのだ。
年を取ってからは、空気が美味しいと感じた事はまず無かったが、それが今は感じられる。
これも、どこかを打ったせいかもしれない。兎に角、新鮮な喜びだった。
とは言え、体はまだ自由に動かない。此処も何処か分からない。
祐一は、その方が気になった。祐一は、思い切って声を出す事にした。
「すみません。誰かおいでになりますか。」
出来る限りの大声を出した。
その自分の声が、何時もの声とは違って聞こえた。
すると遠くの方で反応があった。
廊下を摺り足で走ってくるような、足音が聞こえて来る。段々とその足音が大きくなる。それからすると、結構な距離を走っていると思った。
今時、そんな長い廊下が有る家が有るのだろうか。そんな事を考えてしまった。
開いている襖の向こうは廊下になっていて、その外は庭のようだ。
その襖の陰の下の方から、部屋の中をのぞき見している女性の姿が見えた。
その女性は三〇代に見えたが、その容姿が変わっていた。
地味な茶系の縦縞の着物を着ていて、足袋を履いている。
袖にはたすきが見える。
背は一五〇センチ程度だろうか。所謂、色黒のオカメ顔で化粧はしていない。
その女性が廊下にひざま付いた。
長い髪だと思われたが、その髪を無造作に丸く束ねて、頭の上に載せているような感じである。
昔の日本の古い写真に写っていたような、そんな女性に見えた。
その女性が襖の陰からのぞき込むように顔を出すと、驚いた様子で後方へ尻餅を突いた。そして、廊下の先へ向って大声を出した。
「奥様、奥様、旦那様が目を覚まされました。」
「旦那様?」
誰の事を言っているんだろう。祐一はそう思った。
その女性の声を聴いて、また廊下の先の方から足音が近づいて来た。
今度も小走りをしているようだ。
暫くすると、廊下へ正座した女性の姿が有った。
今度の女性は、随分と若かった。二十歳前後だと思われたが、先ほどの女性同様に、着物を着ている。
ただ、着物は白地に花柄があしらってあり、それに合うような少し濃い目の紫色の帯を締めている。
胸元には、二つ折りの袋に納まっている、短刀のような物が差し込まれている。
日本髪で上品に見える簪が刺してあり、髪の正面には櫛が乗っていた。
どう見ても、江戸時代の映画に出て来る、侍の妻のようないでたちである。
女性は、いざるようにして部屋に入って来て、祐一が寝ている布団の端から一メートル程離れた場所に、改めて正座した。
よく見ると、目には涙がたまっている。
悲しくて泣いているのではない事は、その顔を見れば分かった。
喜んでいるのだ。
その女性は祐一を見ながら
「旦那様、よろしゅうございました。」
と泣き声で言っている。
祐一は何事が起ったのか、見当が付かなかった。
これは芝居か?どっきりカメラか何かか?
そう思ったが、自分の体の傷は本物だった。
その上品そうな女性が、先に来ていた年配の女性に向かって
「はる。治助を呼んできておくれ。」
と命令口調で告げた。これも芝居がかっている。
はると呼ばれた年配の女性は、廊下の袖で驚いたまま正座して待っていたが、
「分かりました。」
と言って、その場を離れて行った。
すると部屋の中で正座していた女性が、祐一の寝ている布団のすぐ傍まで、
いざり寄って来た。
布団の中から祐一の手を取ると、それを女性の頬に持って行った。
女性の暖かな体温が手の甲に伝わって来る。
「旦那様、本当に良かった。目を覚まされて。」
祐一の右手に頬擦りしながら、女性は涙ながらに言った。
これは芝居でも夢でもなさそうだ。手の温もりが、そう言っている。
何か理由が有るに違いない。
祐一は、何も言わずに女性のなすがままにしておいた。
暫くすると、庭先から
「奥様、お呼びでございましょうか。」
と言う声が聞こえた。
庭の隅で、男が腰を折って待機している。治助と呼ばれた男であろうか。
男も着物を着ていて、兵児帯を体に撒いている。
着物の裾は体の後ろ側へたくし上げられていて、その先は兵児帯に結わえ付けられているようだ。頭には月代が見える。
