最終頁:丑三ツ書店の清書係
深夜二時。装幀市の夜は、どろりとした闇と、人工的な街灯の光が混ざり合い、奇妙にねじれた色彩を帯びている。
中心街から少し外れた国道沿い。二十四時間営業のファミレスの看板だけが、この街にまだ呼吸をしている人間がいることを証明するように、薄暗い駐車場を照らしていた。
店内の奥まったボックス席。
現役の女子高生である木路 仮名子は、冷え切ったドリンクバーのメロンソーダを見つめながら、指先を小さく震わせていた。深夜に家を抜け出すという背徳感よりも、胸を占めていたのは得体の知れない焦燥と、誰かに縋りたいという切実な願いだった。
そんな彼女の正面で、場違いなほどに朗らかな音を立ててパフェをつついている女性がいた。
燃えるような真っ赤な髪。肩にかついでいるのは、派手な刺繍が施された黒のスカジャンだ。彼女はウエイトレスを呼び止めると、既にあるパフェを半分も平らげないうちに、二杯目のコーヒーを追加注文した。
「――で、あんたがメッセージくれた子で合ってる? 名前、なんだっけ。モクジちゃん?」
女性はスプーンを口に運んだまま、気さくに、けれどどこか値踏みするような鋭い視線で仮名子を見た。
「は、はい……木路です。あの、本当に、来てくださるなんて……」
「来るよぉ。インフルエンサーっていうと、なんだかキラキラして聞こえるかもだけどさ。私はいつでも面白いネタ募集中だかんね。特に、こういう街の裏側の匂いがする相談には、目が無いの」
女性はコーヒーにミルクをたっぷり注ぎながら、ニヤリと笑った。仮名子は少しだけ気圧されながらも、膝の上で固く握りしめていた鞄から、一束の紙を取り出した。
「……友達が、行方不明なんです。一週間前から、連絡が取れなくなって。それで、部屋に残されていたのが、これなんです」
差し出されたのは、レポート用紙に綴られた手書きの文章だった。
女性はコーヒーのカップを置き、それを受け取った。
「……へえ、遺言的なやつ? 自殺の予感?」
「いえ、違うんです。なんか……意味不明な、ポエムみたいな。でも、あの子、来週一緒にライブに行く約束をしてたんです。チケットもあの子が持ってるし、楽しみにしてて……。そう簡単に、何も言わずにいなくなったり、死んだりするような子じゃないんです!」
仮名子の声が、深夜の静かな店内に僅かに響く。
女性は手紙をパラパラと捲った。そこには確かに、物語の断片のような、あるいは支離滅裂な独白のような、歪な言葉が並んでいる。
「ふぅん……」
女性は興味があるのか無いのか分からない生返事を返すと、届いたばかりの二杯目のコーヒーを喉に流し込み、勢いよく立ち上がった。
「んじゃま、行こっか。私じゃ、これ以上は読み解けないし」
「……え? 行くって、どこへ?」
「そ。こういうの、読み解くのが得意な人たちがいるの。怪しい場所じゃないから、安心していいよ。……まあ、ちょっとだけ世捨て人みたいな奴らだけどね」
女性の愛車である、漆黒のランドクルーザーが夜の闇を裂いて走る。
仮名子は助手席で、窓の外に流れる装幀市の景色を眺めていた。車は中心街を離れ、さらに寂れた北側の古い区画へと入っていく。
やがて車が止まったのは、高い壁のようなシャッターが延々と続く、旧書店街の一角だった。
かつて装幀市が"本の街"として栄え、日本中の愛書家たちが集った時代の名残。今はただの、廃墟同然のゴーストタウンだ。
「……ちょっと、こんなところに何があるんですか? 全部お店、閉まってますよ」
「いいから、こっちこっち」
迷いのない足取りで進む女性の後を、仮名子は恐る恐るついていく。
冷たい夜風が、錆びついた看板を揺らし、キィキィと不気味な鳴き声を上げている。
そんな中、一軒だけ。
三叉路の突き当たりに、オレンジ色の暖かな光を漏らしている店があった。
看板には、古びた毛筆体でこう記されている。
