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四十七頁目:読了の余熱


 降り注ぐ五月の陽光が、大学の学生ホールの白い床に幾何学的な模様を描いていた。


 窓の外では新入生勧誘の喧騒も落ち着き、講義の合間の学生たちが、スマートフォンを眺めたり、友人と言い争ったり、あるいは手元の参考書と格闘したりしている。どこにでもある、退屈で、けれどかけがえのない日常の断片。


 僕はホールの隅の席で一人、ノートパソコンを広げていた。


 画面に表示されているのはワープロソフトの白いページ。点滅するカーソルは、一分経っても、十分経っても、その位置から動く気配を見せない。


 あの日から、数日が過ぎた。


 僕の指先からあの火傷のような痺れは完全に消え去り、後頭部の痛みも、今はかすかな違和感を残すのみとなっている。


「――はい、さっくー。お疲れさん。顔色が少しはマシになったんじゃない?」


 不意に視界の端から伸びてきた手が、僕のパソコンの隣に冷えた微糖の缶コーヒーを置いた。


 顔を上げると、そこには見覚えのある派手なスカジャンを羽織り、不敵に笑う女性が立っていた。


「……朱音さん。どうしてここに」


「何その顔。幽霊でも見たみたいなリアクションしちゃって。相棒が陣中見舞いに来てあげたんだよ」


 朱音は僕の向かいの席に断りもなく腰を下ろし、自分の分のブラックコーヒーを開けた。


「……僕、自分が通っている大学名とか、教えたことありましたっけ」


「無いけどさぁ、そりゃわかるって! うちの特定班、舐めちゃ駄目だぜ。さっくーの過去のSNSの投稿、写真の背景に映り込んだ建物、あと書店からの移動経路……。その気になれば、さっくーの今日の夕飯の献立まで当ててみせるよ」


「……恐ろしいですね。プライバシーなんて言葉、あなたの辞書にはないんですか」


 僕は溜め息を吐きながら、差し出された缶コーヒーを手に取った。プルタブを引くと、カシャッという乾いた音がホールに響く。一口煽ると、安っぽい甘さとカフェインが、停滞していた脳をわずかに揺り動かした。


「……定本が、正式に逮捕されたそうです」


 僕はノートパソコンの画面に視線を戻したまま、ぽつりと呟いた。


「おっ、お上にしちゃ随分と早いねえ。いつもは証拠がどうの、慎重な捜査がどうのって、牛歩戦術がお得意なのにさ。珍しく仕事したわけだ」


「まあ、表堂たちが現行犯に近い形で捕まりましたからね。そこから芋蔓式に裏の仕事が捲られたんでしょう。何より、今は国会が開会する前の空白期間です。議員としての不逮捕特権も、まだ発動していない。このタイミングを逃せば、次はないと警察側も踏んだんだと思います」


「ってことは、あのおっさん、ご自慢の政治家パワーも通じなかったわけだ。ざまぁないね」


「……ええ。その辺は本当に、朱音さんの功績ですよ」

 警察が重い腰を上げざるを得なかった最大の理由は、あの夜の朱音の生配信だった。

 

 僕が監禁されていた地下室に朱音が突入し、表堂たちを実力で制圧し、同時に定本誠志郎の二十年前の罪を、あの"指"を始めとする証拠と共に全世界へ暴露したあの回。


 配信は瞬く間に拡散され、SNSを中心とした世論のうねりは、もはや無視できる規模ではなくなっていた。

 

 揉み消すことも、誤魔化すこともできない。


 定本が所属していた政党側も、これだけの騒ぎになれば彼を庇い続けるのはあまりにリスクが大きいと判断したのだろう。事実、翌朝には党からの除名処分が検討され、定本は文字通り、一晩で権力の頂点から奈落へと転落した。

 

 蜥蜴(とかげ)の尻尾切り。


 定本という存在そのものが、組織にとっての"汚点"として処理されたに過ぎないのかもしれないと、僕は冷めた頭でそんなことを考えていた。


「えへへ、おかげでうちのチャンネル、フォロワー数もうなぎ登りだよ。各メディアからの取材依頼も止まらなくてさ。……ま、ちょ〜っと、お巡りさんにはこってり絞られたけどね」