何が何だか分からなくなって来る。
まるで、時代劇の中に居るような感じがして来た。
「治助。父上に、旦那様が目を覚まされたと伝えて来なさい。」
またもや命令口調だ。男はその声から四〇代だと思われたが、二十歳前後の娘に命令されても何の反発もしないで、分かりました、と言って頭を下げて庭から出て行った。
部屋はまた、その女性と祐一だけになってしまった。
何なんだ、この芝居じみた感じは、そう思って、祐一は恐る恐るその女性に声を掛けた。
「すみません。此処は何処なんでしょうか。それにあなたはどなたですか。」
すると今度は女性が驚いたのであろうか、目を丸くして、今にも飛び上がりそうな様子を見せた。
「何をおっしゃっていらっしゃいますの。此処は旦那様のご自宅でございます。私は旦那様の妻なのにお忘れですか。」
驚いたのは祐一の方だ。そんな馬鹿な話が有るか。
私の妻は芳美で、もうこんなに若くは無い。
そう言ってしまいそうになったが、ぐっとこらえた。
「何も記憶が無いのです。この家の事もあなたの事も。申し訳ありません。
それに私は貴女の夫であるはずがない。貴女はこんなに若いし、私はこんなにも年を取っているのに。」
そう言うと、女性はとても悲しそうな目に変わった。
「年を取っているって、旦那様は旦那様です。以前と何も変わっていません。ご自分の事をお幾つだと思っていらっしゃるのですか。まだ二六才になったばかりですのに。」
「二六?」
思わず声に出してしまった。
「ご自分の年もお忘れですか。それではもしかして、ご自分のお名前も忘れていらっしゃるのでしょうか。」
祐一は、自分の名前は祐一だと言いたくなったが、本当のところが分かるまで、記憶喪失を装ったほうが良いのではないかと思った。
それで
「すみません。自分の名前もあなたの名前も分からないのです。私は何処の誰なんでしょうか。」
と言ってみた。
「そうですか。怪我をされた時に、記憶を無くされたのかもしれませんね。
そういう話は、時々旦那様からお聞きしていました。捕り物でとらえた賊が、頭を打った拍子にそれまでの事を忘れてしまったとか。
でも大丈夫でございます。その内に思い出されると思います。少しずつでも思い出せばよろしいのですから。」
この女性は綺麗だ、と思っていたが教養も有りそうだ。
祐一の印象では年はまだ十代に見え、良家の娘であろうという事だった。
うりざね顔で、目は一重だったが小さくは無い。
化粧はほとんどしていないと思われたが、顔肌は白くてキメが細かそうだ。
体の線は、着物に隠れていて良く分からないが、どちらかと言うと小太りかもしれない、そう思った。
「旦那様のお名前は、蒲生新之助とおっしゃいます。私は妻の多恵です。先ほどの女中ははるといって、小間使いは治助です。旦那様は駿府町奉行所の与力を拝命していて、この蒲生家は代々駿府町奉行所の与力でございます。
旦那様のご両親は、お若くてご他界されていますが、私の父は健在です。先ほど
はるに、父を呼びに行かせました。もうすぐにこちらへ到着すると思います。
あまり父を驚かせないでくださいまし。お願い致します。」
何という事だ。
駿府町奉行所?与力?
時代劇ではないぞ!何を言っているんだ、そう思ったが口には出せなかった。
それにこのレクチャーは、今から到着するであろう父親の為なのかも知れない。
父親を驚かせたくないために、少なくとも自分の名前と妻の名前、それと職業位は覚えていて欲しい、という事だろうと解釈した。
見た事、聞く事全てが何の事か分からない。ただ、江戸時代の設定であろうか、という事は想像できた。
ただ何のために、そんな設定をしなければならないのか、それが理解できないでいる。それでもそれが分かるまで、相手の話に合わせていたほうが良いかも知れない。
怪我の治療を受けて、こうして無事に居られるのは、この人達のお陰かも知れないのだから。
たとえ、芝居がかった嘘に付き合わされていたのだとしてもだ。
続きは明日の予定 「私は蒲生新之助 妻は多恵19才」