「丑三ツ……書店?」
仮名子が小さくその名を読み上げると、前を行く女性が振り返って不敵に笑った。
「そ。この世で唯一、死者の声……届かなくなった誰かの本音に、耳を傾けてくれる場所だよ」
「死者……!? まだ、あの子は死んでると決まったわけじゃ……!」
「それも、ここでなら解るよ。あいつが"清書"すれば、嫌でもね」
女性は迷わず店の扉を押し開けた。
チリン、と鈴の音が響く。
店内に一歩踏み出した瞬間、仮名子は圧倒された。
壁を埋め尽くす圧倒的な蔵書の数。古書特有の、紙が年月を重ねて得た重厚な匂い。そして、どこかお香のような清涼な香りが、鼻腔をくすぐる。
「……いらっしゃい。朱音。また随分と、騒がしい時間を連れてきたね」
カウンターの奥、薄暗いランプの光の中に、一人の少女が座っていた。
着崩した和服を纏い、琥珀色の瞳を細めるその姿は、この世の時間の流れから切り離されたかのような、超然とした美しさを湛えている。
「そうだよ、すみちー! なんか、お友達が消えちゃったんだってさ。この手紙、なんか匂うと思わない?」
スカジャンの女性――朱音が、仮名子の背中をぽんと押した。
仮名子は言われるがまま、少女――朱音曰く、墨千代と呼ばれる彼女に、あの日記のような手紙を差し出した。
墨千代は細い指先で紙を受け取り、眼光鋭く文字をなぞる。
一分、二分。沈黙が流れる。
やがて、墨千代は満足そうに口角を上げた。
「ふふふ。……これが"絶筆"になるかどうかは、まだ私にも解らない。……けれど、真実はすぐに解るさ。それを正しく、"清書"してみればね」
「……清書?」
仮名子が首を傾げると、墨千代は店の奥、さらに深い書庫へと続く闇に声をかけた。
「――おーい、起きているかい。お客様だよ」
闇の中から、物音ひとつ立てずに、一人の青年が姿を現した。
現れたのは、ごく普通の、どこか冴えない雰囲気の青年だった。
涼やかな短髪の黒髪。整った顔立ちはしているが、街ですれ違っても気づかないほどに、その存在感は空に近い。
けれど、彼が墨千代から手紙を受け取り、その文字を一瞥した瞬間。
彼の瞳に、凄まじいまでの静かな熱量が宿るのを、仮名子は見た。
「……なるほど。これは、叫びですね。助けてほしいという声ではなく、自分の存在が消えてしまう前に、何かを遺そうとした痕跡だ」
青年は、仮名子に向き直ると、優しく、けれど頼もしい笑みを浮かべた。
「――ようこそ、"丑三ツ書店"へ。僕は、ここの"清書係"を務めている、白河 朔と言います」
朔は、手元の手紙を大切そうに自身の万年筆の傍らに置いた。
「木路さん。……文章というのは、書かれた瞬間に"過去"になります。けれど、その裏側に隠された想いは、正しく書き写されることで、再び"現在"として動き出す。……あなたのお友達が何を伝えたかったのか。僕が、責任を持って読み解きましょう」
仮名子は、彼の涼やかな瞳を見つめているうちに、不思議と胸の鼓動が静まっていくのを感じた。
朱音がカウンターに腰掛け、「さっくー、コーヒー淹れてよ。甘めのやつ!」と勝手に注文をつけている。
墨千代はいつの間にかソファで餅巾着のように丸まり、「……期待しているよ、朔。君の筆致を」と、欠伸混じりに告げる。
装幀市。
かつて多くの物語が生まれ、そして死んでいったこの街の片隅で。
今日も、届かぬ誰かの声が、一文字ずつ丁寧になぞられていく。
文字の裏地に隠された、真実という名の化け物を引きずり出すために。
今を生きる誰かが、明日へ一歩踏み出すための"物語"を完成させるために。
清書係・白河 朔の万年筆が、真っ白な原稿用紙の上で、静かに滑り始めた。
「――さあ、清書を始めましょうか」
深夜三時。
装幀市の夜はまだ明けない。
けれど、醜悪な真実と、美しい偽善が渦巻くこの街の裏側で、新たな頁が、力強く捲られた。




