四十五頁目:裏に鎮めた真実
地下室に漂う黴臭い空気は、凍りついたまま動かない。
表堂 が手にした錆びたペンチが、僕の左の薬指に冷たく、そして執拗に押し当てられている。その不快な金属の感触が、神経を逆なでし、じりじりと焼けるような幻痛を脳に送ってくる。
定本 誠志郎の当確を告げるテレビの音声が、無機質に部屋の隅へと流れていく。表堂はその音を背負い、勝ち誇った笑みを浮かべ、僕の返答を待っていた。
けれど、僕は震えてはいなかった。
むしろ、喉の奥からせり上がってくる奇妙な高揚感を、必死に抑えていた。
「……じゃあ、あなたたちはまだ、最後の指の在処を掴めていないんですね」
掠れた声で、僕は問いかけた。
表堂の笑みが、一瞬だけ不機嫌そうに歪んだ。
「あ? そりゃそうだろ。じゃなかったら、お前みてえなクソガキ、とっととなぶり殺しにして、今頃は征ちゃんの祝杯に混ざってるっつーの。……しらばっくれんのもそこまでにしとけよ。巻も白河も持ってなかったんだ。となりゃ、在処を知ってるのはお前だけだ」
表堂はペンチを強く握り込み、脅すように僕の指の付け根に力を込めた。
「俺らに捕まる前に悪足掻きをしようとしてたみてえだが、それも上手くいかなかったんだろ? 在処を話せば、少しは楽にしてやるって言ってんだよ」
その言葉を聞いた瞬間。
僕の頬が、自然と緩んだ。
暗い地下室で、僕は乾いた音を立ててニヤリと笑う。
「……そうですか。それは良かった」
「……何がおかしい」
表堂が、怪訝そうに眉を寄せた。その目に宿る狂気が、僅かな不安によって揺らぎ始める。
「――なら、僕たちの勝ちだ」
「……あ?」
僕は表堂を、その濁った瞳の奥まで真っ向から見据えた。
縛り付けられた全身の痛みも、死の恐怖も、今の僕にとっては想定通りの筋書きの一部に過ぎない。
「あなたたちが指を見つけられていない。……それは、僕たちが投げた"真実"が、あなたたちの網をすり抜けて、正しい読み手の元へ届いたっていう証拠です。それなら、きっとあの人は……僕の相棒は、必ずやり遂げる」
「何言ってんだ、お前。……この状況で、脳みそまで腐っちまったのか? 定本は当選した。もう無敵だ。お前が何を投げようが、そんな小細工一つで――」
「――いいえ、違います。定本を無敵にしていたのは、"証拠がない"という一点だけだった。……でも、その空白はもう埋められたんだ。叔父さんの絶筆、日下さんの執念、そして羽住 実那さんの失われた二十年。それらを繋ぐ、決定的な最後の一行が、今、この街に清書されているところですよ」
「……うるせえぞ、てめえ……!!」
苛立ちが爆発した表堂が、獣のような咆哮を上げてペンチを大きく振り上げた。
そのまま、僕の指を、あるいは命を砕くために振り下ろされようとした、その刹那――。
「……ッ、表堂、これ……! ニュース、見ろ!!」
背後でモニターを見張っていた仲間の一人が、悲鳴のような声を上げた。
「あ!? なんだよ、邪魔すんじゃねえ、今からこいつを――」
振り返った表堂の言葉が、遮断された。
壁際の古いテレビ。
先ほどまで定本の万歳三唱を映し出していた華やかな画面が、血の気が引くような真っ赤なニュース速報のテロップに塗り替えられていた。
『――臨時ニュースをお伝えします。たった今、初当選を確実にしたばかりの定本 誠志郎氏に対し、殺人容疑で逮捕状が請求されたとの情報が入りました。……繰り返します、定本氏に逮捕状です』
画面の向こう側。
胸に深紅の薔薇を刺し、勝利の美酒に酔いしれていたはずの定本の顔が、生放送のカメラの前で見る見るうちに土気色へと変わっていく。
SPや支持者たちが騒然となり、押し寄せる記者たちのマイクが、定本の"完璧な装幀"を無残に剥ぎ取っていく様が、日本中に放映されていた。