「……当然ですよ。いくら相手が犯罪者とはいえ、警察の目の前であんな鮮やかな暴力は良くなかった。正当防衛を主張するにしても、加減というものがあるでしょう」


「あはは、手が……じゃなくて足が勝手に動いちゃったんだもん、仕方ないじゃん。さっくーが今にもペンチで指を引っこ抜かれそうだったんだから」


 朱音はケラケラと笑い、コーヒーを飲み干した。その表情には、大きな仕事をやり遂げた者特有の、晴れやかな充足感が漂っている。


「まあ、おかげさまで僕も、ようやく自分のアパートに帰れましたけど」


「ええ〜、私はまだまだ、あの撮影部屋(マンション)に居てくれて良かったんだけどなぁ。資料の整理は早いし、構成の相談には乗ってくれるし、コーヒーは淹れてくれるし。あんな便利な居候、手放すのは惜しいよ」


「アシスタントとしてこき使うつもり満々じゃないですか。全く、調子がいいんだから……」


 毒づきながらも、僕は自分の中に広がっている不思議な感覚を噛み締めていた。

 

 それは、重厚なミステリー小説を一本、最後の頁まで読み終えた後の読了感に似ていた。

 

 物語の謎は解け、悪役は罰を受け、伏線は回収された。


 叔父・白河 執が命を懸けて繋ぎ、日下――巻 良介がその正体を隠してまで守り抜こうとした"真実"は、今や白日の下に晒されている。

 

 定本誠志郎は、もうこの街の"裏地"を支配する王ではない。


 二十年前、図書準備室で指を切られた羽住実那という少女の死も、これで少しは報われたのだろうか。

 

(……そうか。本当に、終わったんだな)


 非日常に彩られた、あの狂気じみた毎日は幕を閉じた。

 

 叔父の遺品整理から始まったこの奇妙な旅は、ここで終わり。


 僕は再び、ただの小説家を志す大学生という退屈な肩書きの中へと戻っていく。


 明日からはまた、意味のない講義を受け、単位を気にし、空虚なワープロソフトの画面と向き合う日々が始まる。


「……さっくー」


 朱音が、不意に真面目なトーンで僕を呼んだ。


「あんた、これからどうするの? 定本の事件が解決して、執さんの名誉も回復して。……もう、私の動画の手伝いも、丑三ツ書店のバイトも、やる理由は無くなったでしょ」


 僕は缶コーヒーの飲み口を見つめた。

 

「……そうですね。元々は、叔父さんの死の真相を知るための"清書"でしたから」


「大学にも、こうして普通に戻ってこれたわけだしさ。ま、さっくーならどこでだってやっていけるだろうけど」


 朱音は席を立ち、空になった缶をゴミ箱へ放り投げた。放物線を描いたアルミ缶が、カランと小気味よい音を立てて吸い込まれていく。


「気が向いたら、また連絡しなよ。……あ、でも、特定班に自宅を特定される前に、自分から連絡してくることをお勧めするけどね!」


 朱音は茶目っ気たっぷりにウインクをすると、賑やかな学生たちの波の中へと消えていった。


 再び一人になった僕は、目の前のパソコンの画面を見つめた。


 相変わらず、カーソルは点滅を繰り返している。

 

 日常への帰還。


 それは喜ばしいことであるはずなのに、僕の胸の奥には、どこか冷たい風が通り抜けていくような空虚さが残っていた。


 物語を読み終えた読者は、本を閉じ、現実の世界へと戻らなければならない。


 けれど、その本があまりに鮮烈であったなら、読者はしばらくの間、日常の色彩が酷く色褪せて見える呪いにかかってしまう。


 

 僕はゆっくりと、パソコンの電源を落とした。

 


 ここは、日本の片隅にある街、装幀市。

 世界は今日も恙無く回っている。


 けれど、その街のどこかに、まだ書き留められていない"裏地"があることを、僕は知ってしまった。


 僕は鞄を肩にかけ、日の当たる学生ホールを後にした。


 向かうべき場所は、決まっている。



 僕が帰るべき――もう一つの日常へと。



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