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四十八頁目:空虚の器と、続く筆致


 深夜二時。装幀市が寝静まり、街灯だけが虚無を照らす時刻。


 僕は吸い寄せられるように、あの場所へと足を向けていた。


 三叉路の突き当たりに、ひっそりと、けれど確かな拒絶の色を持って佇む古本屋。


 "丑三ツ書店"。


 錆びついた呼び鈴が、チリンと夜の静寂を切り裂く。重い木製の扉を押し開けると、そこには外界の時間を止めたような、濃厚な古書と沈黙の匂いが満ちていた。


 カウンターの奥、薄暗いランプの光に包まれて、墨千代は顔を上げた。


 いつものだらけた姿ではない。和服の襟を正し、琥珀色の瞳に冷徹な知性を宿した、この店の主としての顔だった。


「……来たね、朔。どうやら、君の物語にはひとつ、句点が生まれたようだ」


 彼女の声は、頁を捲る音のように静かだった。


 僕はカウンターの前の丸椅子に、ゆっくりと腰を下ろした。


「……ええ、おかげさまで。定本の逮捕、二十年前の真相の解明。……一万字の絶筆から始まったあの狂騒は、ひとまずの終止符を打ったようです」


「そうかい。死者の声は、満足して消えたかな?」


「満足したかどうかは、僕には分かりません。ただ、……死者の声に耳を傾けることで、初めて見えてくる真実があるのだと、ようやく気づけました。文字の裏側、インクの染みの向こう側に、彼らは確かに存在していた」


 墨千代は、手元の古びた和綴じ本を閉じ、僕を真っ直ぐに見据えた。


「そうだね。私たちは、この世界を読みたいように読むことしかできない。自分にとって都合の良い文脈を選び取り、それ以外をノイズとして切り捨てる。……けれど、死者というのは、読みたいように世界を読めなかった人たちのことだ。道半ばで物語を奪われ、頁を破り捨てられた者たち。彼らの声は、生存者の論理とは違う位相から響いてくる。君はそれを、正しく受信したというわけだ」


 僕は自分の指先を見つめた。


 もし、あの日――。


 叔父・白河執の絶筆をこの書店に持ち込まなかったら。

 あるいは、墨千代さんに誘われた時、"清書係"をやると言わずに逃げ出していたら、どうなっていただろうか。


 叔父の死は"不摂生による心不全"として片付けられ、日下さんの死は"仕事のストレスによる自殺"として処理されただろう。そして二十年前、図書準備室で指を切られた羽住 実那という少女の悲鳴は、誰に届くこともなく、定本の栄光の足元で永遠に埋もれていたはずだ。


 それを暴いたのは、決して僕一人の力ではなかった。


 叔父が文字を歪ませ、日下さんが過去を保存し、実那さんが指を残した。


 彼ら一人ひとりが、最期に振り絞った"生きていた証"としての手がかり。僕はただ、清書係としてそれらを拾い集め、一本の線として繋ぎ直したに過ぎない。


「――墨千代さん、ひとつ、聞いてもいいですか?」


「……なんだい? 改まって」


「あの日……初めて僕がここに来た時。どうして僕を"清書係"に誘ってくれたんですか? 他にも、もっと経験のある書き手や、鋭い洞察力を持った大人はいたはずだ」


 墨千代は少しだけ考える素振りを見せ、ランプの芯を弄った。


 影が揺れ、彼女の瞳が妖しく光る。 


「……前にも言ったけどね、君の字が整っていて、なおかつ"空っぽ"だったからさ」


「……空っぽ、ですか」


「そう。清書係に必要なのは、自我ではない。書き手の情念をそのまま映し出すための、曇りのない鏡だ。君の筆致には、自分の色を混ぜようとするエゴがなかった。空虚な君は、死者の声を己のことのように感じるのに、都合がよかったんだよ」


 僕は苦笑した。褒められているのか、貶されているのか分からない。



「……それだけじゃ、ないでしょう? 墨千代さんは、僕の"裏地"も見ていたはずだ」



 問いかければ、墨千代は満足そうに口角を上げた。その笑みは、獲物を追い詰めた蛇のようでもあり、迷子を導く聖母のようでもあった。


「――ああ。何より君は、乾いていた。空虚な己を何かで満たしたいと……けれど、その方法も分からぬまま、内側から干涸らびようとしていた。君は"自分"という物語を書くことができない。だからこそ、他人の物語をなぞることで、かろうじて自己の輪郭を維持しようとしていた。……そうだろ?」


 心臓を、直接掴まれたような感覚だった。

 全く、その通りだ。

 

 叔父の無念を晴らし、この街の裏地をひっくり返して見せた。定本という怪物を引きずり下ろした。


 けれど、事件が解決した今、僕の手元には何が残っている?


 明日から大学に通い、再び"大学生の白河朔"という記号を演じる日々。そこには、僕自身の意志も、僕自身の物語もない。


 僕は相変わらず、空っぽの器のまま、夜の三叉路に立っている。


 その空虚を埋めたい。


 何者でもない自分を、死者たちの熱烈な人生の残滓で満たしたい。


 その歪んだ渇望を叶えるための方法を、僕はもう、一つだけ知ってしまった。


「……ねえ、墨千代さん」


「なんだい?」


 僕はカウンターの上に、自分の右手を置いた。


 指先が、微かに熱を帯びている。インクを求めて、疼いている。



「清書係、続けてもいいですか? ……僕の中身が見つかる、その日まで」



 墨千代は、僕の言葉を待っていたかのように、ゆっくりと頷いた。


 彼女はカウンターの下から、一冊の、まだ表紙さえついていない真っ白な合本を取り出した。


「いいだろう。……この街には、まだ読まれるべきではない、けれど誰かに読み解かれるのを待っている"裏地"が幾らでもある。死者は沈黙しない。ただ、代弁者を待っているだけだ」


 墨千代が、僕にその白い本を差し出す。


「君が空虚であればあるほど、より多くの声を書き留めることができるだろう。……さあ、次の頁を準備したまえ、朔。"清書係"の夜は、これからが本番だよ」


 僕はその本を、震える両手で受け取った。

 ずっしりと重い、未来の重み。


 定本誠志郎の事件は、僕という清書係の序章に過ぎなかったのだ。


 この街の暗がりに、叔父が愛し、日下さんが怯えた、この装幀市の深淵に、まだまだ多くの物語が眠っている。




「……はい。宜しくお願いします」




 僕は初めて、自分の居場所を見つけたような気がした。

 

 空っぽの器には、まだ多くのインクが必要だ。


 死者たちの、生者たちの、そして僕自身の物語を紡ぐために。


 深夜の"丑三ツ書店"。


 店主と清書係の影が重なり、新たな物語の筆致が、夜の闇に静かに刻まれ始めたのだった。


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