夏
夏と多恵の対面
「申し訳ありませんでした。つい、取り乱してしまいました。私は、これからもこの家に居ても構わないのでしょうか?」
「当たり前だろう。居てくれなくては私が困る。私は多恵が居なくては何もできない。」
「私は心底、旦那さまをお慕い申し上げております。それで、こんな恋文を見せられて、動揺してしまいました。お許しください。
改めまして、旦那さまがもしお困りのようでしたら、私も一緒に考えさせてくださいませ。本当に、申し訳ありませんでした。」
「いやいや、私のほうこそ何の前触れもなく、こんなものを見せて、悪かった。さきほども申したが、この娘の気持ちを傷つけずに、私を諦めさせる方法はないかと思い、多恵に相談をしたかっただけです。
もう一つ正直に言えば、それによってもっと多恵と心を通じ合えればなお良いと、そう思ったのです。言葉が足りずに済まなかった。」
新之助の言葉に、多恵はまた涙で目を潤ませている。
「旦那さま、多恵は、多恵はそう言って頂いて、とても嬉しゅうございます。」
新之助は正直、多恵の反応と言動に驚くと同時に、この相談は少し間を置こう、そう思い始めた。
自分が思っている以上に、多恵は子供が出来ない自分に心を痛めているようだし、そして何より、新之助を信頼して想っていてくれているようだ。
この相談よりも、今は多恵との時間を大事にしたい。
少しずつ、多恵との距離を縮めていこう、そう思ったのだった。
その翌日、山岸凛三郎が奉行所内にある新之助の居室を訪れていた。
市中見回りの報告や、番屋での出来事、その後の駿州屋や常磐屋の様子などを知らせていく。
一通りの報告が終わり、新之助は少し雑談をしてみたいと思い、凛三郎に話し掛けた。
「山岸殿、雪殿は息災ですか?」
雪というのは、山岸の妻女だ。
「はい、お陰を持ちましてますます元気にしております。ご存知の通り、私は養子の身でありますから、あまり頭が上がりませんが。」
「そんな事もないでしょうが、まあ、お互いに妻女というのは中々思うようには扱えないものですね。」
新之助は、昨日の多恵のうろたえようを思い出して、冗談交じりでそう答えた。
すると、山岸は何かを思い出したように、唐突に話し出した。
「ところで、先日湯屋へ入った時に面白い噂話を聞きました。面白いと言っては、蒲生様に失礼かもしれませんが。」
「構わないから話してみてください。」
「はい、先日の夏の件でございます。夏はもともと活発な娘であったようですが、あのあと人が変わったように沈んでいるという話でした。食事もろくに取らず、毎日ため息をついているという噂話です。」
「それが何で面白い話なのです?それと私とどういう関係が有るのですか。
それと良く分からないのですが、湯屋での噂話というのも気になります。
経緯から話してくれませんか。」
「あっ、はい。蒲生様はもうご存じだと推察しておりましたが、奉行所近くの湯屋には朝一番で参りますのが、我ら同心の務めのようなものです。その湯屋は男女の湯船が別々になっておりますが、我らが入るのは女湯です。」
「いや、私は初耳です。我らが何故女湯へ入らねばならないのですか。
朝一番というのは、分かるような気がしますが。」
「我ら同心は、巷では顔が知れています。同じ男湯へ入っても、なかなか私どもの前では、本当の話をしてくれる者ばかりではありません。
それで女湯へ入って男どもには顏を見せずにいると、朝湯でゆったりとした気分で話す男たちの巷の噂話や、それぞれの本心などが聞けるという訳です。
巷の男たちは、とりわけ職人たちは朝湯を使うのが習わしのようになっていますが、普通の女たちは朝湯に入る習慣が有りません。
それで空いている女湯に入り、男たちの噂話や愚痴などに聞き入るという訳です。ちなみに、奉行所近くの湯屋以外では、混浴の湯屋が多いのですが、そちらには余り出入りをしておりません。」
「男女の湯船が別になっているのなら、湯屋には湯番が居って、男は女湯へは入れないのではないのですか?」
「いいえ、それは同心の特権です。朝風呂の女湯へは、同心は自由に入れます。しかも脱衣所には専用の刀掛けも用意されています。
毎日のように通っていますと、市井の有りようとか、色々な物事の話が聞く事が出き、探索の参考になります。
我らが入る時に、湯番に貸し切りだと言えば、それ以後は女湯へ入ってくる者は、同心以外居りません。」
「そうですか、湯屋については分かりました、それで夏の件と私との関係は何なのですか。山岸殿は、面白いと言っては私に失礼だ、と申されましたが。」
「ははっ、面目有りません。実はその夏の変わりようの原因は、偏に蒲生様であるとの噂話です。」
