多恵と花楓
仇討ち
父が与力筆頭を辞せば直ぐにでもその後を継がせ、遠くない先に町奉行にも推挙しよう、と約束をされたようなのです。
さらに、私に新之助様の子が授からない事を持ち出して、新之助様にとっても私を離縁し、新しく後妻を迎えた方が蒲生家の為になる、私にとっても、匂坂様には既に子が居りますから、母になる歓びが味わえる、と甘言も弄したようでございます。
また以前、新之助様が駿州屋吉兵衛の娘、夏を浅間神社の境内で助け出した事も、今更ながら持ち出して、あの折はそれを知っていたが、本橋家の為に黙っていた、その気になれば蒲生新之助を取り押さえる事や、父を糾弾する事も可能だと、脅すような言葉もあったと聞き及びました。
私は父から、新之助様のお子が出来ない事を理由に、離縁をして貰うようにと度々説得をされ、私がそれを躊躇っておりますと、本橋家の為だ、兄宗充郎の為だ、蒲生家の為でもある、と強く申されるのでございます。
私はついに、新之助様の為にも新之助様に離縁をして頂き、父の申すように匂坂様に嫁げば、万事丸く収まるのではないかと考えてしまいました。
でも、私はそれこそが許せなかったのでございます。一時でも、そのように思ってしまった私が許せないのです。
私は、新之助様の元を離れたくないのです。かと言って、その我儘を通せば、本橋の家と蒲生の家にも災いが降りかかるのは必定です、それで私は、自害をする決心をいたしました。
ただ一つ、申し添えさせて頂ければ、私の自害は新之助様が離縁状をお示し頂けなかったからではございません。
あのお言葉は、大変うれしゅうございました。新之助様には、私亡き後に後添いをお貰いになり、お子を授かり末永くお過ごしいただくように願っております。
最後に、昨日の新之助様の、死ぬなよ、のお言葉、身に染みて嬉しゅうございました。願わくは、本橋の父をお許し願いとうございます。 かしこ》
新之助の心の中には匂坂彦四郎に対する憎悪の想いが、ひしひしと湧き上がって来ていた。
ただ、それよりも自分の対処が間違っていた、とも反省をしている。
今は令和の世ではない。元禄の世なのだ。男女が平等に扱われる素地が無い。
女性は男性の道具でしかないような扱いを、生まれた瞬間からされている。
特に武家社会は、男女の間は言うまでもなく上下の格差も著しい。
上の命令はたとえ理不尽だと感じていても、それを実行しなければ生きていけない。
そんな世の中だ。もっと、その世の中の仕組みを熟慮すべきだった。
匂坂に対する思いは、新之助の胸の内だけにとどめて置く決心をした。
下手に動けば、自分だけではなく橋本家にも災いが及ぶかもしれない。
世の中の仕組みが変わるようになるのには、まだ二百年もかかる。
多恵の葬儀は滞りなく行われた。
幸いにも多恵の死因については、新之助と本橋宗右衛門の二人だけが知っているだけだ。
はると治助には、硬く口止めをしていた。
お家の為だからと二人は、死んでも口外いたしません、と約束をしていた。
宗右衛門の心中は推し量れないが、家の不利になるような事はしないだろうと思っていた。
四十九日が過ぎた。新之助の回りには、いつもと変わらぬ日常が戻って居る。
ただ、其処には多恵の姿は無い。
家の中の事は、はるが中心に取り仕切っていてくれるが、新之助の身の回りの世話だけは、はるでは不足だ。かと言って後添いを貰うつもりもない。
身分の有る相当な女性も、理由もなく家の中へ入れられるはずもない。
新之助は、どうしても必要な時だけはるに頼み、後は一人で何とか対処している。
時折だが山岸凛三郎の妻女雪が、様子を見に来てくれて、行き届かない所ははるに命じている。
また、家来衆にも何かと気を使っていてくれるので、新之助はおおいに助かっていた。
田植えも始まろうとしていた頃だった。番屋から奉行所に訴状が届いた。
受け取ったのは本橋宗右衛門だ。
宗右衛門がそれを開くと、目を瞠った。
そして、にんまりと笑った。
宗右衛門はその日、その居室へと新之助を呼び出した。
「奉行所宛に、仇討免許状と一緒に訴状が届いた。」
宗右衛門は、その前で平伏している新之助に対して静かに話し出した。
「訴状によると、長年追い求めた父親の仇が、この駿府に住まわっていることがあい分かった。ひいては仇討を行いたいので尋常に勝負をしたい、その折は奉行所の立ち合いを願いたい、との内容である。
そして、この後が肝心であるが、その仇討の相手はなんと其処許、蒲生新之助だという事だ。
往年、蒲生新之助が江戸に剣術の修行に出かけた折、他流試合で負けた田所弦之介と言う男に闇討ちを仕掛け、これを殺害したとある。
仇討の主はその息女の花楓と息子弦一郎という姉弟だそうな。助太刀がこれに一名加担するとある。
其処許に覚えがあるであろう。奉行所としては放っておけない。田所の出仕先である岩城藩の仇討免許状が添えられておるからの。」
新之助は驚いた。
二年前以前の事は記憶にない、以前の新之助の記憶はないからだ。
したがって、その仇討が事実に基づくものかそうでないかの判断が出来ない、そのように説明しても、宗右衛門は聞き耳を持たない。
この際に、新之助を葬り去ろうという魂胆なのかもしれない。
宗右衛門としては、新之助を多恵の仇と思っているのかも知れない。
