2026年
「旅行へ出たが・・・・」
それから一週間ほどが経ったが、矢島駿の状態は変わらないままである。
意識が戻らない事以外に何も異常は無く、その症状は膠着状態を保っている。
担当医師も、東京に在住するそれらの症状に詳しい医師と連絡を取り合い、治療に努めていたが何も改善されなかった。また、悪化もしなかった。
真夏の日差しが、強く降り注ぐ季節になっている。
美津子の子供たちは土曜日に、焼津の長沢宅へ遊びに来ていた。
一晩泊って、日曜日に静岡の自宅へ送り届ける。
美津子はその間、駿の実家に気兼ねなく、病室へ通う事が出来た。
直ぐに夏休みになるから、そうしたらずっと焼津に居ればよい、と祐一は子供たちに言ってある。
子供たちは父親の事を心配しているが、少しずつ慣れてきたようだ。
駿の体に異常が見つからず、何かの拍子に意識が回復するかもしれない、
という期待が有るからかも知れない。美津子も前向きに、考え出していた。
祐一は悪いかなと思いながら、妻の芳美に仲間との旅行の件を切り出した。
「実は九月の十二日から、例の仲間四人で山梨の石和温泉まで、旅行の計画が有るんだけど、行ってもいいかな?」
「そうねえ、九月なら夏休みも終わっているし、特に駿君に変わりが無いようなら、お父さんが居なくても何とかなるでしよう。気分直しに行って来たら。美津子には内緒にしておくけど。その代り、何かあったら連絡するから、その時は何を置いても帰って来てよ。」
「勿論。悪いね。わがまま言って。」
祐一は、芳美に礼を言う。
八月を過ぎても、駿の状態に変わりは無かった。相変わらず眠ったままだ。
食事ができず、点滴だけで栄養を摂っているため、近頃は随分と痩せて来たようだ。
医師の話では、筋力は落ちているが、身体的には全く問題は無い、意識が戻らない原因はまだ掴めていない、といっている。
当初は、突然目覚めるのではないかと言う希望も有ったが、最近ではその希望も少し薄れてきている。
でもそんな事は言っていられないし、そんな顔も美津子の前で見せてはならない、と祐一は自戒していた。
孫たちは、夏休みの間は祐一の家で寝泊まりしている。
祐一は、まだ中学生程度の問題なら楽に解けるので、二人の夏休みの宿題の手助けもしていた。暇な時間が、二人の孫のお陰で有意義な時間になっている。
夏休みが終わると孫たちは静岡へ帰って行き、またさみしい時間が戻って来た。
九月十二日になった。祐一は昨夜から旅行の支度を始めていた。
一泊だから、たいした支度は無い。鞄の中に着替えと、洗面用具、髭剃りやアフターシェーブ、カメラと財布やカード類を用意しただけの簡単なものだ。
車のガソリンは、昨日の内に満タンにしておいた。洗車して、車内も小奇麗に掃除をしておいた。もう一度、芳美に礼を言って、宿泊先や観光をする立ち寄り先なども知らせておいた。
九月十日に中部地方へ台風が上陸した事も有って、旅行が中止になる可能性も有ったが、昨日の夕方からは良い天気が続いている。
天気の心配はなさそうだ。
また、目的地までは山間地を通行するため、台風のために道路の通行止めも気になったが、ネットで検索した結果、通行止めの箇所も無い。
祐一は鞄を車のトランクに入れると、芳美に行ってくると言って、朝の六時に自宅を出発した。
まずは、静岡市駿河区に住んでいる青島の自宅へ向かい、そこで青島を車に乗せる。
焼津から甲府までは、国道一五〇号線を進み静岡市駿河区から国道一号線で清水区を通り、その後は国道五二号線へ入り北上する。
その通路上に青島の家と堀江の家があるので、二人を途中で拾う事になっている。
松村は前日に、沼津から東海道線で静岡まで出ていた。それで、堀江を拾う前に、静岡駅で松村を迎え入れる事になっていた。
青島の自宅へは六時半に到着した。青島を助手席に乗せ、そのまま静岡駅へ向かう。
静岡駅の南口へ、六時四五分に着いた。
既に駅前ロータリーの一番端に、松村が鞄を持って待っていた。
「おはよう。」
