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駿河の風  作者: 双花 芯
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2026年

娘婿が意識を失った


 長沢祐一は、今年六八才になっていた。

小学生の頃から視力が弱く近視用の眼鏡を使用していたが、十年程前から遠視にもなっていた。遠視と言えば聞こえが良いが、実のところは老眼である。


遠くも近くも見えづらくなっていて、祐一は近視用と老眼用の二種類の眼鏡を使用している。そのせいか、いつも目が疲れているという感じであった。


夜はしっかり寝ているつもりだが、朝になっても昨日の疲れが取れない。

それにこの頃は、必ず夜中に一度起きてトイレに行くようになってしまった。


つい先ごろまでは、トイレの回数を抑える薬のテレビコマーシャルを見ても、こんな薬が何故必要なのか理解しがたい、と思っていたのが今はそろそろ必要かな、と感じていたりしている。


若い頃から薄かった頭髪は既に殆どが抜け落ち、天頂を中心にかなり広い範囲で脱毛しているし、残っている部分も半分以上白髪になっている。

体力もめっきり弱くなった。


長年勤めた会社も今年の三月をもって退職し、今は無職の身の上である。

したがって収入も途絶え、妻に対して肩身の狭い思いをしている。


今まで蓄えた預金と、スズメの涙ほどの年金でどうにか生活は維持できるものの、何ともやるせない思いで生活をしている。


幸いな事に、若い頃に建てた持ち家が有り、息子の祐樹と娘の美津子はそれぞれに所帯を持って、祐一の近くで暮らしている。


孫も息子夫婦に二人、娘夫婦にも二人授かり、四人になった。目下は、その孫たちが訊ねて来るのが楽しみであった。


妻の芳美は四才年下の六四才になっていたが、まだ自分の職を持っていて毎日出勤している。


それで昼間の内は一人になり、特にすることも無いので、なるべく家事をするようにしている。ただ、料理だけは経験が無いため、それ以外で出来る掃除とか片付けが主な仕事になっていた。

妻から「粗大ごみ」と言われる日も、そう遠くないだろうと観念している。


そんな七月のある日、以前に仕事仲間だった友人から電話が有った。

祐一の友人は三人いたが、それぞれが職をリタイヤして祐一と同様の暮らしをしている。電話の内容は、祐一を含めて四人で小旅行をしようと言う話だった。


それで二ヶ月ぶりに四人が、喫茶店で会う手筈となった。

友人の名前は、それぞれに松村、青島、堀江という。

祐一を除く三人は同い年で、祐一よりは二つ年下だったが見た目は余り違わない。


この位の年になると、一つや二つ年が違っても同じような境遇で、同じように体の不調を訴えている。


気が置けない仲間同士で有る事や、お互いに利害関係が無かったことなどから、友人としての付き合いは三〇年に及んでいる。


その間に、夜の街へ繰り出したり、国内は勿論海外へ旅行に行ったりもした。

男四人で旅行をしていると、周りの旅行者や宿の中居などから、珍しいですね、とたびたび言われた。


女性同士の旅行はあるけれど、男性同士の仲間内の旅行は殆ど見ないと言う事のようだ。


最近は二、三か月に一度くらいに会って、飲み会と称して居酒屋へ行ったりしている。


その日、祐一が静岡市内の喫茶店へ出向くと、既に他の三人は席に着いていた。

久しぶりと声を掛けて祐一が席に着くと、大柄で小太りの堀江が口を開いた。


「久しぶりに四人で近場へ一泊で旅行をしようと思ってるんだけど、どうだろうか。」

「俺は構わないが、他の人はどうなのよ。」


色黒の松村がコーヒーをすすりながら答えた。この二人も髪は薄くなりかけている。

白髪も目立って来ている。そこへ店員が祐一に注文を聞きに来た。


他の三人の前にはコーヒーが置かれている。祐一もコーヒーを注文した。

「僕もいいよ。でも何処へ行く?」

小柄で固太りの青島が聞いた。


青島だけは黒々と豊かな頭髪を維持していて、四人の中では一番若く見える。青島は早生まれであった為、実際でも一番若い。


祐一は旅行の予定が九月であるという事を聞いて

「甲府はどう?静岡からだったら近いし、ブドウが摂れる時期だろ。温泉は石和が有るだろう?」


そう言うと、そうだな、と誰からも異論はなく、行先は直ぐに山梨県の石和温泉に決まった。コーヒーが祐一の前に運ばれて来た。


長沢祐一は静岡県焼津市に在住している。青島は静岡市駿河区、堀江は静岡市清水区、松村は少し離れているが同じく静岡県沼津市に住んでいる。


そもそも四人は職場の同僚であったが、その期間は一〇年程であった。

それぞれに事情が有り、その職場を辞していたが、その後も長く付き合いが続いている。余程、気が合ったのであろう。


旅行は車で出かける事にして、その車は祐一が提供する事にした。運転は交代で行う。

日時は九月十二、十三日の平日にした。


四人とも平日でも構わない境遇であるし、平日の方が旅館代は安く上がるだろうとの魂胆である。

幹事は堀江が引き受けた。


以前同じ四人で北陸に旅行した際に、食事の時にコンパニオンを呼んだ事を思い出した。結構楽しかった思い出が有ったので、それで今回もコンパニオンを呼ばないか、と堀江が提案し了承された。


