艶
目明し誕生
源蔵が山岸に声を掛けた。
「山岸様。蒲生様はあの時以来、人が変わったと思われませんか。前の蒲生様とは全く別人のように思われますが。」
あの時、というのは蒲生新之助が八幡山でがけ崩れに遭遇して、怪我をした事を指している。
「蒲生様はあの折、山岸様をお助けになり、自らが犠牲になったと評判になっておりましたが、実際は蒲生様が崖崩れから我先にと逃げるために山岸様を突き飛ばした、と聞き及んでいます。
山岸様は運よく、崖崩れから逃げられましたが、蒲生様はその突き飛ばした時に躓いて転倒したために、土砂に流され怪我をされたと聞きおよびました。
それがあまりにも無様だったために、舅の倉橋様が話をお作りなさったとか、そんな噂話をお聞きしましたが、実際はどうだったんでしょうか?差し支えなければ、お聞きしとうございます。」
山岸はその言葉を黙って聞いていたが、思案の末に歩きながら口を開いた。
「源蔵、お前は間違った噂話を聞かされたな。正直な話、蒲生様は直ぐに感情的になり部下を怒鳴りつける事も有ったし、配下である同心の手柄を、
あたかも自分の手柄のように吹聴していた事も、一度や二度ではない。
でもそれは致し方ない事なのだ。与力様の誰もがそうであり、蒲生様一人が
そのようにしていた訳では無い。
ただ、それを隠すのが苦手なだけだったのだ。でもな源蔵、あの時に限っては、決して倉橋様の作り話ではない。
当事者の、私が言うのだから間違いはない。あの時、直ぐ近くで崖崩れが起きて、私の頭上には大量の土砂が押し寄せて来た。
私は一瞬で、もうだめだと諦めたのだ。その時に、私の前を歩いておられた
蒲生様が、振り向きざまに私を後方へ突き飛ばしてくれたのだ。
がけ崩れの幅は源蔵も存じておろうが三間ほどだったが、その境は私の
直ぐ後方三尺ほどだったのだ。
蒲生様の前方は二間以上崩れ始めていたのだが、蒲生様はそれを見極め、
そのまま居たら自分も私も土砂に流され助からない、と思われたのだと思う。
せめて私だけでも助かればよいと、思い切り私を後方へ突き飛ばして、
崖崩れから救ってくださったのだ。
あの時、蒲生様はどうやっても土砂からは逃げられなかった。
私は逃げ遅れて、後方へ飛ぶこともできなかったのだ。」
源蔵も山岸が話し終えるまで黙って聞いていたが、
一区切りつくと自分の考えを口にした。
「そうだったんですか。でもそうであっても、あれから蒲生様は随分と
お変わり成された。
まずあのお言葉だ。上から押さえつけるようなお言葉ではなく、何となく
我らと同じ目線で話をされているようなそんな感じに思えます。
それと夏をかどわかした者共をお縄にした時は、十両と言う金を私ども下々にお分け下さり、また蒲生様が、駿州屋から礼だと受け取った三〇両もの大金も、山岸様や川辺様ら腹心の同心へ分けて下されたとか、
今日のお艶や私ども岡っ引きや取り方などに下された温情あるお言葉なども、今までにはない事でした。
以前の蒲生様では、考えられない事だらけです。お艶を見張り、
危険と判断したら仁吉を捕らえるよりお艶を助けろ、なんて言葉は
どう考えても信じられねえ。一体、どうしちまったんですかね。」
それを耳にしたお艶が、驚いた顔をして山岸に訊ねた。
「えっ、蒲生様は仁吉を捕らえるより私を助けろ、と仰ったんですか?」
それに対して、山岸が答える。
「ああ、そうなんだ。蒲生様は誰の命も同じ重さである、と話されていた。」
「そんなお考えの人が、お侍さんの中においでになるんですね。有難い事です。蒲生様に足を向けて寝られません。」
お艶が涙声で言うと、山岸が話を続ける。
「何にしても、源蔵の言うように蒲生様はこの一年半の間に随分と
お変わりになった。
雪の申すには、多恵様とも前よりずっと仲睦まじい様子だ、と言っていた。
やはり、あの事故が蒲生様を変えたのかも知れない。
後は多恵様との間に、お子が授かればよいのに。」
雪というのは山岸凛三郎の妻である。そんな三人の話は、
他の誰も聞いてはいない。
夜は更けていく。取り方を含めて総勢が、蒲生家へと足を進めた。
蒲生新之助は布団の中で天井を見つめていた。横には別の布団の中で
妻の多恵が、程よい疲れが出ているのか、小さく寝息を立てている。
この時代に飛ばされて、長沢祐一はもう一年半になる。
普段は蒲生新之助として立ち振る舞う事にも少しは慣れて来ていたが、
こうして布団の中に入ると、以前の長沢祐一が顔を擡げて来る。
体は新之助なのに、中身は祐一なのだ。祐一だと忘れかけている時もある。が、紛れもなく自分は長沢祐一だ。
年ももう、四月が来れば七〇才になるはずだ。
