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丑三ツ書店の清書係 〜指切り心中〜   作者: 入江 鋭利
最終部「指切り心中」
49/50

四十六頁目:正義の味方


「文鎮……だと? ふざけやがって……。そんなガラクタの中に、あの指が隠されてたっていうのかよ……!」


 表堂 の貌は、言葉通り鬼の形相へと変じ、怒りに任せて激しく歪んでいた。その手に握られたペンチが、ギリギリと音を立てて震えている。


 文鎮。


 それは本来、机上の平穏を守るための道具だ。氾濫する言葉の奔流を、風に流されやすい紙の上の真実を、その重みで繋ぎ止めておくための楔。


 叔父は、かつて巻から託されたその凄惨な"真実"を、標本用の透明な樹脂で固め、真鍮製の文鎮の奥底に塗り込めた。そして、それを自分の家の書斎に置くのではなく、僕に託したのだ。


 その理由が、僕こそが最も信頼する"読者"であったから――そうなら、嬉しいのだが、もうそれを確認することもできない。


「……気づかなかったのも無理はありませんよ」


 表堂を煽るように、僕は静かな声で続けた。


「僕自身、その存在に明確な確信を持ったのは、ほんの一昨日くらいの話です。……あなた方は、あのアパートを家探ししたとき、確かにその"証拠"に触れていた。処分するチャンスは幾らでもあったはずなのに、みすみすそれを見逃したわけだ」


「……あんなモン、ただの真鍮の塊だろ! 誰がそんな、古臭い文房具の中に死体の一部が入ってるなんて思うかよ! お前が最後、役に立たねえ武器代わりに掴んで逃げようとしたとしか、思わなかったんだよ……!」


 表堂が喚き散らす。その屈辱に満ちた絶叫を聞きながら、僕はこんな極限状態だというのに、思わず乾いた笑みが溢れるのを止められなかった。


(ああ……叔父さん。やっぱり、あなたの勝ちだ)


 叔父さんなら、今頃あちら側でどんな顔をしているだろうか。


『朔、小説家の仕事は、書くことだけじゃない。読者が何を見落とすかを計算することだ』


 なんて、いつものように得意げに微笑む姿が目に浮かぶ。


「つまり、僕もあなたたちも、叔父さん――作家・白河 執のロジックに踊らされたってわけです。彼は、あの一万字の"絶筆"という壮大な仕掛けを使って、僕を正解へと導き、あなた方を盲目へと誘った」


「……何がロジックだ、何が作家だ! ふざけやがって、たまたま気付いただけじゃねえか!」


「ええ、仰る通り、偶然も助けてくれましたが――ただ、僕とあなた方には、一つだけ致命的な違いがあったんです」


「……違いだあ?」


 一歩、表堂が足を踏み出す。ペンチの先が、僕の鼻先に迫る。


「ええ。……これでも僕は作家志望ですから。……あなた方とは違って、僕はちゃんと本を読むんですよ。……作者の意図を、一文字ずつ丁寧にね。……ちゃんと読めば、伝わるんですよ。どれほど深い裏地に隠された叫びであっても」


 文章とは、本来そういうものだ。


 勝手に読み飛ばすから。都合よく意訳するから。あるいは、記号としてしか見ないから、真意が伝わらない。


 言葉の羅列に心を砕き、書き手の孤独に寄り添い、過不足なく丁寧に読解する。そうすれば、どれほど厳重に封印された真実であっても、必ず受け取り手に届くようにできている。

 

 僕が叔父の隣で、長年なぞり続けてきたのは文字だけではない。


 文字の裏側にある、決して言葉にはならない、信頼という名の文脈だった。


「……この状況でお前、よくそんな余裕ぶったことが言えたな。……ああ、いいぜ。もう全部終わりだ。征ちゃんが捕まろうと、国がひっくり返ろうと構いやしねえ。……ムカつくお前だけでも、ここで確実に殺してやる。てめえのツラを、ペンチで根こそぎ引き剥がしてやるよ!」