離縁状を認めなかった新之助が多恵を死に追いやった、そう解釈しているようだ。
仇討は町奉行の裁可が下り、二日後に安倍川のほとりで執り行う予定になった。
新之助は身に覚えは無いが、藩のお墨付きが有るのであればそうなのかもしれない、と思うようになっている。それでも討たれる訳にはいかない。
新之助の体が無くなれば、祐一の心は何処に行くのか。行き場所がなくなる。
それは則ち祐一の死に他ならない。
いや、もしかしたらそれを切っ掛けに、元の体に戻るかも知れない、そうも思ったが、それを確認した時には既に死んでいる可能性も有る。
そんなギャンブルは出来ない。それにもしそうだとしても新之助の体を犠牲にして、自分だけ元の時代と体に戻る訳には行かない。
だから討たれる訳にはいかないが、さりとてその田所姉弟を討ち取ろうとも思えない。どうしたものだろうか。
新之助である祐一は、熟慮を重ねた。そして当日の朝が来た。
安倍川のほとりには片側だけに一〇間程幕が張られている。
その前に見届け役として、本橋親子とその家来が陣取っていた。
新之助配下の同心たちも立ち姿であったが、仇討場の回りに見える。
蒲生新之助は、特に身支度をせずに、羽織袴の何時ものいで立ちで屋敷を出た。
はると治助、家来の面々も心配そうに見送る。
新之助が討たれれば、自分たちの身にもその影響が出る。
主人を失い、禄からも見放される。新之助は家を出る直前、下男の治助に何やら耳打ちをした。治助は黙って頷き、行ってらっしゃいませ、ご武運をお祈りいたします、と小声で言うと主人の後姿を見送っている。
良い天気だった。太陽は中天で輝き、風も凪いでいる。
新之助がその仇討場へ到着すると、回りにはその様子を見ようと大勢の町人や浪人に交じって、城の侍たちの姿も見える。
その人垣を抜けると正面に床几に座った本橋親子と、その横に立膝を着いて待っている田所姉弟、助太刀だと思われる老侍が控えていた。
新之助は正面に向かって一礼した。
「私が蒲生新之助です。田所姉弟とお見受けします。
お父上の仇を討ちたいとご苦労をされたご様子、痛み入ります。
存分に掛かられよ。お相手を致す所存です。」
どよめきが上がった。
日頃から新之助の働きや、その動静、物事や人に対する姿勢を
見聞きしている人たちが多い。
これは何かの間違いだ、蒲生様が闇討ちするとは信じられない、
と言う声が、あちらこちらから聞こえて来る。
田所姉弟を擁護、応援する声は少ない。かえって姉弟を罵倒する声が上がる。
それを見て、三人に動揺している様子が見える。
姉の花楓は、年の頃なら二十歳くらい。今が盛りと花の香が漂うばかりの
体を、白装束で包んでいる。頭には、これも白の鉢巻を締めている。
弟の弦一郎は、元服を迎えるかどうかの年頃で、顔にはまだあどけなさが残っている。こちらも白装束姿だ。
助太刀の老侍だけは、茶の着物に黒の袴姿、黒の襷掛けで手に槍を
携えている。
父親の元家来であったのだろう。
その三人が、決死の表情で中央へと進んで来た。
それを見ると民衆からは非難の声が消え、悲鳴のような労わるような
そんな声に変っていた。
中には、こんな仇討は止めさせろ、と言う声もある。
どちらが討たれてもいい事は無い、そんな声のようだ。
新之助は、羽織を脱ぐと丁寧にその場でたたみ地面に置いた。
懐から紐を出すと、口に咥えて両袖を襷掛けにして三人に対して一礼した。
本橋宗右衛門が声を張り上げた。
「今より、田所弦之介の遺児、花楓と弦一郎の仇討の儀を執り行う。
どちらが勝つにしろ、双方に遺恨なきように。駿河町奉行筆頭与力筆頭、
本橋宗右衛門が見届ける。」
それを合図に、まず花楓が白木の鞘から三尺ほどの刀を抜いた。
オオーという声が周りから上がる。
手拭いを取り出し刀の柄と右手を括り付けて、その上から口に含んだ水を霧にして吹きかける。弟弦一郎も、腰に差した刀をひらりと抜き放った。
花楓が
「田所玄之介の一子、花楓、父の仇、蒲生新之助、覚悟をいたせ。」
そう言い放つ。
老侍はとみると、その二人の正面に立って、槍から鞘を投げ捨てた。
新之助も、刀を抜いた。
新之助に相対したのは、その老侍だ。
一間余りの長槍を両手で扱くと前に突き出し、上から下へとひと振りした。
ブン、という音が聞こえて来る。新之助は慎重に下段に構えた。
間合いを取っていた老侍はそれを見て、
すぐさまに槍を新之助めがけて突き出した。
「きぇーい。」
老人とは思えないほどの声を張り上げ、
後ろに引いていた右足を槍と同時に前方へ繰り出す。
穂先が新之助の体に到達するかと見えたが、その直前に新之助も一歩前に
踏み込むと、その槍を下から上へと払いのけた。
槍は大きく空中で弧を描く。その力を利用して、
老侍は頭上から新之助の肩辺りをめがけて槍を振り落とした。
新之助はさっと後方へ飛んでこれを避けた。
が、其処には弦一郎が回り込んで待ち構えていた。
体制が崩れた新之助に向かって、弦一郎が声を上げた。
「父の仇、新之助、覚悟!」
弦一郎は、刀を正眼から一気に、新之助の左横から突き出して来た。
新之助はそれを自らが転倒する事で避けた。
そして一回転すると、直ぐに立ち上がる。周りからため息が漏れる。
新之助は履いていた雪駄を脱いで、
足袋だけになり両者とも間合いを取る。
続きは明日 「仇討ち場の激闘」