あれから娘婿の矢島駿はどうなったのだろうか。意識は回復したのだろうか。
それより何より自分の体は、長沢祐一の体は今どうなっているのだろうか。
蒲生新之助の体の中に長沢祐一が居るように、長沢祐一の体の中に蒲生新之助が生きているのだろうか。
それとも祐一の体はもう令和の世には存在していないのだろうか。
考えても仕方のない事だと分かっていても、考えざるを得ない。
時折、たまらなく令和の世が懐かしくなる。
あの時代へ戻りたい。いや何としても戻るんだ、そう言い聞かせてもその手段は思い至らない。
多恵に対しては、この体は新之助なのだから夫としてその責務を
果たさなくてはならない、と言い聞かせる。
と同時に、先ほどのような、その甘美な一瞬を享受している自分も居る。
その後で祐一の妻の芳美に対しては、後ろめたい気持ちにもなる。
でもその度に、これは浮気なんかではない、生きている時代が違う、
仕方のない事だと自分に言い聞かせる。
なんにせよ、新之助の体の中で新之助と祐一が葛藤している。
また、令和の世に帰る事を半ば諦め、もはや新之助に
ならなければならないと、争っても居る。
そのようにして自分の考えを巡らしていると、ふと時の流れというものを
考えてしまう。今この元禄の世は、西暦に直すと一七〇〇年頃で
あろうから、令和の世は今から三二〇年程後の世になる。
娘の美津子が事件に巻き込まれて、駿君と出会う頃に何とか今の状態を
メッセージとして残せないか、そう思ってもなかなかいい方法は見つからない。
自分が生活していた時には、そんなメッセージを過去から受け取った覚えもないのだから、方法はないのかも知れない。
でもふと思うと、あの身延山久遠寺の階段で転落した後であれば、もしかしたら何かを残す事が出来るかもしれない、まだ自分は経験していないのだから。
しかしその時に、誰かが何かのメッセージを受け取ったとしても、
元禄の世に自分が飛ばされたと分かるかも知れないが、
何も役には立たないだろう、その解決策は無いのだから。
だったらメッセージでは無くて何か役に立つ物は無いか、
例えばその後の家族の生活に役に立つもの、そうだ金のようなもの。
そこで小判は残せないかと思い付いた。
元禄小判であれば、手元に何百枚もある筈だ。その内の何十枚でも
後世に残す事が出来れば、令和の家族の手助けになるかも知れない。
そう思い至ると、早速それを実行に移したくなった。
まず、小判を入れる箱を拵えよう。小判はその形状から六〇枚にした。
そうすれば縦二〇センチ、横三〇センチ、高さ一〇センチ程度での箱で
収まるだろう。
翌日、起きると直ぐに財布から小判を出して、その寸法を測った。
丁度六〇枚入るように寸法を書き写すと、それを出入りの建具屋に
箱を作るように命じた。
箱も蓋も厚い樫の木で作り、その表面は全て銅板で覆うようにする。
なるべく腐食しないようにする為だ。
なにせ、三〇〇年も持たせなければならない。
その箱は翌日には出来上がって来た。
その中へ小判を六〇枚入れて蓋をして、その上からこれも銅線で
十文字に縛る。
銅線は箱の表面を削った溝の中に納まり、少しくらいの衝撃では蓋が
開かないように工夫させた。
そこまでは直ぐに準備が出来たが、改めて考えるとうまく行きそうにない。
三〇〇年は長すぎる。
保管場所も無いし、仮に保管場所を確保してもその場所に三〇〇年も
見つからずに残せるとは思えない。
しかも、それを家族に伝える手段が無い。
そこで、考えを変えた。うまく行けばそれでよいが、だめで元々だ、と。
そんな平穏な日々が何日か続いている。このところ大きな事件も無い。
お艶からも山岸凛三郎からも、佐伯主水や丸山藤九郎についての報告も無い。
探索は続けているのだろうが、進展が無いのだろうと思っている。
そんなある日、新之助は凛三郎を呼び寄せた。
凛三郎は奉行所内の居室へ襖を開け立膝を附いて入ってくると、
襖に向かって向き直ると両手でその襖を閉める。
新之助が座る正面へ進んで座ると、深々と頭を下げた。
「お呼びでございましょうか?」
「ああ、でもそんなに畏まるほどの話ではありません。実はお艶の事です。
閻魔の仁吉を捕縛するにあたって、お艶の働きは見事でした。
私はお艶に褒美を与えると約束しましたが、その事です。」
「あの、その件でしたらどうぞ、お気になさらないで頂けたらと思います。
私の方から、十分とは言えませんが、金子を与えておきました。
お艶も蒲生様のお言葉だけで充分だ、と申しておりましたゆえ。」
「ええ、それは聞いています。だが私としても約束をした以上、
その約束を果たさなければならないと思っています。
