夏
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新之助と山岸、それに随行していた捕り方の一行は、その場を離れ神社の正面へと回った。するとそこには、川辺辰之進とその一行が、下手人を引き連れて待機していた。
取り押さえられた下手人は、やくざ者が二名だけだった。
新之助が捕らえたのは、浪人者一人とやくざ者が二人だ。一人足りない。
それを見た新之助が、川辺ら同心を集めてこう言った。
「賊は総勢で六人でした。ここに五人捕らえましたが、頭目と見えた浪人者は逃げおおせたと思われます。
その者が身代金の三百両を持ち去ってしまったと思われます。これでは我らの勝利とは言えません。それに、その逃げた浪人者は、その風体が常磐屋事件の時の浪人者の風体と、重なるものが有りました。
一度ならず二度までも取り逃がしたということは、全て私の責任です。御一同には申し訳なく思っています。この通りです。」
そう言って、新之助は頭を下げた。川辺、山岸、宗像ら同心はそれを見て慌てている。
「そのようにされては、私どもが困ります。どうぞ頭をお上げください。それに、賊の一人を取り逃がしたのは、神社の境内へ踏み込む事が出来なかった事に有ります。
それも、蒲生様が身を挺して乗り込んで下された。それで十分でございます。」
山岸が言うと、一同がそれに賛同した。
「いつまでも悔やんでいても仕方がない。それでは引き上げるとしましょうか。」
新之助の言葉で、一行は下手人を引き連れて帰路へ着いた。
時刻は既に四つ半(午後十一時)になっていた。
翌朝、身なりを整えて新之助は、倉橋宗右衛門の部屋を訪ね、昨日の捕り物についての報告をした。
その際に、自身が境内へ踏み込んだ事には触れていない。
「賊の頭目と、身代金の三百両を取り返せなかった事は、偏に私の責任でございます。これからは、その頭目と思われる浪人者の探索に全力を注いで行くつもりです。」
倉橋は、それでも捕り方が浅間神社の境内へ踏み込まなかった事で、面目は保たれたと思っている。
「まあ、致し方あるまい。後は捕らえた者を責めて、頭目と目されるものの割り出しを急ぐ事としよう。その方は、倅宗充郎に任せるので婿殿はのんびりと構えておればよい。」
この度の捕り物で、倉橋の倅宗充郎に出番は無かった。宗右衛門は、それを少なからず不満に感じているのだろう。
それで、一気に手柄を倅宗充郎に取らせるつもりらしい。
それが分かっていたが、新之助は何も言わない。
「分かりました。それではよろしくお願いいたします。頭目の名前だけでも、分かりましたらご連絡いただきとうございます。」
新之助は、頭を下げて倉橋の部屋を後にした。
その日の昼過ぎ、吉兵衛がたってと願い出て、新之助は同心川辺辰之進と山岸凛三郎を伴って駿州屋を訪ねる事になった。
吉兵衛は店の奥座敷へ新之助達を案内して、まず膳の用意をさせた。
酒と膳が揃え終わる頃には、夏が二人の前に艶やかな着物姿で登場した。
そして改めて二人で礼を言う。
娘の夏は、暗がりで見た時よりも愛らしい顔をしている。
また、顔の割にその体は、充分に熟れているように見えた。
胸と腰は大人顔負けに張っている。肌は瑞々しい。
夏は新之助の姿かたちを見ると、胸をときめかしたようだ。
命の恩人が、このようにたくましく凛々しい男だと改めて知ったと思われる。
父親の吉兵衛は、そんな夏の心内は知るはずも無い。
礼の膳が終わり、新之助は帰り際に紫の布で包まれた小判の塊を受け取った。三十両はある重さだ。
三人が奉行所へ着くと、新之助は配下の同心を一堂に集めた。
「昨夜はご苦労でありました。実は先ほど駿州屋に呼ばれて、このように礼だと言って、三十両の金子を受け取りました。
これを私一人で受け取る訳にはいきません。これは皆様で分けて、受け取って頂きたい。一人頭にすると、それ程大きな額ではありませんが。
私の事は考えなくて良いですから。ただし、他の者には内緒にしてください。」
そう言って、笑って見せた。
すると山岸凛三郎が膝を一歩前に進めて言った。
「このような事をなされてはなりません。駿州屋から頂いた物は、全て蒲生様の物です。