「私が原因とは、どのような事ですか。」
「まだお気づきになられませんか。夏が蒲生様を想い食事も喉に通らない、
つまり夏が蒲生様に恋煩いをした、という話でございます。」
「はは、それは面白い。巷ではそんな噂が飛び交っていたのですか。そのような噂話が聞けるのなら、私も一度朝湯へ行ってみましょうか?」
新之助は先日、夏から恋文が届いた事を、山岸には話をしていない。
夏の逸話については、知らない振りをしていた。
「はい、ぜひ一度と言わず、何回でもお出かけになられると良いと思います。その時刻では女湯は殆ど空ですが、たまに先客で、妙齢な夫人が入っている場合も有ります。
でも気になさる事ではありません。先方も十分に承知しておりますから。」
そんな話を聞いてから、新之助は一度湯屋へ行ってみたいと思うようになった。
与力といえども、当時は屋敷内に風呂が有る家ばかりではない。
新之助こと長沢祐一は長年の習慣から、その都度銭湯に行く事が意外と苦痛であった。
それで我儘を言って、特別に屋敷内に湯船を造らせ入浴していたが、毎日とはいかない。薪代が意外と高いのだ。
それで二日に一回程度の入浴にしていた。
そんな事が有った何日か後に、改めて夏の件を多恵に切り出した。
今度は多恵も、取り乱す事も無く真摯に向き合ってくれている。
「それで、どうしたら良かろうと思いますか?このまま、知らぬ振りをしても良いのですが、それでは夏の為にはならないような気がします。
先日も、山岸殿から巷の噂話として、夏が私に恋煩いをして、食事も喉を通らない、意気消沈している、という話をしてくれました。
山岸殿にも聞こえているのですから、巷ではどんなふうに話が膨らんでいるか、見当もつきません。あまり話が大げさにならない内に、なんとか夏に納得させる方法が有ればいいのですが。」
多恵は、今日は微笑みながらその話を聞いている。
新之助の本当の気持ちが、分かったのであろう。
それと、何とか新之助の助けになるように、予め考えていてくれていたようだ。
「あの、差し出がましいとは思いますが、一つよろしいでしょうか?」
「ああ、構いません。いい方法が有ったら聞かせてください。」
「いい方法かどうかは分かりませんが、旦那さまが、その若い娘さんに慕われているのは、やはり私としては妬ける話です。
先日、私があんなに取り乱したりしたのは、旦那さまがそのお夏さんという娘に、心を奪われていると思ったからなのです。
旦那さまの心が、そのお夏さんにはない、と信じられる今は、取り乱す事もなくなりました。それはお夏さんも同じ事なのではないのでしょうか。
旦那さまの心の中が見えないから、泣いたり沈んだり、希望を持ったりするのです。ですから、やはり一番いいのは、お夏さんに旦那さまの心内をはっきりと伝える事だと思います。
若い娘さんの事です。苦い経験も、その内に良い思い出に変わるのではないかと思います。」
新之助は、黙って聞いていたがそれでもまだ、納得はしていない様子だ。
「私もそうは思っているのですが、それをどう伝えるかが問題なのです。
私から文を書くというのも違うような気がするし、
かといって駿州屋へ出向く訳にはいかない。
外で二人だけで会えば、いらない波風が立つかもしれない。
その方法が分からないのです。」
多恵は少し考えていたが、直ぐに思案顔が笑顔に変わった。
「それでは方法は一つですよね。この家にお夏さんを招くのです。
私が、腕によりをかけて、ご馳走を造りますわ。
そうして、三人で食事をしながら話をすれば、お夏さんも分かってくれるのではないかと思います。」
これはたまげた、と新之助は思った。
主人に恋する娘に、その女房がもてなすというのだ。
でも、考えてみればそれが一番の方法かもしれない。
夏の父親には、新之助に対する先日の供応の礼だと言えばよいし、夏を招くのは、多恵がどうしても一度会ってみたい、と言い出した事にすればいい。
そうすれば、大げさな話にもならない。
こちらから籠を差し向け、共を一人着けてやれば安心するだろう。
夏には、怪訝な話かもしれないが、新之助も待っている、と伝えれば喜んでくるかもしれない。
多恵が、その支度を調えると早速、駿州屋へ治助を使いに出した。
口上も考えた通りに行うと、駿州屋吉兵衛は喜んで夏を送り出してくれた。
あわよくば、夏の縁談も考えてくれると思ったのかも知れない。
夏の姉の小春は武家へ嫁いでいる。
夏の乗った籠が蒲生家の門前に着くと、其処には女中頭のはるが待ち構えていた。
そのはるを先頭に、夏が脇のくぐり戸から屋敷内へ入る。
後には迎えに行った治助が続いた。
玄関に着くと、上がり框には多恵が正座して待っていた。