 額に青筋を浮かべ、表堂が完全に理性を失った目でペンチを握り直す。


 殺意が具現化したような、重苦しいプレッシャーが地下室を支配する。


「……残念ながら、それはできませんよ、表堂さん」


「……あ? どうしてそう思う? 誰が止めるってんだ、この暗闇の中でよお!」


「来るからです」


 僕は、床に転がったままのスマートフォンに視線を向けた。




「――"正義の味方"が。……遅れてやってくるのが、定石でしょう?」




 その言葉と同時に、スマートフォンのスピーカーから、割れんばかりの歓声のようなノイズと、聞き慣れた声が流れ出した。



『――それじゃあ今から、迎えに行きたいと思います! この装幀市の闇に囚われた、うちの新人を……私の最高に生意気な相棒をね!』


 

 ドォォン!!

 


 地下室の重い鉄扉が、外部からの衝撃で激しく鳴動した。

 

 扉が開く。


 遠くから響く複数の足音。それは統制の取れた、迷いのない響きだった。

 

 埃が舞う暗がりの向こうから、光を背負って一人の女性が姿を現した。

 

 奥附 朱音。

 

 彼女は、いつもの動画配信で見せるような派手な衣装ではなく、泥と汗に汚れたパーカー姿だったが、その唇には不敵な、そして最高に頼もしい笑みが刻まれていた。


「悪かったね、さっくー。……迎えが、少しだけ遅くなっちゃった」


 朱音は、部屋の中の凄惨な状況を一瞬で把握し、表堂たちを鋭い眼光で射抜いた。


「……まったくですよ、朱音さん。あなたはいつだって、勝手なんだから。……視聴率を稼ぐために、わざとギリギリまで待ったんじゃないですか?」


 僕は安堵で力が抜けそうになるのを堪え、精一杯の強がりを口にした。


「おい、てめえら! それ以上近付くな!!」


 朱音の背後に複数の警官の影が見えた瞬間、表堂は反射的に僕の背後に回り込み、僕の首に腕を回して引き寄せた。


「こいつがどうなってもいいのか!? 一歩でも動いたら、その場で喉を――」


「――先手必勝!!」


 脅しの言葉が最後まで紡がれることはなかった。


 朱音は、警官たちが動くよりも早く、地を蹴った。

 

 彼女の小柄な体からは想像もつかないほど鋭く、重い膝蹴りが、表堂の脇腹へと正確に突き刺さった。


「――が、はっ……!?」


 衝撃で表堂の体が浮き、僕の拘束を解いて壁際まで弾き飛ばされる。


 その一瞬の隙を、プロの集団が見逃すはずがなかった。


「動くな! 警察だ!」


「全員、手を上げろ!!」


 怒号と共に、十数人の警官たちが室内に雪崩れ込む。


 定本の取り巻きたちは、抵抗する術も、逃げる気力も失ったまま、あっという間に床に押さえつけられ、銀色の手錠をかけられていった。


 白光のライトが室内を照らし、二十年間この街を支配していた闇が、物理的にも、比喩的にも晴らされていく。


 床に転がり、悶絶している表堂を冷めた目で見下ろしながら、朱音は僕の元へ歩み寄った。彼女は手慣れた手つきでナイフを取り出すと、僕の手足を縛っていた無骨なロープを鮮やかに切り裂いた。


「……ふぅ。お待たせ、相棒」


 拘束から解放され、血の巡りが戻る痺れに僕は顔をしかめた。


 朱音が差し伸べてくれた手を、僕は躊躇わずに取る。

 

 立ち上がった僕の目に、朱音の晴れやかな、どこか誇らしげな微笑みが映った。


「勝ったね、さっくー。……おめでとう。……私たちが、あの街の裏地を全部ひっくり返してやったんだよ」


 僕は、震える自分の指先を見つめた。


 あの火傷のような痺れは、いつの間にか消えていた。

 

 代わりに胸の中に広がっていたのは、インクを使い果たした後のような、心地よい虚脱感。



「――ええ。……これにて、ようやく"脱稿(だっこう)"……といったところでしょうか」



 建物の外に響く、パトカーのサイレンもどこか遠く。

 

 叔父・白河 執が遺し、日下が繋ぎ、羽住 実那が待ち続けた物語。


 その最後の一文字を、僕は今、この手で書き終えたのだ。

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