蒲生様はまだ、全てを思い出されておらないと存じますが、私どもも何かの折に、それぞれ商家からは付け届けを頂いておりますし、上はそれを黙認しています。それこそ、私どもの事は考えて頂かなくて結構です。」
一同もそれに賛同して、それぞれに頷いている。
「私は各々の付け届けの事は承知していますし、責めようとも思いません。
私も頂く時は頂きます。
でも、これは別です。これからも私の力になって欲しいという、挨拶代わりでもあります。遠慮しないで皆さんで、分け合って欲しいと思います。」
そう言われると、山岸に返す言葉が無かった。
すると年嵩の川辺が
「折角、蒲生様に仰っていただいた事だ。私達も大いに助かる。どうだ、御一同。これはお言葉に甘えて、頂かしてもらおうではないか。」
そう言うと、一同は一斉に頭を下げた。
数日して、倉橋宗右衛門から知らせが来た。
賊の頭目の名前が分かった、という事だった。その浪人者の名前は丸山藤九郎と言い、新陰流の使い手だという事のようだ。
常盤屋事件の時に、逃げおおせた浪人の名は佐伯と言ったはずだ。
それでは違う人物なのか。
新之助は、その佐伯主水という名の者の、顔や姿は見ていない。
人相や風体を、似顔絵や人聞きでイメージしていただけだったが、浅間山で垣間見た頭目と思しき浪人者と、酷似しいていると感じている。
新之助は、其れも含めて探索しなければならないと思った。
ただその知らせと同時に、丸山の探索は宗充郎らが行うので、蒲生たちは他の事件を担当せよとの倉橋からの命令であった。
それを聞いた、川辺や山岸は大いに怒った。
これでは今回の手柄は、倉橋らに奪われる。
夏を無事に取り戻し、小者の捕縛は有ったものの、肝心の頭目には逃げられているし、身代金も奪われている。
何としても、その丸山藤九郎なる人物は、蒲生様の下で捕えなければならない。
そうでなければ、倉橋らに手柄を横取りされるばかりか、不名誉な烙印を押されかねない。そう言って、川辺辰之進は憤慨するのだった。
そんな中、倉橋宗充郎を筆頭にした探索方や捕り方が組織され、後日になって、その丸山藤九郎が潜んでいると思われる屋敷が特定された。
その屋敷は安倍川沿いにあり、半分は朽ちかけている。
倉橋らは勢い、その屋敷を急襲することになった。
ところが、宗充郎ら捕り方がその屋敷へ踏み込むと、屋敷の中はもぬけの殻であり、丸山は勿論、その一味の一人として捕らえる事は出来なかった。
倉橋宗充郎は、地団太を踏んだ。
その数日後、新之助が何時ものように、一人の郎党を従えて奉行所へ出仕しようとしていた道すがら、それを待ち構えていたかのように、一人の子供が近づいて来た。
みるからに丁稚奉公をしている小僧さんだ。
新之助に従っていた郎党は、それを見てその小僧の行く手を遮った。
「これ小僧、このお人は町奉行所与力の蒲生新之助様だ。むやみに近寄るでない。」
郎党に遮られてその小僧は、申し訳なさそうにもじもじしている。
何か言いたい事が有るように見える。新之助は、その供の者を窘めた。
「まだ、子供だ。そんなに横柄にしなくてもいい。これ小僧さん、私に何か用ですか?」
そう新之助に訊ねられ、その子供は満面の笑顔になった。
「あ、あの、こ、これ、お、お嬢様から、あ、預かってきて、新之助様に渡してくれって。」
言いながら、懐から手紙を差し出した。
「お嬢様とは、誰の事ですか?」
新之助が丁寧に聞くと
「あ、あの、おらは駿州屋の丁稚です。お嬢様の名は夏さまです。」
と嬉しそうに答え、手に持った手紙を差し出した。
「渡しましたよ。必ず読んで下せえ、と託りました。」
丁稚だと言った、その子供はぺこりと一つ頭を下げると、逃げるようにその場からいなくなってしまった。
新之助は半ば呆れた顔で、その後ろ姿を見送ったが、興味本位でその手紙を読んでみる事にした。あの、誘拐されて無事に保護した夏からの手紙だ。
どんな内容なのか、直ぐに読みたくなった。
道の傍らに寄って、手紙を開いた。
《新之助様へ、先日は夏がかどわかしに会い、命もないものと諦めていた時に、新之助様のお力でお助けいただき誠にありがとう存じました。