「は!? 逮捕状……!? バカな、何でだよ!! まだこいつを捕まえてから一晩しか経ってねえし、証拠だって二十年も前の心中だぞ!? 何でそんな簡単に、征ちゃんが……俺たちが、逮捕されるわけねえだろ……!!」
表堂のペンチが、床に虚しく転がった。
「……表堂、見ろ。これ、これを見ろ……! ネットが、もう……!!」
仲間が震える手で差し出したスマートフォンの画面。
それを見た表堂の顔は、怒りと絶望でどす黒く染まっていく。彼は再び僕に詰め寄り、その胸ぐらを掴んで揺さぶった。
「……おい、この巫山戯た投稿は、お前の仕業か……!! お前らが、全部仕組んだのか……!?」
画面に映っていたのは、SNSで爆発的な勢いで拡散されている、ある一つの投稿だった。
『【スクープ】装幀市の「指切り心中」、二十年目の真実』
『清廉潔白を装う当選議員・定本 誠志郎の、血塗られた過去を清書する』
そこには、僕たちが辿り着いた"指切り心中"の凄惨な実態。定本を含む四人の共犯者たちの実名。そして、その背後で二十年耐え忍び――名も人生も、何もかもを捨てた男のことも。
物語の"裏地"に隠されていた地獄が、誰にでもわかる明晰な文章で、事細かに記されていた。
そして、表堂の震える指が、その記事の末尾にある配信URLに触れる。
同時に、地下室に場違いなほどに明るく、凛とした声が響き渡った。
『――みんなぁーっ! あかねチャンネルにようこそ! 待たせたね、選挙の結果よりもずっと面白い、特大の特ダネ……あの投稿は、もう見てくれたかな!?』
スマートフォンのスピーカーから溢れ出したのは、朱音の声だった。
画面には、夜道を小走りで進む一人称視点の映像が映っている。街灯が流れ、遠くでパトカーのサイレンが鳴り響く。
『すっごい話だよね! 汚職代議士とか裏金議員なんてのはよく聞くけど、"現役の殺人代議士"なんてのは前代未聞! でもね、これは都市伝説じゃない。……二十年前、あの日、図書準備室で何が起きたのか。それを証明する最後のピースは、もう警察の手にあるんだから!』
脳天気な調子で話し続ける朱音の声をBGMに、僕は驚愕し、立ち尽くす表堂を見つめた。
「……指は、ずっと僕の部屋にあったんですよ。それも、それなりに長い間、ね」
「何言ってやがる……。お前の部屋は、俺たちが隅から隅まで家探しして……壁まで剥がして……!!」
「清書係と、叔父さんにしか解けない暗号があったんです」
僕は、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
後頭部の痛みも、縛られた四肢の感覚も、今はもう気にならなかった。
「叔父さんの絶筆に残された、あの四文字。一・重・裏・鎮。……これは、別に難しい言葉遊びじゃなかった。叔父さんは至極ストレートに、僕に指の在処を伝えていた。他の誰でもない、僕だけにわかる文脈で」
僕は、あの叔父の書斎で、初めて筆を持たされたあの日を思い出す。
「一――これは、シンプルに形状を表していました。細長く、水平に置かれるものの形」
「重――これは、その用途です。重りとして、何かを押さえるために使用されるものであるということ」
「裏――これは、叔父さんがよく言っていた"物語の裏地"……ではなく、単純に内部に塗り込められていることを表していた」
「そして、鎮――これは、その隠し場所の名称を直接指していました」
僕は、混乱する表堂の目を射抜くように続けた。
「つまり、指が隠されていた場所は――」
それは、僕が大学へ入学する時、叔父が"お守りだ"と言って手渡してくれた、あの古風な文房具。
「――文鎮。僕が叔父さんから貰った、あの真鍮製の文鎮の中に、羽住 実那さんの指は隠されていたんです」