その姿は、夏の想像以上に凛としていて、威厳も有る。
町人の娘に、武家の奥方が正座して待っているというのは、夏でも聞いた事が無い。
夏は、すっかり恐縮してしまった。
そして通された部屋は、十二畳も有る書院造の客間だ。
正面には床の間が設えて在り、だるま法師が描かれた掛け軸が掛かっている。
その右横には天袋付きの違い棚、そして左側には廊下に沿って書院が造られている。
その書院の障子からは、外からの明かりが部屋の中へと導かれていた。
そして、床の間の前には、既に膳が用意されていて、座布団も敷かれている。
そして左側の、襖で仕切られた廊下の前と、右側の襖の前にも膳と座布団が用意されていた。
夏が住む、駿州屋の母屋も立派な建物であったが、武家の屋敷に通されたのは、姉の小春が嫁いだ屋敷以来だ。
それも客間ではなかった。夏の緊張は、一気に頂点へ達した。
先に部屋の中へ入った多恵が、夏に声を掛けた。
「さあさあ、そんなに硬くなっていないで、其処へお座りください。」
多恵は、部屋の正面右側の襖の前の席を指し示した。
夏は、それでも畳の縁を踏まないように気をつけながら、その座布団の手前で正座して待った。
それに呼応するように、夏の正面の襖が開き、新之助が部屋へと入って来た。夏は思わず、頭を畳に擦りつけた。
多恵はその襖の前で立っていたが、新之助が床の間の前に座ると、廊下の前の席に正座して座った。
それを見た夏は、座布団へいざり寄って、その端から差布団の上へと移動した。
先に声を発したのは、多恵だった。
「さすが、大店の娘さんですね。ちゃんと作法を心得ていらっしゃる。
これではもう、何処へ嫁に行っても恥ずかしくないですね。」
それを聞いた夏は、顔を赤くして身を縮ませた。
多恵とはそれ程年は違わない、と思っていた夏は、多恵には到底太刀打ちできない、という差を感じてしまったのだ。
いくら裕福な家に生まれ、それなりの教育を受けて来たという自負が有っても、生まれながらの武士の奥方とは格が違う、そう思わされてしまったのだ。
新之助に会ったら、ああも言おう、こうも言おうと思っていたのに、
何も口から言葉が出てこない。
「夏、今日は拙宅までわざわざおいで頂いて、有難う。それに、先日は丁寧な文まで頂き、恐縮をしてしまいました。
今日は、それも含めて夏に礼を言いたくて、こうして来て頂きました。
並んでいる料理は、全て妻多恵の手料理です。遠慮なく食べてください。
食べながら、少しお話をしましょう。多恵もぜひ同席させて頂きたいと言っていましたので、一緒に話を聞かせてください。構いませんか?」
夏は、その新之助の言葉だけで、もう充分だった。
直ぐにでも席を立ちたい気持ちになっていた。
私は後先も考えずに、何と言う大それた事をしてしまったんだろう。
そんな思いと、恥ずかしさで一杯になってしまっていた。
「あ、あのう、本当に申し訳ありませんでした。あんな文をお渡しして、さぞかしご迷惑だったでしょう。身分もわきまえずに大それたことをしたと、恥ずかしさで一杯です。」
そう言うのが、やっとだった。
「そんな事は有りません。恋とか愛に、身分の上下など関係は有りません。
夏の気持ちは、大変うれしく思いました。
ただ、私には多恵という大事な妻が居ります。その妻を差し置いて、夏に心を移す事はあり得ません。多恵は、この世で一番大事な人なのですから。」
それまでは、微笑みながら聞いていた多恵が、それを聞いて座布団から下がって両手を付いて、頭を下げた。
「旦那さま、有難う存じます。そう言って頂き、多恵は本当に幸せ者です。」
傍から見れば、新之助と多恵の、夏に対する芝居のようにも映ったかもしれない。
それでも新之助も多恵も、夏に憚らず、本当の気持ちを言い合っている。
夏は、何故かしらそれを理解した。
この二人の間に、割って入るような隙間は無い。
そう理解もした。
多恵は、座布団の上へ座り直すと、
「さあ、せっかくの料理が覚めてしまいます。後は、食べてからお話ししましょう。お夏さんも、お箸に手を付けてね。」
そう言った。
新之助は料理に手を付け、多恵も料理を口に運ぶ。
夏は、何故だか清々しい気持ちになった。
姿かたちから、その度量まで奥様にはまるで敵わない。完敗だ。
そう思った途端に、腹の音がした。
「ご、ごめんなさい。はしたなかったです。」
「いやいや、遠慮はいらない。どんどん食べてください。何時もは二人だけなので、夏が居ると、料理も余計に美味しくなる。これからも何時でもいい。
遊びに来なさい。私が留守の時でも、構いませんよ。」
新之助がそう言うと、夏は遠慮がちに、頂きます、と言いながら、料理に箸を運んだのだった。
続きは明日 艶