そこで相談ですが、お艶へ正式に十手を授けてはどうかと思いますが、
どう思われますか?」
「えっ、十手を与えると言うのは、つまり目明かしの列に迎い入れるという事ですか?お艶は女ですよ。女を、目明かしになされるおつもりですか?」
「不服ですか?」
「いえ、不服という訳ではありませんが、前例のない事ですから、
それに他の親分衆が何と言うか。縄張りの事も有りますから。」
「その根回しを、山岸殿にお願いしたいのです。お艶への褒美という
意味合いも有りますが、お艶の働き振りは他の十手持ちにも、良い影響を
与えると思いますし、何よりお艶の生き甲斐にもなるように思います。
それとその力があるものには、男とか女とか、侍だとか町人だとか、
そんな垣根は不要だと考えています。
十手を与え、今までよりも十分な手当てを出せれば、お艶はもっと
動きやすくなるし、その分成果も期待できると思っています。
その手当については、私のほうで賄います。十手も用意しましょう。
お艶にはその力があると思いますが、どうでしょうか。
それにお艶には縄張りの垣根も取り払い、府内をくまなく自由に探索して
貰いたいとも考えています。」
新之助の考えに凛三郎は驚いた。前例を覆し、
男女の垣根も縄張りも取り払うという。
しかし、そのほうがお艶にとっては好都合であろうし、
力も発揮できるだろうと思われ、またお艶にも奉行所の後ろ盾が
出来る事に因り、より多くの成果も見込まれると思われた。
「有難うございます。早速、お艶にその旨を伝え、
十手も授けるように手配を致します。源蔵や、辰三さえ納得すれば
後はどうにでもなります。そのほうは私にお任せください。」
山岸凛三郎はそう答えると、新之助の居室を退去して行った。
新之助は早速、艶を呼び出した。
目明かしになる気が有るかどうかを確認するためだ。
当時、目明しは奉行所の正規な制度ではない。見回り同心が、自分の采配で
勝手に利用していただけだし、その賃金も小遣い程度だった。
十手も、何時もは手元には無く、必要な時にだけ奉行所へ取りに行っていた。
だから、世間では親分さんと持ち上げられていても、その実情は
それ程裕福ではなかったし、他に仕事を持たなければならなかった。
主には、女房に飯屋を切り盛りさせたり、髪結いをさせたりして
日々の糧を賄っていたのだ。
艶も、その例に漏れない。事件が有り探索が必要な時には、山岸凛三郎から
少しの賃金を得ていただけで、十手すら持ってはいなかった。
だから探索時以外では、自分の食い扶持は自分で稼ぐしかない。
艶は、手先が器用だったことから、着物の仕立てや縫い直しなどをして、
その口を養っていた。
新之助に呼び出された艶は、新之助の前で頭を下げた。
「艶、閻魔の仁吉を捕らえた時の働きは見事でした。
これからも、山岸殿の為に働いて頂けますか?」
「勿論でございます。蒲生様の為にも、身を粉にして働く所存で
ございます。」
「そう言って頂くと、とても心強い。それで改めて艶に、
十手を持ってもらいたいと思っています。
今までは、十手も無く働いてくれて、不自由な思いもしたと思います。
これからは必要な時には、拙宅へ取りにくれば用意をしておきます。
源蔵たちのように、奉行所へ取りに行く必要は有りません。
それに、これは他の目明かし達の習いとしている事でもあるのですが、
いつでも拙宅でも食事は用意しておきます。
それに、府内の何処で食事をしても、その支払いは不要です。
そう言う決まりですから、遠慮はいりません。
他に、賃金も多くは有りませんが、私から支払います。それで得心して頂けますか?」
艶は、目を丸くしている。
「得心だなんて、そんなにして頂いて、どうお礼を言っていいか
分かりません。ありがとう存じます。」
「それと、住まいの事ですが、今は大浜の小屋と後は何処でしたか?」
「はい、両替町の裏通りに借家をしておりますが。」
新之助はしばらく考えていたが
「それでは申し訳ないが、足洗へ移って頂けないでしようか。
両替町は他の目明かしの縄張りでもあります。足洗には、その縄張りとする
目明かしはいないし、近頃、あの辺りも段々と開けてきました。
十手持ちが、一人は必要になって来ています。どうでしょう、
勿論、その費用の事は考えなくて結構です。」
「私に依存は有りません。どうぞ、よしなにお取り計らい申し上げます。」
艶は、余りの好待遇に驚いている。
「その準備と、根回しは山岸殿がやってくれています。後は、山岸殿と相談して進めてください。」
こうして、艶は晴れて十手持ちの目明かしになった。
続きは明日「多恵と花楓」