と、祐一と青島は松村に車内から声を掛けた。松村も挨拶をしながら、後部座席に乗り込んで来る。荷物は、車後部のトランクの中へ入れて貰う。
次は堀江の番だ。駅南から駅北へ回り、国道一号線を東進する。
まだ午前七時だった事もあって、道路は混んでいない。清水区の堀江宅には、七時十五分に着いた。
祐一は、紺のジーパンに薄手の半袖シャツを着ている。
シャツの色は薄い青だ。その上に濃い色の紺のベストを着ていて、今日は度付きのサングラスをしている。
頭にはつば付きの帽子を被っている。
堀江宅に着くと、堀江も玄関先で待っていた。彼もジーパン姿だった。
これで四人が揃った。堀江も後部座席へ入った。
早速、堀江が今日の予定を言い出した。
まずは甲府へ向かい、昇仙峡へ行く。
昇仙峡は、狭い川幅の両岸に奇岩が並んでいる景勝地だ。
歩いて回る途中には滝も有り、観光客には人気の場所である。
ブドウ狩りを予定していたが、土産としてブドウを買って来たいので、ブドウ狩りは明日の予定になっていると言う。
甲府は、戦国時代に武田信玄の本拠地だったので、その武田信玄が祀られている、信玄神社に行く予定も入っていた。
又、リニア新幹線の走行場所とその駅にもいくようだ。
途中で、甲府ワインの工場見学も予定されていたが、車の運転者はワインが飲めない。
それで、アルコールに強くない祐一が、今日一日運転手を務める事になっていた。
車は国道五十二号線を北進していく。
車は山梨県へ入り、南巨摩郡南部町を経て、身延町へと進んだ。
身延町には、身延山久遠寺がある。
予定にはなかったが、久遠寺へ急遽参拝する事にした。
国道五十二号線を左折して、車がやっとすれ違う事ができる程度の細い道を上って行くと、右手に大きな山門が見えて来る。
車をその付近に停めて、歩いて山門をくぐり、急な石の階段を上がって行けば、久遠寺の境内に入る。
四人は皆六五才を越えていたため、その長い急坂の階段を上って行く事に躊躇した。
その左横には、車で上る事の出来る急坂が有るので、それを車で行こうという事に決まりかけたが、青島が異議を唱えた。
「まだまだ若い、と言うところを見せたいと思わないか。老化は、もう年老いたという気持ちから始まるんだよ。せっかく階段が有るのだから、歩いて行こうよ。きっとご利益も何倍かあると思うよ。」
青島は、学生時代にはワンダーホーゲル部に属していて健脚だった。それを聞いた、色黒の松村が同意した。
「分かった。上ってやろうじゃないか。明日も休みだし、俺は運転しないし。」
と言って来た。
松村には自身が所有する山林が有り、山歩きは得意だと思われた。
大柄な堀江は、難色を示した。
多分、上がり切れないと思う、と弱気な発言だ。
祐一はできれば階段を使いたくない、と思っていた。体力の衰退は、如何ともし難い。わざわざ苦労する事は無いのに、と思っていたが、青島のご利益と言う言葉に反応した。
もし、これを上り切れれば駿君も快方に向かうかもしれない。
娘の美津子も苦労しているのに、自分だけ遊び呆けていて良い訳は無い、せめてご利益を頂いて、少しでも駿君の快方に一役買ってみたいと思った。
それで、祐一は意を決し
「よし、私も歩いて行こうと思う。」
と賛意を示した。それで、仕方なく堀江もそれに賛同した。
車を付近の駐車場へ移し、手荷物は持たないようにして、貴重品だけ持って行く事にした。祐一は財布と、カメラだけを手にした。
そして山門をくぐり、石の階段に取り付いた。一段一段に高さが有る。
五十段ほど上っただけで、情けない事に息切れがしてきた。
まだ上り始めたばかりで、上を見るとずっとその階段が続いている。
祐一は気力を出して、階段を再度上り始めた。暫く上ると、段々と上る事に慣れて来た。
息は切れるものの、一定のペースを崩さなければ、最初に思ったほどの疲れは出ない。それでも青島は、ずっと先に行っている。
もう、五十段ほどの差ができていた。
次に先行していたのは、松村だった。祐一と堀江は、ほとんど同じような場所に居た。ゆっくりと、一段一段上って行く。
