多恵と花楓
多恵の死
四月の朔日になった。浅間神社の祭りの日が来た。
浅間山に続く参道の両側には沢山の出店が出張っている。
大勢の参拝客が参道を埋め尽くしている。
この日は、スリや小競り合いの喧嘩が絶えない。
それで源蔵を始め辰三など、十手を預かる親分衆は休む間もない。
ところが、意外と同心達には出番が無い。
当番として番屋に詰めている同心も居たが、たいていは休んでいても何も言われない。与力ともなれば出仕の時間が終われば、後は自由だ。
新之助は妻の多恵と二人で祭りに出かける事にした。二人だけにはしておけないと、山岸凛三郎がこれも妻の雪と二人で新之助たちに着いて来た。
二人には一男一女の子供が居たが、それは誰かが面倒を見ているのだろう。
着流し姿の新之助と桜をあしらった着物姿の多恵が並んで歩いて行くと、
時折沿道に並んだ店の主人たちが出て来ては頭を下げている。
二人の後ろには凛三郎夫婦も並んでいる。背の高い新之助と
桜の花が舞ったような多恵の姿に、遠巻きに見とれている民衆も居た。
それほど二人が歩く姿は、参拝客の目を引いている。
日はまだ沈みそうもない時刻だ。
二人は浅間山の参道である山道を上り詰め、神社に詣でた。
さい銭をあげて鈴を鳴らすと、二礼二拝一礼の動作をする。
多恵はずっと目を瞑り、頭を下げて何やら長い願い事をしている。
参拝が終わると麓まで降りて茶店で休む事にした。
「先ほどは何やら長い間、願い事をしていたようですが、
何をお願いしていたのですか?」
新之助が聞くと、多恵は申し訳なさそうに俯いた。
山岸と妻女は少し離れた席に座っている。
「はい、お叱りを受けるやもしれませんが、一日も早く子が
出来ますようにとお願いをしておりました。もう三年になります。
このままでは旦那様に申し訳なく、居たたまれなくなる時もございます。
蒲生家が絶えて良い筈が有りません。このまま子が出来なければ、
私を離縁して頂かなくてはならないとも思っております。」
そう言われると、新之助にも憐憫の情が湧いて来る。
「何を詰まらない事を言っているのですか。何時も言っているでしょう。
子供は授かりものだ。焦っても仕方がない。それに子が出来ないというのは、何も多恵だけの責任ではないのだから。私に子種が無いのかも知れないし。」
「そんな事はおっしゃらないでくださいまし。私が悪いのに
間違いは無いのですから。」
多恵がさらにうな垂れる。
「よそう。もうその話は。今日はめでたい祭りの日だ。
何か買って帰えろうか。」
そんな時、参道を下手から登り口へ向って、武者籠が一台近づいて来た。
籠は前後に二人ずつ、都合四人で担がれている。その両側を一人ずつの
友侍が警護をしていた。
その籠が近づくと、大勢の参拝客は両脇へ避けてすっと道を開ける。
あたかも波をかき分けて行く大船の様相だ。
籠が新之助と多恵が座る縁台の前に来ると、速度を緩めたような
気配がした。
が、何事も無かったように又参道を進んで行った。
「あのお籠は何方のお籠でしょうか。ご立派な造りでございましたが。」
多恵が問うた。新之助にその持ち主は分からない。
籠の屋根には家紋が記されていたが、一年半が経った今でも家紋とその家名がまだまだ一致しない。
少し離れた山岸凛三郎に、その家紋の家名を聞いてみた。
「あのお籠は寺社奉行の匂坂彦四郎様でございます。先般、この浅間神社
の境内へ取り方を向かわせようとした折に、本橋様より、寺社奉行の管轄
であるからまかりならん、と差し止められたそのご奉行様でございます。
ちなみに、噂話ではありますが、境内へ入らなかった事で特に
町奉行所とは諍いが起こりませんでしたが、匂坂様はあまりいい気持ちでは
なかったのではないかと聞き及んでおります。
まあでも、噂話ですから余りお気にされなくてもよろしいかと存じますが。」
山岸はそう答えたが、新之助は、それで私の顔を確認するために籠の
速度を緩めさせたのか、とそう思った。
それから何日か後に、日を置かずに多恵が実家である本橋家へと足繁く
通い始めた。
初めの内は、何やかやとその理由を申し立ててはいたが、
その内に何も言わずに出かけるようになっていた。
またその表情に、憂いの影が日に日に増して来ている。
新之助は、何かあるのではないかと、寝屋に入った後で多恵に
問い質してみた。
「多恵、何か心配事でもあるのですか。この頃は時折、実家へ
足を向けているようですが、それと何か関係が有るのですか。
私は実家へ行くな、と言っている訳ではありません。多恵の表情が
すぐれないように見えるので、心配して聞いているのです。
何か理由が有るのでしたら、隠さずに聞かせてくれませんか。」
すると、多恵は布団の上に正座をして、三つ指を付き新之助に頭を下げた。
白の寝間を着ていて、髪は長く腰の辺りまで下ろしてその先で結んでいる。
「申し訳ありません、旦那様。隠していた訳では無いのです。
私はどうしたら良いのか分からなくなってしまったのです。
お願いでございます。私を離縁して頂けませんか。」
そう言って、肩を震わせている。
新之助は何か理由がある筈だと思ってはいたが、感情は表に出さずに
そっと聞いてみた。
「私が嫌になって別れたいと言うのであれば、直ぐにでも離縁状を認め
ましょう。でもそうでなければ、私から離縁状を認める訳にはいきません。
何でも話して下さい。私達は夫婦なのだから。何が有ったのですか?」