その後は、いつも通り他愛のない話で終始したが、祐一と堀江に用事があり、今回の飲み会は松村と青島だけで行く事になってしまった。

再会を約して、お開きになった。


祐一が家に戻ったのは、午後六時頃だった。外はまだ明るい。今は妻の芳美と二人だけになってしまった住まいに入ると、芳美が携帯電話で誰かと話をしていた。


話の内容は良く分からなかったが、芳美は深刻な顔をしていて声の調子も暗かった。

「それで、今はどういう状態なの?」


声の調子と話し方で、相手は娘の美津子のようだと思った。電話の相手は何かを伝えている。その度に、芳美は頷いている。


「分かった。明日、お父さんと病院へ行く。午後の方がいいんだよね。」

そう言って芳美は電話を切って、傍で聞いていた祐一に向き直った。

「駿君が仕事中に、急に意識を失ったんだって。」

声は少し震えている。


駿と言うのは、祐一と芳美の娘である美津子の夫の矢島駿であった。

二人は、もともと高校時代の剣道クラブの先輩後輩の仲だったが、ある事件をきっかけに付き合うようになり、美津子が二十五才の時に結婚している。


美津子は既に四〇才になっている。矢島俊は美津子より二つ年上である。

その矢島駿が倒れたと言っている。

「意識を失ったってどういう事なんだ。」

祐一が驚いて聞いた。


「詳しくは分からないけれど、仕事中に何故か、急に意識が亡くなりそのまま病院へ運ばれたようなの。病院で検査と治療を受けているようだけど、担当の先生によると原因はまだ分からないんだって。


危険な状態ではなさそうなんだけど、原因は分からないけど意識が戻らなくて、美津子がとても心配して電話を掛けて来た。明日、静岡の病院へ行こうと思っているけど、お父さんも一緒に行けるでしょ。」


芳美は祐一の事をお父さんと呼んでいる。

「勿論行けるよ。何でもないといいけど。」

祐一が答えた。


その事が有って、祐一は芳美に旅行の事は言いそびれた。旅行まではまだ一ヵ月以上の猶予が有るので、直ぐに話さなくても良いだろう、その内に駿君も意識を取り戻すだろう、と安易に思っていた。


翌日、祐一は芳美と連れ立って、静岡市内にある総合病院へ出向いた。

静岡市は祐一が住む焼津市からは三〇分ほどで行く事が出来るが、病院は町の端だった為に小一時間掛かってしまった。


駿の病室は五階にあった。エレベーターを降りてナースステーションの有る角を右に曲がると、駿が居る部屋が有った。四人部屋だ。


病室に入ると、手前の二つのベッドは間仕切りのカーテンが開いていて、患者は居ない。窓際の左側だけがカーテンが閉まっている。右側のカーテンは開いていて、ベッドの上に年取った患者が上半身を起こして本を読んでいた。


閉まったカーテンの中に駿が居るようだ。そのカーテン越しに声を掛けると中から、はい、と言う美津子の声が聞こえてきた。


カーテンが開いて、美津子が顔を出した。その傍らに眠っているような駿が横たわっている。二人の子供は居ない。


祐一が美津子に子供たちの事を聞くと、駿の実家で預かって貰っていると言う。

祐一は孫達に会えなかった事と、自分たちを頼ってくれればよかったのにと思う気持ちで、少し残念に思ったが口には出さなかった。


「それでどうなの駿君。」

芳美が美津子に尋ねると、立ったまま美津子は憔悴した面持ちで、医師から聞いた話を伝えた。


「昨日から色々な検査をしたけど、何処も悪い所は見つからなかったんだって。特に、頭の検査を念入りにしたらしいけど、頭の中も内蔵にも、勿論心臓や血管にも異常はないんだって。先生も、何で意識が戻らないか分からないって言っていた。体は健康体そのものなんだけど、ただ眠っているだけらしい。」


駿は本当に、ベッドの上で眠っているだけの様子だった。顔色も悪くない。

食事が摂れないために点滴を行っていて、心電図モニターだけは付けていたが、後は何の装置も付けていない。脈拍は正常値であり呼吸も整っている様子だった。


矢島駿は静岡市内の新聞社に勤めている。新聞記者を志していたが、家庭を持ち子供も授かった事で、時間に不規則な記者は諦めた。

今も記事の校正や資料の調査などを主な仕事としていた。


美津子は両親に、傍にあった椅子を勧めた。祐一はその椅子を芳美と美津子に使うように勧め、自身はそのままベッドの傍に立った。


「折角来てくれたのに、何も分からなくて進展も無くて、ごめんね。」

美津子が言った。


「美津子が謝る事じゃないよ。このまま駿君の意識が戻るのを、待つしかないのかな。美津子は、今日これからどうするんだ。此処にいても何もできないし、子供たちの事も心配だろう。」


「明日の朝までは、駿さんの実家で子供たちを預かってもらえるから、私は大丈夫。私は何の役にも立たなくても、今日一日はここに居るつもり。お父さんとお母さんにはせっかく来てくれたけど、適当な時に帰ってくれていいよ。明日、もう一度先生と話し合ってみる。」


「そうだね。何もできなくても傍に居るという事は大事な事よ。駿君もきっと分かってくれていると思う。できるだけ駿君の傍に居てやって。


もし疲れたら、私が代わってもいいし。それに子供達の事も心配しなくていいよ。もうじき中学生だし、学校のない日は焼津で預かってもいいんだから。」

芳美が言った。


「ありがとう、お母さん。また頼みたい事が有ったら連絡する。」

美津子は気丈にそう言った。それから一時間程病室に居てから、二人は帰路に就いた。


続きは明日の午前中を予定

「旅行へ出たが・・・」


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