五十段に一度位に、階段の一部が広くできていて、小休止ができるようになっている。所謂踊り場が設けられていたが、その踊り場の三回目に到着した。
祐一は少し休む事にした。息が切れている。
上を見ると先を行く青島は、既に四回目の踊り場を過ぎていた。
松村は四回目の踊り場の手前を、腰を屈めて上っている。
上を向いたついでに、祐一は空を見上げた。それまで汗ばむ程の気温と湿気が有ったのだが、急に肌寒く感じて来たからだ。空気の質が変わっていた。
そもそも登り口の山門付近は標高が高かったのだから、少し上っただけでも空気の様子が変わっても不思議ではない。
それにしても、その変わり方が急だと思った。そう感じたのは自分だけかと思ったが、すぐ傍で祐一と同じように踊り場で小休止していた堀江も、それを感じているようだ。
「なにか急に冷えてきていない?」
堀江が空を見上げながら言った。それまで晴れていた空に、黒い雲が広がって来ている。天気予報では、一日中良い天気のはずだ。
山の天気は変わりやすいのかもしれない。
「ああ、私もそう思った。何か変だね。」
祐一は答えて、先を行く松村と青島を見上げた。
すると両名も階段を上るのをやめて、空を見上げている。
平日だった為か、他に階段を上っている人は近くに居ない。
すると風が出て来た。それ程強くは無かったが、冷たい風だった。
それを合図にしたように、徐々に広がっていた黒い雲が、一気に空を覆って来た。
場所によっては、雲が二重にも三重にもなっている。
突然、遠くで雷が鳴りだし、大粒の雹がパラパラと降って来た。
周りに、雹を避ける場所は無い。
仕方がないのでその場で佇んでいると、雷の音が徐々に大きくなって来た。
「これはやばいな。」
堀江が言った。
階段の両側には、高く育っている杉の木が林立している。木には近づかない方がよい。雷が、落ちる可能性が高い。
しかも階段の脇には、金属の手すりが備わっている。
念のために手すりからも離れ、階段の中央へ移動した。
そうして居る内に、先行していた松村と青島が階段を降り始めて来ている。
雹が体を打ち付けている。少しずつ、シャツも濡れ始めてきた。
すると階段の回りが激しく光ったと思ったら、ドカーンと言うとてつもなく
大きな音と同時に、地鳴りがした。
空気も地面も、びりびりと震えている。直ぐ近くに雷が落ちたようだ。
直撃はされなかったが、思わず祐一と堀江はその場でしゃがみ込んでしまった。
すると、階段の上の方から降りて来ていた青島が、大声を出した。
「長沢さん、危ない。」
祐一が何事かと思っていると、青島の少し下に居た松村も、青島と同時に声を張り上げていた。
「上!上!上を見て。」
思わず祐一は空を見上げた。堀江もそれに倣った。
すると、真上から杉の木の一部が、空から降って来ていたのが見えた。
雷が、階段左側の少し上方に有った杉の木の上部へ落ちて、その突端の幹をへし折ったようだ。
落下して来た杉の幹の長さは、三メートル以上有りそうだった。
幹からは、四方へ枝葉が伸びている。
その落下している杉の枝の一部が、祐一の体を直撃しようとしていた。
祐一は、咄嗟に踊り場の右方向へ飛んだ。堀江は、どうしたか分からない。
かろうじて杉の幹の直撃は避けられたが、その弾みで祐一は足を滑らしてよろけてしまった。
そこへ、落下して来た杉の幹の枝が弾んで来て、祐一の足をすくった。
足をすくった枝はそのまま祐一を倒しながら、階段の縁まで押し込んでしまう。
あっ、と言う声を発して、祐一は石の階段を転げ落ちた。
一旦転げ落ちると、勢いが増して止まる事が出来ない。そのまま下から二番目の踊り場まで転げ落ち、その場でようやく祐一の体は止まった。
意識が薄れていく。
体全体に激痛が走っている。
頭を打ったかどうかは分からない。掛けていたサングラスと帽子は、どこかに取れてしまっていた。
遠くで堀江の声が聞こえたと思ったが、祐一の意識はそこで途絶えた。
続きは明日の予定 「1697年?」