多恵は暫くの間、声を殺して泣いていたが、顔を上げるとそっと袖口で
涙を拭いた。
「私に子が出来ないからです。私には妻の資格がございません。」
か細い声でそう答える。
「そうではないのでしょ、実家へ何度も通っているという事は、
舅殿から何か言われたのではないのですか?」
すると多恵は又何度も、申し訳ありませんと繰り返す。
「多恵に話すつもりが無いのだったら、私から話が有ります。
私は未だに、多恵と所帯を持った折の記憶が戻らない。
それでも多恵のお陰で、どうにかこの一年半余りを無事に過ごしてきました。これは全て多恵のお陰なのです。
私は多恵が私から離れてしまえば、何も出来ない木偶の坊に成り下がってしまいます。それだけではない。何と言っても多恵が愛しい。
多恵の為に生きたい。舅殿から何を言われたかは分からないが、
それを気にしないようにはできませんか。
親を取るか私を取るか、と言っている訳ではありません。
多恵には両方を大事にして欲しい、と思っているだけです。」
「それが出来そうにも有りませんから、こうして悩んでおります。
いえ、私には旦那様の方が、親よりも大事なのでございます。
私を愛しいと仰ってくれている、旦那様が大事なのです。だからこそ、
余計に旦那様のお子を産めない、自分が情けないのです。
それに・・・・・。」
感情を露わにしてそこまで言うと、多恵はその先を言い淀んだ。
「やはり、何かあるのだね。何もかも話して貰えませんか。」
多恵は躊躇いを見せながらも、何かを決断したようだった。
今度は無理にでも感情を押さえて、静かに話し出した。
「あと、一日、お待ち願いませんでしょうか。気持ちを整理して
必ずお話しします。それと、恥を忍んでお願いがございます。
今夜はこのまま、多恵を抱いていて頂けませんでしょうか。
お願いいたします。この通りでございます。」
多恵は布団に頭を擦り付けるようにして懇願した。
泣いているようだ。新之助はその様子から、得体のしれない不安を感じた。
多恵の手を取ると体を引き寄せ、優しく肩を抱きしめると、
耳元でそっと囁いた。
「多恵、死ぬなよ、どんな事が有っても死のうとは思うなよ。
私は何時も多恵の傍に居る。」
多恵は新之助の胸に顔を埋め、体を震わせて泣いている。
次の日の朝、いつものように周囲には、何事も無かったかのように
支度を整えると、新之助は奉行所へ出仕して行った。
一日の仕事が終わり家に帰ると、多恵の姿が見えない。
胸騒ぎがして女中頭のはるに訊ねると、奥様は今日もご実家へ出向く、
とお出かけになりました、と告げた。
部屋に入ると、机の上になにやら文が残っている。
着替えをせずに、その巻文を開けた。
其処には多恵の字で、長い文章が記されている。それを読む事なく、
急いで多恵の部屋へと出向く。
「多恵、入るぞ!」
廊下から声を掛けても返事はない。襖を開ける。
するとそこには、白装束の襟元を赤く染めて多恵が蹲っていた。正座のまま足首から腿にかけて腰紐が固く結んで有り、
足元も着物の裾も乱れていない。
正座のまま体だけが前のめりになって、顔は畳を向いている。
その畳の上には白い敷布が敷かれていて、それも血で赤く染まっている。
短刀が握りしめられている手が、だらりとその敷布まで伸びていた。
「たえっ。」
思わず駆け寄り、その体を抱き起す。既に顔は蒼白でこと切れている。
喉元がぱっくりと赤く開いている。体は冷たくなっていた。
主人の声を聞いて、女中のはるが何事かと駆け寄って来た。
庭先からは治助が、慌ただしい足音をさせて走って来た。
新之助は多恵の死因を、突然の病と偽って奉行所に届けて受理された。
多恵は、それまでの経緯を文章によって残していた。
《新之助様へ お優しいお言葉を掛けて頂いたにもかかわらず、
このような仕儀になってしまい大変申し訳ありません。
多恵の最後の我儘だと思召して、ご勘弁くださいませ。私が新之助様のお子を宿せなく心苦しく思っていた事は、偽りのない気持ちでございます。
それでも新之助様のご恩情に包まれて、幸せな毎日を過ごさせて
頂いておりました。
昨日、離縁を口にしましたのは、本心ではございません。
心苦しくは有りましたが、一時たりとも新之助様の傍を離れたくない、
そのような気持ちで一杯でございました。
ならば、なぜ命を絶とうと思ったかと、訝く思われるやもしれません。
その始まりは、あの浅間神社のお祭りの日でした。
あの折、寺社奉行の匂坂彦四郎様が、駕籠で私どもの前を通り過ぎて
おられました。
後日、父宗右衛門から聞いた話でございますが、その折に私めを
見初めてしまったとの事でございます。
ご存知のように匂坂様は奥様を亡くされて、既に五年が経っておられます。
お年は三十六歳とお聞きしました。
上のお子はもう直に元服を迎える手はずになっておられ、
二人のお嬢様も八歳と六歳になられておられるとの事でございます。
私が新之助様の妻だという事を承知した上で、父に私を正室として迎えたい、との意向を示されたとの事でございました。
父は、勿論最初は私が人妻であることを理由に、
御断りをしていたようですが、ご奉行様のたっての願いとの申し出を、
断り切れなかったと申しておりました。
でもそれは理由のほんの一つでしかなく、匂坂様は兄宗充郎の出世を
ちらつかせていたのでございます。
続きは明日 「仇討ち」