拙宅へおいで頂きました折に、新之助様のお姿を身近に拝見して、胸の動悸が速くなりました。あれ以来、寝ていても起きていても、新之助様のお顔が頭から離れません。
こんな事は始めてで、母親にも言えません。どうか、夏を憐れと思召して、
もう一度夏と会っては頂けませんでしょうか。
もしお会い頂けましたら、それだけで夏は充分でございます。
お願いいたします。かしこ 夏。》
そう認めてあった。
これは恋文か?新之助は、思わず微笑んでしまった。
夏は、確か十六になったと聞いている。
娘十八、番茶も出花、と言われた時代だ。
十六ではもう立派な大人なんだろう。妻の多恵はまだ十九だ。
でも新之助である祐一にしたら、孫の年とそれ程変わりはない。
新之助は、最初の内は誰もが通るであろう青春の麻疹みたいなものだと、ほほえましく思って読んでいたが、そう考えたらそんなに簡単に考えても良いものではないと気付いた。
対処を間違えれば、大事にもなりかねない。
これをネタに、妻多恵の父親である倉橋からの圧力も考えられたし、
なにより夏の人生にも関わるかも知れない。
そうかといって、何もせずに見過ごすわけにもいかなかった。
取り敢えず、手紙を懐へ仕舞うと、奉行所への道を歩き始めた。
その晩の事である。新之助は妻の多恵に、その手紙の一件を打ち明ける事にした。
そう思ったのは、多恵に打ち明ける事で、多恵との距離をもっと縮めたい、
そう思う気持ちも有りまた、それ程多恵と年の違わない夏の気持ちに対する対処の方法が、多恵だったら分かるかも知れないと思ったからだ。
二人だけの食事が終わった後だった。
膳の片付けも終わり、茶の支度をして多恵が新之助の横へ座った。
「多恵、これを読んでください。それから、多恵の意見を聞きたい。」
「何でございましょう?」
多恵が聞いた。
多恵は、新之助の前に茶を出した手で、
新之助が懐から出した手紙を受け取った。
正座をして、徐にその手紙を開く。
黙読していたその目が、驚きの目に変わった。
「こ、これは旦那さまに対する恋文、ですか?」
「そのようですね。どうしたら良いか、迷っています。」
「なぜ、このような恋文を私にお見せになられたんですか?
私を妬かせるためでしょうか。
それとも、私と別れたいという事でしょうか。
私には、旦那さまの子供をまだ身ごもる事が出来ません。
それは大変申し訳ないと思っております。
私を離縁するのであれば、そうおっしゃってくださいませ。
こんな文を、お見せになられる必要は有りません。
私はいつでも、この夏という娘子に妻の座は明け渡します。」
多恵は、動揺して涙まで流している。
新之助は、その反応に驚いた。
そんなつもりは全く無かったし、ただ多恵の意見を聞きたかっただけだ。
新之助の《どうしたら良いか、迷っている。》の言葉に、
別の解釈をしたようだ。
「す、すまん。多恵。そんなつもりではなかったのです。私の言い方が悪かった。そうではなくて、この夏という娘に何と言って返事をしたら良いのか、
私には分からなかったのです。
この娘の気持ちを傷つけず、しかも大げさにもしたくないし、一人の大人の女として扱うには私だけの思慮だけでは、追いつかなかったのです。
それを多恵に相談したかっただけなのです。それに、前にも言いましたが、
多恵に子供が出来ないのは、多恵だけの責任ではありません。
私に子種が無いのかも知れませんし、それこそ子供は授かりものなのです。
多恵が、子供の事で気に病んでいるのは、充分に承知しています。
でも、そんなに気に病まなくても良いのです。
この家には舅も姑もいませんし、私の代で蒲生家が無くなっても構わないとさえ思っています。私は多恵が傍に居てくれるだけで、それだけでいいのです。
だから、そんなに怒らないで、一緒に考えてくれませんか。」
新之助は、肩を震わせている多恵の手を握った。
多恵も、新之助の胸の中に顔を埋めて来た。
新之助は、そんな多恵を抱きしめると、そっとその唇を吸いに行った。
暫くして落ち着いて来たのか、多恵が座り直して新之助に対して、
三つ指を付いて頭を下げた。
続きは明日 「夏と多恵の対面」




